野平祐二
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野平 祐二(のひら ゆうじ、1928年3月20日 - 2001年8月6日)は、元騎手(日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会(JRA))、元調教師(JRA)。千葉県船橋市古作出身。騎手としても調教師としても成功し「ミスター競馬」と呼ばれた。父の省三は元騎手(日本競馬会)、元調教師(国営競馬、日本中央競馬会)。孫の二本柳壮は騎手(JRA)。2004年、騎手顕彰者に選出。
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[編集] 経歴
[編集] 少年時代
父の省三が騎手を引退した後、下総御料牧場で働いていた時に生まれる。幼少の頃から馬が身近にいる環境で育ち、小学校時代には馬に鞍をつけて乗るようになっていた。
尋常小学校を卒業後、関東中学に進学するが、騎手を志して退学。1942年、騎手見習いとして関東の名門尾形藤吉厩舎に入門した。
[編集] 騎手時代
1944年春に騎手免許を取得し、同年12月3日、東京修練場(現在の馬事公苑)において行われた能力検定競走で初騎乗。同月5日に初勝利を挙げる。
1945年4月に宇都宮市へ疎開し、日本競馬会の仕事に従事。毎日10頭近くの馬を1人で調教し、世話をするという過酷な労働と栄養失調から肉体と精神に変調をきたし、「どうせ死ぬならお国のために戦って死にたい」と決意。海軍飛行予科練習生乙科に願書を出願したが、受験日に指定された8月15日に太平洋戦争は終結した。
1946年に公認競馬が再開されるとこれに参加。1949年に尾形厩舎から野平省三厩舎へ移籍。1952年にスプリングステークスで重賞初勝利(優勝馬アサトモ)。1957年に公認競馬・中央競馬を通じて初となる年間100勝をマーク(103勝)。翌1958年 には中央競馬における当時の年間最多勝記録となる121勝をマークした(この記録は以後19年間破られることがなかった)。
[編集] オーストラリアへ遠征
1959年、オーストラリアで行われた国際競走に中央競馬のリーディングジョッキーと招待されて遠征。12月12日、カンタベリー競馬場で行われたレースで1着。海外のレースにおける日本人騎手初勝利を飾った。気性面に問題のあったアカタラワという競走馬を難なく御した野平の騎乗は現地の競馬関係者に賞賛された。野平自身、「海外の騎手とも互角にやれる」という自信を得た。
[編集] 海外競馬に対する関心が高まる
1967年 スピードシンボリで天皇賞(春)を制覇。同年、同馬に騎乗してワシントンD.C.インターナショナルに遠征(9頭中5着)。アメリカの一流競走馬の能力を目の当たりにした野平はオーストラリア遠征で得た自信を完全に打ち砕かれ、スピードシンボリの馬主・和田共弘と「外国の馬の強さの秘密を知るには積極的に現地へ足を運ぶ必要がある」という認識を共有することとなった。
1969年、再びスピードシンボリで海外遠征を敢行。キングジョージクイーンエリザベステークス(9頭中5着)や、凱旋門賞(24頭中10着)に騎乗。海外競馬のレベルの高さ、海外遠征の難しさを改めて痛感させられる結果となった。
1972年、和田共弘・北野豊吉・藤田正明ら馬主9名の協力を得て「日本ホースメンクラブ」を結成。目標は、馬主が出資した資金を元手に購入した競走馬をヨーロッパの厩舎で管理し、本場の大レース優勝を目指すというものであった。野平はフランスに長期滞在して競走馬の調達を担当。同時に騎手として現地のレースに騎乗した。 この遠征において野平は同クラブが所有するビバドンナに騎乗してドーヴィル競馬場で行われたレースを優勝(1972年8月27日)し、日本人騎手として欧州のレース初勝利を飾った。また、海外遠征を行ったメジロムサシに騎乗して凱旋門賞(19頭中18着)、ワシントンD.C.インターナショナル(9頭中7着)に出走した。
[編集] 騎手引退
1975年、父省三の死に伴い、厩舎を引き継ぐために騎手引退を決意。同年2月26日、最後のレースとなった目黒記念に優勝(優勝馬カーネルシンボリ)し、騎手として有終の美を飾った。
