蠣崎氏
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蠣崎氏(かきざきうじ)は戦国時代に蝦夷地を本拠とした戦国大名。江戸時代に松前氏(まつまえし)と改姓したが、庶流の中には引き続き蠣崎氏と名乗る者もいた。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流 河内源氏の傍系 甲斐源氏 武田氏の庶流にあたる。
[編集] 蠣崎氏
若狭武田氏又は南部氏の流れを汲む武田信廣を祖とする。宝徳3年(1451年)に若狭から下北半島の蠣崎(むつ市川内町)に移り、その後に北海道に移住してその地を治める豪族となった。時代は京の室町の足利氏が征夷大将軍の時代である。そして長禄元年(1457年)、アイヌのコシャマインの反乱を鎮圧して蝦夷の支配を確固たるものとした。文明7年(1475年)には、樺太アイヌの首長から貢物を献上され、樺太も支配下に組み込んだ。戦国時代に入ると主家である安東氏から実質的に自立の傾向を見せる。蠣崎義廣の時代にはアイヌの酋長・タリコナを謀殺し、その子の蠣崎季廣の時代には13人の娘を安東氏などそれぞれの奥州諸大名に嫁がせて政治的な連携をはかり、戦国大名としての地位を築き上げたのである。
[編集] 松前氏
蠣崎季廣の子・蠣崎慶廣の代には上洛して、天下を平定した豊臣秀吉(関白、太閤)に拝謁することで本領を安堵された。これによって秋田氏(旧安東氏)から名実ともに独立する事になった。天正19年(1591年)、秀吉の命に応じて九戸政実の乱に参陣して蠣崎軍の強さを諸侯に見せつける。このときのことを『三河後風土記』は「蝦夷人の発する矢は敵に当たらない事無く」とまで記述している。秀吉の死後は徳川家康に接近して慶長4年(1599年)、姓名を松前慶廣に改める。その後、慶長8年(1603年)徳川家康は征夷大将軍の宣下を受ける。こうして征夷大将軍のお墨付きを得て松前と改めた蠣崎氏は、江戸時代を生き抜くことに成功したのである。当初は米が穫れない蝦夷において無石の島主扱いに過ぎなかったが、5代・矩広の代に交代寄合を経て、享保4年(1719年)には大名に昇格し正式に1万石格の松前藩藩主となった。
松前とは、松平氏の「松」と前田氏の「前」から取ったものだという説がある。
[編集] 系図
┃ 蠣崎季繁 │ 信広 ┃ 光広 ┃ 義広 ┃ 季広 ┃ 松前慶広 ┣━━━┓ 盛広 忠広 ┃ ┃ 公広 直広 ┃ ┃ 氏広 本広 ┃ ┃ 高広 邦広 ┃ ┃ 矩広 資広 ┃ ┃ 富広 道広 ┃ 章広 ┣━━━┓ 見広 崇広 ┏━━━┫ 昌広 良広 ┃ 徳広