織田萬
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織田 萬(おだ よろず、1868年7月4日 - 1945年5月26日)は、行政法学者、京都帝国大学名誉教授、常設国際司法裁判所判事。佐賀県須古村生まれ。
佐賀県須古村の士族、須古精一の次男として生まれるが、1歳の時に織田範治の養子として迎えられ、織田家の子供として育てられた。1883(明治16)年、司法省学校への入学を目指して上京。翌年秋には定員50名に対して受験者約1,500名という狭き門を突破して同校予科へ進学。その後学制改革により、第一高等中学校予科へ編入されることとなった。卒業後は帝国大学(現在の東京大学)法科大学に進学、仏法学科に在籍しフランス法に触れた。帝大時代は、後に京都帝国大学法科大学で同僚となる、憲法学者の井上密(京都帝国大学法科大学教授、京都法政学校教頭)や、その後文部省官僚として京都帝国大学の設立に関わり、立命館大学の総長となる、中川小十郎らと同期生であった。
大学院では行政法を学び、卒業後は東京専門学校(現在の早稲田大学)、日本法律学校(現在の日本大学法学部)で講師を務めながら行政法の研究を深め、1895(明治28)年には、自身初の著作である『日本行政法論』を出版。この著作が縁となり、元老西園寺公望の知遇を得た織田は、西園寺の勧めによって1896(明治29)年からの4年間、ヨーロッパへ留学し、主にフランスで過ごすこととなった。
ヨーロッパ留学から帰国した後は、京都帝国大学教授に就任。行政法の教授を担当した。その後、関西法律学校(現在の関西大学法学部)講師となると同時に、帝大時代同級生だった中川小十郎が設立した京都法政学校(現在の立命館大学)の「維持員」として講師に就任している。そして1914(大正3)年からは立命館大学教頭、1918(大正7)年からは関西大学学長に就任した。
1921(大正10)年、日本人として初めて常設国際司法裁判所判事に当選。1930(昭和5)年の任期満了までの9年間ハーグに常駐した。
帰国後は、貴族院議員に勅選され、1931(昭和6)年には勲一等瑞宝章を授与されている。
1945(昭和20)年5月26日の東京大空襲により夫人とともに戦没。死因は焼夷弾から出たガス中毒であった。享年77。