運命の悪戯か、初めて八大競走完全制覇を成し遂げた保田隆芳に勝るとも劣らない戦績を残したが、牡馬クラシック制覇は最後まで叶う事が無かった(牝馬クラシックと天皇賞(春)・有馬記念は優勝している)。
[編集] 調教師時代
調教師免許取得日は1975年3月1日。同年8月に厩舎を開業し8月2日に初出走。同年12月7日、ホッカイノーブルで初勝利を挙げた。1976年、同じくホッカイノーブルでステイヤーズステークスに勝利して重賞初制覇。
[編集] シンボリルドルフを管理
1983年、シンボリルドルフを管理することになる。調教にまたがった野平はデビュー前からその非凡な素質を見抜いていた。1984年、岡部幸雄騎手や藤沢和雄調教助手らとともに綿密な調教プランを立て、シンボリルドルフを史上4頭目の三冠馬に育てる。それ以外に1984年から1985年にかけて有馬記念2勝、天皇賞(春)、ジャパンカップを制し7冠という偉業を達成した。野平は「競馬には絶対はないがシンボリルドルフには絶対がある」と天皇賞・秋の出走時に発言してぐらいに同馬には絶対的な信頼をしていた。
[編集] ルドルフの体調を巡って和田共弘と対立、絶縁
1985年、宝塚記念を前にシンボリルドルフの体調を巡り、それまでの経験から体調不良と判断した野平と「問題ない」とするシンボリ牧場場長の桐澤の見解が対立。このときは和田が折れてルドルフは宝塚記念に出走しないこととなった(実際には出走取消扱いとなっている)。
翌1986年、海外遠征を控えたルドルフの体調を巡って再び野平と桐澤が対立(宝塚記念のときと同じく野平が体調不良だと主張)。さらに遠征の日程を巡って野平と和田の意見が対立(和田はまずアメリカに遠征し、次いでヨーロッパへの遠征を計画。一方野平はアメリカを経由せずに直接ヨーロッパへ遠征するべきだと主張)していたことから和田と絶縁状態に陥る。関係の断絶は和田が死去(1994年)するまでついに解消されることはなかった。
2000年2月29日、定年により調教師を引退。翌2001年8月6日に肺炎のため死去。
2004年、JRA発足50周年を期に顕彰され、殿堂入りを果たした。
[編集] エピソード
- 日本にモンキー乗りを普及させたのは保田隆芳であるが、野平は保田に先んじてモンキー乗りを独自に研究し、レースで実践していた。
- 騎手時代には「プロの騎手はただ勝てばいいのではない。プロらしい技術を見せて(野平は「演技する」と表現した)ファンを魅了しなければならない」という美学をもっていた。また、幼少の頃から父・省三に「競馬関係者はジェントルマンでなくてはならない。ジェントルマンはフェアでなければならない」と繰り返し教えられてきた影響からフェアプレーに徹した。それは「他人を妨害するのはもちろん、妨害される(程度の技量しか持ち合わせていない)のもプロ失格である」というほどに徹底したものであった。1954年には1年を通じて制裁がなかったことにより、模範騎手賞を受賞した。
- 海外競馬への憧れや海外生活の影響から、欧米を範とした言動をとることが多かった。例として、前述のようにフェアプレイや「演技」の概念を強調したことが挙げられる。また、シンボリルドルフがダービーに出走した際には、ヨーロッパのダービーにおける調教師の正装である焦げ茶色のソフト帽を着用して観戦した。こうした振る舞いはマスコミに「ダンディー野平」と賞賛される一方、競馬関係者などからは「外国かぶれ」「キザな野郎だ」と陰口を叩かれることもあった。
[編集] 通算成績
- 騎手成績7280戦1339勝(日本中央競馬会発足以降1188勝)。
- 調教師成績3949戦402勝
[編集] 代表馬
[編集] 騎手時代
- トサオー(1959年天皇賞(春))
- カネケヤキ(1964年桜花賞、優駿牝馬(オークス))
- スピードシンボリ(1967年天皇賞(春)、1969年・1970年有馬記念)
- ヒカルタカイ(1968年天皇賞(春))
[編集] 調教師時代
- シンボリルドルフ(1984年皐月賞、東京優駿(日本ダービー)、菊花賞、有馬記念、1985年天皇賞(春)、ジャパンカップ、有馬記念)