片岡千恵蔵
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片岡千恵蔵(かたおかちえぞう、旧字体;片岡千惠藏、明治36年(1903年)3月30日-昭和58年(1983年)3月31日)は、大正・昭和期の歌舞伎出身の俳優。本名は植木正義。戦前・戦後の長期にわたり、時代劇人気を支えた不滅の剣士スターである。
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[編集] 生涯
[編集] 戦前・戦中
群馬県に生まれ、東京で育った。9歳で、11代目片岡仁左衛門の主宰する「片岡少年劇」に入門し、座頭として将来を嘱望される活躍を見せる。
しかし、映画の世界に転じる決意をし、1923年、小笠原プロの『三色すみれ』で主役を務めた後、1927年、直木三十五の紹介で、マキノ映画制作所に入り、吉川英治原作の『万花地獄』に出演したのを皮切りに精力的に出演するが影が薄く、1928年に伊丹万作、稲垣浩監督らを抱える独立プロ「片岡千恵蔵プロダクション」を創立した。そこで、伊藤大輔監督に「明るい時代劇が似合う」と助言され、『弥太郎笠』、『一本刀土俵入り』、『国士無双』など娯楽色の強い作品を次々と送り出し、評判をとった。1931年には『元禄十三年』で共演した入江たか子との大ロマンスが話題となった。とりわけ1936年(昭和11年)の『赤西蠣太』等が名作として名高い。
やがて、映画会社の戦時統合によって大映入りし、阪東妻三郎・嵐寛寿郎・市川右太衛門と共に大映の「時代劇四大スタア」に数えられた。日活の大河内傳次郎、東宝の長谷川一夫とあわせて「時代劇六大スタア」とも呼ばれた。
[編集] 戦後
戦後は、東横映画を経て、東映の創立に参加し、市川右太衛門とともに重役兼トップスターとして活躍した。当時、千恵蔵は京都の山の手(嵯峨野)に住んでいた事から「山の御大」、右太衛門は北大路に住んでいたので「北大路の御大」と呼ばれたという。
GHQの占領政策によって剣劇製作が出来なかった時代には、「多羅尾伴内」シリーズや「金田一耕助」ものを当たり役とする現代ミステリ映画で切り抜け、新境地を開いた。
昭和30年代の東映時代劇では、戦後時代劇での当たり役遠山の金さん(「いれずみ判官」シリーズなど)や「大菩薩峠」三部作などの代表作に出演した。作品としては「血槍富士」が名作として名高い。日本映画黄金期の顔として活躍した。
昭和30年代後半以降は、若手スターの中村錦之助や大川橋蔵に主役の座を譲って次第に出演本数を減らすようになっていった。が、この時代劇衰退期にあっては、東映の重役として集団抗争劇等を模索して「十三人の刺客」に主演。その後、主役に拘って映画から退いた市川右太衛門とは対照的に、東映任侠映画の脇役等もこなした。晩年はテレビシリーズの「大岡越前」(加藤剛主演)の父親役としても親しまれた。
80歳で他界した時には、東映への大いなる貢献により「東映葬」が執り行われた。
[編集] 代表作
- 万花地獄(1927年)
- 天下太平記(1928年)
- 一本刀土俵入(1931年)
- 国士無双(1932年)
- 弥太郎笠(1932年)
- 赤西蠣太(1936年)
- 鴛鴦歌合戦(1939年)
- 続清水港(1940年)
- 宮本武蔵(1940年)
- 維新の曲(1942年)
- 七つの顔(1947年)
- 八ツ墓村(1951年)
- 血槍富士(1955年)
- 大菩薩峠(1957-59年)
- 多羅尾伴内 七つの顔の男だぜ(1960年)
- 花の吉原百人斬り(1960年)
- 維新の篝火(1960年)
- 赤穂浪士(1961年)
- 十三人の刺客(1963年)
- 真田幸村の謀略(1979年)
[編集] 文献
- 田山力哉『千恵蔵一代』社会思想社、1987年。社会思想社〈現代教養文庫〉、1992年。
- 東映太秦映画村映画資料館編『千恵蔵映画』東映京都スタジオ、1980年。
- 冨田美香編『千恵プロ時代-片岡千恵蔵・稲垣浩・伊丹万作-洒脱にエンターテインメント 』〈映画読本〉フィルムアート社、1997年。
- 『日本無声映画俳優名鑑』(無声映画鑑賞会/編、株式会社マツダ映画社/監修)