生麦事件
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生麦事件(なまむぎじけん)は、江戸時代末期の文久2年8月21日(1862年9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現 神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩士がイギリス人を殺傷した事件である。京急本線生麦駅近くに事件の石碑が残る。
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[編集] 経緯
江戸から京都に向かう途中であった薩摩藩主島津茂久(モチヒサ)の父・島津久光の行列が生麦村に差し掛かった折り、前方を横浜在住のイギリス人4人(ウィリアム・マーシャル、ウッジロップ・チャールズ・クラーク、チャールズ・レノックス・リチャードソン、マーガレット・ボロデイル)が乗馬のまま横切った。これに怒った一部藩士が斬りかかり、リチャードソン1人が死亡、マーシャルとクラークの2人が負傷した。彼ら4人は無礼を平気で行った訳ではなく、大名行列とすれ違う際に慎重に極力左端を通ろうとしたが、道が狭かった故に図らずも行列の中に馬を誤って進めてしまい、馬自身も興奮のあまり久光の列を乱してしまったのが真相である。但し彼らの祖国イギリスでは、貴人が馬車や乗馬姿で通る際、道を譲った上に手綱を締め(馬が暴れない様にする)脱帽して片膝を付いて座り敬意を示した上で見送ると云うのが礼儀であり、行列を乱さない様気を使った行動をしたとは云え、乗馬姿で通った行為は、他民族に対し侮辱的で欠礼な振舞いした事は事実であり、彼らの行動が事件の原因と非難されても仕方がないとも言える[1]。事実殺害されたリチャードソンは中国での滞在期間が長く、経験上から「東洋人には強い意志で対応しなければならない」と云う差別的な考えを持っており(実際中国人を馬上から鞭で打ち付ける様な行為を行っていたと云われている)、日本人に対しても同じ様な考え方を持っていた。来日してからの期間が短かったとはいえ、日本の習慣や礼節を踏み躙る様な振舞いをした事が事件のきっかけとなったと云える。
この事件でイギリスは薩摩藩に関係者の処罰と賠償を要求するが、薩摩藩は拒否し、結果として翌年薩英戦争が勃発する。
[編集] 生麦事件を題材とした作品
- 吉村昭『生麦事件』上、下(新潮文庫、2002年)
[編集] 脚注
- ^ 事件が起こる前、島津の行列に遭遇したアメリカ領事館書記官のバンリードは、すぐさま下馬した上、馬を道端に寄せて行列を乱さない様に道を譲り、脱帽して行列に礼を示した。薩摩藩士側も、外国人が行列に対して敬意を示していると了解し、特に問題も起らなかったと云う。バンリードは日本の文化を熟知しており、大名行列を乱す行為がいかに無礼な事であるか、礼を失すればどういう事になるかと云う事を理解しており、後に生麦事件の状況を知ったバンリードは、「彼らは傲慢にふるまった。自らまねいた災難である」とイギリス人4名を非難する意見を述べている。