保田隆芳
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保田 隆芳(やすだたかよし、1920年3月18日 - )は、元騎手(東京競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会(JRA))、元調教師(日本中央競馬会)。東京都神田出身。戦後の中央競馬における騎手の第一人者の一人で名門・尾形藤吉厩舎の主戦騎手。アメリカより新たな騎乗フォーム(モンキー乗り)を持ち帰り、騎乗法に革命的な変革をもたらした。1995年5月、競馬関係者として初めて勲四等瑞宝章を受章。2004年、騎手顕彰者に選ばれる。息子の保田一隆はJRA調教師(セイウンスカイを管理)。
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[編集] 経歴
実家は神田の果物問屋で競馬とはまったく無縁な家庭環境に育つ。都内の乗馬クラブに通いはじめると乗馬の虜になり、騎手を志す。1934年、東京競馬場にて名門尾形藤吉厩舎の見習騎手となる。当時の慣習に従い、千葉県の御料牧場で修行を積み、1936年に騎手免許を取得。以後尾形厩舎の主戦騎手として、1938年にアステリモアで阪神優駿牝馬を優勝、翌1939年にテツモンで帝室御賞典(現在の天皇賞(秋))、タイレイで中山4歳牝馬特別を優勝するなど当時の若手騎手としては異例の活躍をした。なお、アステリモアで阪神優駿牝馬を優勝した時、保田は18歳8ヶ月であり、これは現在でも史上最年少でのクラシック制覇となっている(日本中央競馬会(JRA)設立以降は武豊が1989年に菊花賞を優勝した時の19歳8ヶ月が最年少)。
1940年、兵役に就き、1945年に復員。一時日本競馬会の盛岡育成場で働き、1946年に競馬界に復帰した。この兵役が無ければ、1943年に東京優駿などを制した歴史的名牝・クリフジにも騎乗していたであろうともいわれている。
戦後の保田の代表騎乗馬としてはハクチカラが挙げられ(詳細はハクチカラを参照)、この馬で国内では東京優駿、天皇賞・秋、有馬記念を制した。1958年、ハクチカラの海外遠征に同行する形で渡米。米国での実戦ではいいところが無かったが、現地でモンキー乗りと呼ばれる騎乗フォームを習得する機会に恵まれた事が保田にとって大きな転機となる。帰国後の日本においてこの騎乗フォームの先駆者となった保田はリーディング争いを席巻、ついには自身初のリーディングジョッキーの座を獲得する。それを見て保田の騎乗フォームに追随する騎手が続出、モンキー乗りはたちまちに浸透し、まもなく従来の騎乗フォーム(天神乗り)に取って代わった。その後もトップジョッキーとして第一線で活躍し、1968年にはマーチスに騎乗して皐月賞を勝ち、史上初の八大競走全勝利騎手となった(現在は武豊もこの記録を達成している)。なお、この時保田は48歳2ヶ月であり、史上最年長のクラシック勝利騎手となった(1986年に増沢末夫がダイナガリバーで東京優駿を48歳7ヶ月で勝利するまで破られなかった)。また、武豊以前の「盾男」と称され、天皇賞・秋での7勝は今も歴代最多勝利騎手である。
1970年に50歳で騎手を引退し、調教師に転向。尾形厩舎から譲られたメジロアサマ(メジロマックイーンの祖父)が大活躍し、開業1年目で安田記念、函館記念、天皇賞(秋)に勝利した。1976年から1977年に掛けては、天馬トウショウボーイを管理し、皐月賞・有馬記念・宝塚記念に優勝した。
1997年、JRAが調教師の定年制を導入したことに伴い、調教師を引退(厩舎は子息の一隆師が引き継いだ)。2004年、騎手顕彰者として殿堂入りを果たした。
[編集] 成績
[編集] 騎手成績
通算6143戦1295勝
[編集] 主な勝ち鞍
(旧八大競走のみ)
- 桜花賞(1940年タイレイ、1952年スウヰイスー)
- 皐月賞(1968年マーチス)
- 優駿牝馬(1938年アステリモア、1967年ヤマピット)
- 東京優駿(日本ダービー)(1956年ハクチカラ、1961年ハクショウ)
- 菊花賞(1953年ハクリョウ、1959年ハククラマ、1963年グレートヨルカ)
- 天皇賞・春(1954年ハクリョウ、1960年クリペロ、1966年ハクズイコウ)
- 天皇賞・秋(1939年テツモン、1949年ニューフォード、1950年ヤシマドオター、1951年ハタカゼ、1956年ミツドファーム、1957年ハクチカラ、1966年コレヒデ)
- 有馬記念 (1957年ハクチカラ、1966年コレヒデ)
[編集] 受賞
[編集] 調教師成績
通算3485戦334勝、重賞17勝
[編集] 主な勝ち鞍
- 天皇賞(秋)(1970年メジロアサマ)
- 有馬記念(1976年トウショウボーイ)
- 皐月賞(1976年トウショウボーイ)
- 宝塚記念(1977年トウショウボーイ)
[編集] 受賞
- 調教技術賞(関東)(1974年)
- スポーツ功労者 文部科学大臣顕彰(1991年度)