藤原秀郷
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藤原秀郷(ふじわらのひでさと、生没年不詳)は、平安時代中期の武将。藤原北家の魚名の後裔で、下野大掾村雄の子。母は下野掾鹿島の女。幼いころ京都の近郊の田原の地に住していたことから、別名「俵藤太(田原藤太)」(たわらのとうだ)と呼ばれる。官位は従四位下、下野守兼武蔵守鎮守府将軍。室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山の百足(むかで)退治の伝説で有名。もとは下野掾であったが、平将門追討の功により、従四位下に昇り下野、武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大。源氏、平氏と並ぶ武門の棟梁として、多くの家系を輩出した。
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[編集] 略歴
下野国(現在の栃木県)の国衙の在庁官人として勢力を保持していたが、延喜16年(916年)隣国上野国衙への反対闘争に加担連座し、一族17(18?)名とともに流罪とされた。しかし王臣子孫であり、かつ秀郷の武勇が流罪の執行を不可能としたためか服命した様子は見受けられず、逆に延長5年(927年)に下野国押領使に任じられたとされる、。更にそのわずか2年後の929年には、乱行のかどで下野国衙より追討官符を出されている事から、押領使任命を疑問視する説もある。唐沢山(現在の佐野市)に城を築いた。
天慶2年(939年)平将門が兵を挙げて関東8か国を征圧する(天慶の乱)と、平貞盛と連合し、翌天慶3年(940年)2月、将門の本拠地である下総国猿島郡を襲い乱を平定。この功により同年3月従四位下に叙され、11月に下野守に任じられた。さらに武蔵守、鎮守府将軍の役も兼任するようになった。
なお、実際の系譜について毛野氏ではないかとする説もあるが、藤原氏として任官されている点や、その子孫が同様に遇されていることなどから公式には藤原氏として認められていたことは否定できない。
[編集] 百足退治伝説
近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなったが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまった。その夜、美しい娘が藤太を訪ねた。娘は琵琶湖に住む龍神一族の者で、昼間藤太が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えたものであった。娘は龍神一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願した。藤太は快諾し、剣と弓矢を携えて三上山に臨むと、三上山を7巻き半する大百足が現れた。藤太は矢を射たが大百足には通じない。最後の1本の矢に唾をつけ、八幡神に祈念して射るとようやく大百足を退治することができた。藤太は龍神の娘からお礼として、米の尽きることのない俵などの宝物を贈られた。また、龍神の助けで平将門の弱点を見破り、将門を討ち取ることができたという。
秀郷の本拠地である下野国には、日光山と赤城山の神戦の中で大百足に姿を変えた赤城明神を猿丸太夫(または猟師の磐次・磐三郎)が討つという話があり(この折の戦場から「日光戦場ヶ原」の名が残るという伝説)、これが秀郷に結びつけられたものと考えられる。
また類似した説話が宇都宮(下野国)にも現存する。即ち俵藤太が悪鬼・百目鬼を討った「百目鬼伝説」であるが、これも現宇都宮市街・田原街道(栃木県道藤原宇都宮線)側傍の「百目鬼通り」の地名になっている。
[編集] 一族
秀郷の子孫は中央である京都には進出しなかった結果、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となった。
また、京都でも武門の名家として重んじられた結果、子孫は以下のような広範囲に分布した。