角田覚治
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角田覚治(かくたかくじ、1890年(明治23年)9月23日-1944年(昭和19年)8月2日)は、大日本帝国の軍人。海軍中将、功二級。海軍兵学校第39期。卒業成績148人中45番。新潟県出身。
旧日本海軍の中でも屈指の闘将である。砲術科出身であった為大鑑巨砲主義者であり、源田実が『航空万能論』を提唱した際、「腰抜けの空論、たとえ航空機が無くても戦うのが海軍軍人魂」と主張して憚らず、航空戦力を否定していた。(これに対して、源田は石頭と罵っている)
しかし真珠湾攻撃で航空戦力の優位性が証明されると、その有効性を柔軟に認める。畑違いとも云うべき航空艦隊の司令官に任命されると、有利な距離に艦を移動し、敵の攻撃を受ける前に有効射程距離からの砲撃を行うと云う砲戦の定石戦法を航空戦に応用し、敵よりも優位な位置で航空機を発艦出来る様空母を突出させたり、悪天候で航空機が発艦出来ない時には空母の高角砲で敵基地を砲撃する等、奇想天外な戦法を行う。
南太平洋海戦では司令官の南雲忠一が乗る旗艦『翔鶴』が損傷して航空戦の指揮を委譲されると、乗艦『隼鷹』(商船改造空母でそれほど速力が出なかったが)を最大戦速で突出させ力戦(その様子を見ていた他艦の乗員は、「槍を抱え敵陣に突っ込んで行く騎馬武将の様だった」と回想している)、米軍の空母『エンタープライズ』を撃退、『ホーネット』を大破させる(その後、角田は総員退鑑して空船になって浮いていたホーネットの鹵獲を計画し捕捉するが見失い失敗する)。
この時に角田の意を受けて『隼鷹』飛行長が発した、未だ飛行隊の行動範囲外であるにも関わらずの攻撃隊発進、そして「本艦は全速力で飛行隊を迎えに行く」という壮烈な命令は、角田の闘将ぶりを示すエピソードとして有名である。
1943年(昭和18年)7月、基地航空部隊として再編された第一航空艦隊司令長官に就任し、マリアナ沖海戦(あ号作戦)を支援する。その後テニアン島の戦いでは基地航空隊を指揮し奮戦するが、彼の闘志を持ってしても劣勢は如何ともしがたく、全ての航空戦力を失い、地上戦で戦死する。
戦後、同じ闘将タイプの山口多聞と比較される事が多く、「開戦が遅れたならば航空艦隊を縦横無尽に運用して活躍出来た悲劇の提督」と称され惜しむ軍事史研究家の意見も多い。角田自身は山口よりも兵学校卒業は1年先輩(但し大佐・少将昇進は山口の方が1年早い)であったが、山口の采配を高く評価し「彼が指揮官なら、何時でも喜んで指揮下に入る」と公言し、ミッドウェー海戦で山口が戦死した事を深く悼んだと云う。
また、米海軍きっての猛将ハルゼーともよく比較される。共に「見敵必戦」を地で行く闘将であったが、その闘志を上手く使いこなした米軍に対し、角田は不利な戦況や周囲の制約もあって存分に腕を振るい得たとは言いがたく、両者の明暗は正に日米両軍の格差を示すものと言えよう。
闘将でありながら部下に対しては非常に温厚且つ丁寧な態度を見せ、水兵や下士官に対しても決して上官風をふかさず気軽に挨拶や言葉を交わし、部下将兵にも慕われていたと云う。しかし声を掛けられた側は、上官である角田に如何挨拶返しをしたら良いか困ったと云う逸話も残っている。
第一航空艦隊(一航艦)では、南洋に点在する島々を基地とする為、部隊が身軽に移動できる事を重視し、士官も兵食を採用、携行する荷物も最小限とした。角田自身がこれを実践して、自分用の粗末な食器を含む荷物を自ら持参して移動した。幕僚たちの「司令長官ともあろうお方がいくらなんでも」との声にも、「ここは戦場である」と取り合わなかったという。飾らない実利本位の一面が見て取れる。
最期はテニアン島の守備を任されるが、航空機も艦艇も持たない彼は、部下に対して「掘ろう!断じて掘り続けよう!」と素手で岩盤を掻き、地下陣地構築を厳命した。絶望的な環境でも部下の士気を鼓舞し、1944年、戦死をとげた。
[編集] 略歴
- 1890年(明治23年)9月 - 新潟県南蒲原郡において出生
- 1933年(昭和8年)11月 - 任 海軍大佐
- 1938年(昭和13年)11月 - 戦艦長門、山城艦長
- 1939年(昭和14年)11月 - 任 海軍少将、佐世保鎮守府参謀長
- 1940年(昭和15年)11月 - 第3航空戦隊司令官
- 1941年(昭和16年)9月 - 第4航空戦隊司令官
- 1942年(昭和17年)7月 - 第2航空戦隊司令官
- 11月 - 任 海軍中将
- 1943年(昭和18年)7月 - 第1航空艦隊司令長官
- 1944年(昭和19年)8月 - テニアン島にて戦死。享年53。