長浜忠夫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
長浜 忠夫(ながはま ただお、1932年9月26日 - 1980年11月4日)は、鹿児島県出身の日本のアニメや人形劇の監督・演出家。日本大学芸術学部演劇学科卒業。
目次 |
[編集] 略歴
中学生の頃から演劇部で活動し、鹿児島放送劇団では演出を担当。上京して大学へ進学してからは、舞台芸術学院、キリン座、青年俳優クラブ、劇団民藝(宇野重吉に師事する。)で演劇を学びながら、演劇雑誌『テアトロ』編集部でも仕事を行なった。人形劇団ひとみ座の演出部に所属すると、テレビ人形劇『ひょっこりひょうたん島』『伊賀の影丸』の演出を担当。『ひょっこりひょうたん島』の経験は後にギャグアニメの仕事をするのに役立ったと後に長浜は述べた。『伊賀の影丸』はひとみ座の同僚の藤岡豊が製作し、この藤岡がアニメ制作会社東京ムービーを設立したことが、長浜のアニメ演出家への転身に繋がった。人形劇の演出家時代に長浜の台詞を重視する方針が培われたとされる。
東京ムービーのアニメの制作を担当したAプロダクションへ入社すると、『巨人の星』で一世を風靡して、コメディからロボットものまで幅広い作品を手がけた。『侍ジャイアンツ』を最後に1975年に東京ムービーを退社。アニメの世界に見切りをつけ、日本記録映像社を設立して、1年ほどCM製作などを行なった。『勇者ライディーン』でフリーとしてアニメ界に復帰し、同時に後のサンライズとの関係を築く。続く『超電磁ロボ コン・バトラーV』、『超電磁マシーンボルテスV』、『闘将ダイモス』はアニメファンの間で「長浜ロマンロボット3部作」とも呼ばれ、『巨人の星』と並ぶ代表作である。特に『超電磁マシーンボルテスV』は、海外でも放送され好評を得たため映画化の予定もあがった。『未来ロボ ダルタニアス』を途中降板して、『ベルサイユのばら』で古巣の東京ムービーに復帰。フランスとの合作作品『宇宙伝説ユリシーズ31』の製作中に逝去、これが遺作となった。
[編集] 人物像
情熱家で自信家の性格は、ときにはスポンサーの絶大な信頼を得て、ときには周囲と衝突する原因ともなった。『ベルサイユのばら』での声優との演技を巡る対立は、長浜の途中降板にまで発展した。他にも『侍ジャイアンツ』で作画監督の大塚康生にオーバーな演技を要求したことで、それに納得できなかった大塚が実質的に作画監督を降板することに繋がった。東京ムービー文芸部に所属し、長浜とも交流のあった山崎敬之によると、長浜はムービーの天皇の異名を取っていたと言う。映画界で天皇の異名をとった黒澤明監督に倣ったものである。
その一方で、ファンとの交流を大事にしたことで知られ、以後のアニメファンダムの基礎を作った。『闘将ダイモス』のゲストデザインでアニメデビューを果たしたメカニックデザイナーの出渕裕、アニメーターの内田順久、脚本家の塚本裕美子などは、ファン時代に交流した長浜によって見出され抜擢された。スタジオ見学に来るファンを歓待して意見を交わし、どんなに多忙でも、ファンレターには必ず目を通し、まめに返事を返してたと言う。
富野由悠季は著書『だから 僕は…』で多大な影響を受けたと語り、また盟友である吉川惣司は『ドキュメント・ボトムズ』の中で、真の意味でガンダムの出現を準備した人と評価する。
[編集] 代表作品
[編集] 人形劇
- 伊賀の影丸(1964年、TBS)
- ひょっこりひょうたん島(1964~1969年、NHK(人形演技監督))
[編集] アニメ
- 東北新社・創映社作品
- 東映(協力:日本サンライズ)作品
- 超電磁ロボ コン・バトラーV
- 超電磁マシーンボルテスV(テレビ朝日系、1977年6月4日~1978年3月25日)
- 闘将ダイモス(テレビ朝日系、1978年4月1日~1979年1月27日)
- 未来ロボダルタニアス(東京12チャンネル、1979年~1980年)
- 日本アニメーション作品
- 葦プロダクション・国際映画社作品
- ずっこけナイトドンデラマンチャ(1980年)