石橋氏
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石橋氏(いしばしうじ)は日本の氏族。甲斐、美濃、下野、三河、尾張、相模、武蔵、常陸等に石橋村がありこれ等より起こる。源姓の石橋氏が最も有名である。現在千葉県、島根県、福岡県等に多い
- 清和源氏義綱流 美濃国石橋より起こる
[編集] 足利氏流
足利泰氏の長子斯波家氏の長子は上野国広沢郷を伝領し、広沢義利と名乗った。その子は三河国吉田郷に移り住み、吉田義博と名乗る。その子は石橋和義を名乗る。和義は宗家である斯波高経の下、足利尊氏に従い、尊氏西走の時、備前国三石城の守備を任された。和義は脇屋義助に包囲されながらも城を守りきり、戦功を上げた。これにより、伯耆国、備後国、若狭国などの守護を歴任したほか、引付頭人、評定衆と幕府の重役を歴任した。しかし、貞治2年(1363年)、宗家である斯波高経、義将父子と対立し、全役職をとかれて失脚してしまう。
貞治5年(1366年)、斯波高経が失脚すると将軍義詮は和義の子棟義を抜擢して奥州管領斯波直持と吉良貞経と協力して吉良治家を追討させた。棟義は治家を没落させた後も軍事指揮権を維持したまま、土着化する。さらに父和義も奥州に下向し、棟義の支配を助けた。盛んに安堵状を発給し、その量は奥州管領斯波詮持をも凌駕した。しかし、至徳3年(1386年)を境に消息が途絶える。その後正長・永享期には嫡流と思しき「石橋左衛門佐入道」が在京すると共に、正長元年(1428年)の『満済准后日記』に「奥篠河殿、並伊達蘆名白河懸田川俣塩松石橋也」と登場し、安達郡東方を分郡に塩松を名字とする庶流を分出していた。
室町時代は吉良氏や渋川氏とともに、足利一門の名門御一家として幕府内において重きを成した。
石橋塩松氏は京都扶持衆として鎌倉府の奥州支配に対抗した。鎌倉府が永享の乱で崩壊した直後の永享12年(1440年)、笹川御所足利満直は畠山満泰、畠山持重、石橋左近将監、石橋祐義、蘆名盛信、田村利政らに攻められて殺害されたとの説もあるが石橋氏の関与は疑問。享徳の乱では塩松松寿という人物が奥州で活躍している。『余目氏旧記』で塩松氏(石橋氏)は高い家格を誇っていたこともわかる。
戦国時代に入り伊達氏の後継争いから生じた天文の乱では塩松尚義は植宗派として参戦したが、後に晴宗派に鞍替えしている。しかし、天文19年(1550年)尚義は重臣の大内定頼に下克上され、城内に監禁され実権を奪われた。そして天正5年(1577年)に失意のうちに死亡したという。これにより石橋は滅亡し、以降塩松氏というと大内氏のことをさすことになる。