立花家花橘
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立花家 花橘(たちばなや かきつ)は、音曲・落語の名跡。現在は空き名跡となっている。初代・2代目共に師匠は立花家橘之助。2代目は後に吉本興業所属。
「立花家」の亭号は、もともと色物の音曲師などのものであるが、後には落語家も名乗るようになった。
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[編集] 初代
初代 立花家花橘(1881年2月 - 1906年9月16日)は、本名: 加藤よね。女流音曲師。初代春風亭柳條は実父。享年25。
初め子役で柳家枝女子(あるいは〆子)を名乗り、3歳の時には高座に上がっていた。その後、立花家橘之助に入門し、1895年12月に立花家花橘と改名。音曲手踊りの花形として活躍したが、若くして亡くなった。
『萬朝報』1906年9月19日付の訃報によれば、同年同月17日没、享年33とあるが、この享年は恐らく誤り。6代目林家正蔵『墓誌(技芸士招魂録)』によれば、同年同月16日没、享年26とある(この享年は数え年)。墓所は浅草・源空寺、元麻布・光善寺の2説ある。法名: 賢譽妙惠信女。
[編集] 2代目
2代目 立花家花橘(1883年 - 1951年9月23日)は、上方噺家。本名: 菱川一太郎。享年68。
徳島生まれ。1899年に来阪し、素人仁輪加に加わる。その後、初代笑福亭福松門下に入門し、福二を名乗る。1901年、第二此花館で初高座。次に5代目林家正三門下で正六、2代目桂文團治門下で一團治を名乗る。後、東京に移り、三遊派に籍を置き、初代桂小南門下で一奴。その後、立花家橘之助門下で2代目花橘を襲名。しかし、先代が音曲師であった為に、2代目を継ぐ時、周囲に反対されたという。
晩年は上方に戻り、三友派に席を置き、後に吉本興業に移る。晩年は吉本を離れ、5代目桂文枝や3代目桂春團治に多くの稽古を付けた。
音曲師としても修行したためか、芝居噺が得意であった。また、口調がはっきりとした芸風のため、SPの吹き込みに向いており、吹き込み数では初代桂春團治に次いで数多い。
体の後ろ首筋の少し下に、家紋の刺青を彫っていた。これは、恐らく文團治門下であった時、周囲に感化されたのであろう。
弟子に立花家一奴がいる。
[編集] 出典
- 『落語系圖』(月亭春松編)
- 『古今落語系図一覧表(文之助系図)』(日本芸術文化振興会、2004年)