藤原経清
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藤原経清(ふじわら の つねきよ 生年不詳 - 1062年10月22日(康平5年9月17日))は、平安時代後期の陸奥国亘理郡の豪族、奥州藤原氏祖。
[編集] 経歴
陸奥権守従七位下に叙せられ亘理権大夫(わたりのごんのたいふ)と称したと言われている、尊卑分脈によれば「亘権守・亘理権大夫」とあるが、「権大夫」という職位がどんな役職であるか、実際にどのような官職であったか煩累していない。ただ、子息の清衡も権大夫であったことでもあり、地位を証明する信頼の置ける史料は現存していないが、在庁官人として陸奥国府多賀城に勤務していたと見られている。父は藤原頼遠。母は平国妙の姉妹。子に前述の奥州藤原氏の初代、藤原清衡がいる。その名が登場する史料は、長年『陸奥話記』のみとされており、藤原姓も私称ではないかとされてきたが、近年、1047年(永承2年)の五位以上の藤原氏交名を記した『造興福寺記』に「経清六奥(六奥は陸奥の意)」と見えることが指摘されている。この史料によると、少なくとも藤原氏の一族の係累に連なる者と中央の藤原氏からも認められており従五位に昇任し、散位ではあったようである。(1040年(長久元年)より数ヵ年国府の推挙により、修理太夫として在京し、陸奥守藤原登任の下向に同行したとの説がある。)
はじめ陸奥守藤原登任に従う。1051年(永承6年)に鬼切部の戦いで国府と対立していた奥六郡を支配する俘囚(ふしゅう)長の安倍頼時(頼良)の娘(安倍貞任の妹、史料では「有加一乃末陪」と記載されている)を妻に迎える。登任の後任に源氏の源頼義が任じられ、頼時が朝廷に帰服すると頼義に従う。頼義は安倍頼時を挑発し、1056年(天喜4年)に安倍氏が蜂起し前九年の役と呼ばれる合戦に至ると、同じく安倍頼時の娘を迎えていた義弟の平永衡が謀反の疑い(甲冑をことさら派手にして舅に自軍の位置を知らせたとの讒言による嫌疑)で殺される。わが身にも同様の危機が迫っていると判断した経清は安倍氏の陣営に属す。ために征討は停滞し、住民も国府の命令(赤符)に服さず経清の徴税の札(白符)に従ったこともあり、朝廷は頼義に代えて高階経重を派遣したが、成すすべなく京都に戻り再度頼義に征討を命じた。ここで頼義は、安倍氏と同じ俘囚の長であった出羽仙北の清原氏に多くの財宝を送り援兵を求めた。全軍を七陣に分けたが、その内第五陣だけが国府軍であり他は清原一族の出羽軍であった。前九年の役は清原氏の協力で厨川の戦いを最後に終結する。源頼義の苦戦は経清の計略による部分が多かったと推測され、そのためもあり経清は捕縛された後、陸奥話記の述べる所では、「将軍深悪之故以鈍刀漸斬其首」とあり、頼義の恨みが殊のほか深く面前に引出され、苦痛を長引かせる為錆び刀により鋸引きにして斬首された。
経清亡き後、妻は前九年で敵対した清原武貞と再婚。遺児も武貞の養子となり、清原清衡と名乗る。清衡は後三年の役の後に清原の領地を治め姓も実父の藤原姓に戻し奥州藤原氏の祖となる。
[編集] 関連項目
[編集] 藤原経清・奥州藤原氏を扱った作品
- (この本では経清の最期を衣川の戦いの際に戦死したと書かれ斬首となっていない)