革命的労働者協会(社会党社青同解放派)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)(かくめいてきろうどうしゃきょうかい・しゃかいとうしゃせいどう・かいほうは)は、日本の新左翼系過激派集団(社青同系)。略称は「革労協」。革労協は内ゲバ殺人や放火などの反社会的な暴力活動で知られ警察は「極左暴力集団」と呼称している。最近でも、主流派(現代社派・狭間派)と反主流派(赤砦社派・木元派)の内ゲバが99年~04年に行なわれ死傷者を出している。現在は両派の内ゲバは小康状態にあるものの、ソフト化路線に切り替えている中核派や革マル派などの新左翼他セクトと比べるとその危険性は高く、最大の爆弾セクトとなっている。
- 構成員:公然活動家(合法活動を行なう)は50~100人ぐらいである
- 指導者:千木良信夫ら
- 機関紙誌:『解放』
- 公然拠点:現代社
目次 |
[編集] 歴史
[編集] 結成の経緯
革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)は、1969年に結成された組織であるが、ここでは革労協が同派(狭間派)と労対派(滝口派)に分裂した以降のいわゆる「狭間派」について扱う。両派対立の兆候は1976年の神大夜襲裁判闘争で現れ始め、革マル派による中原一書記長殺害に対する報復方法、内部糾弾闘争の考え方の相違から顕著となる。その結果1980年9月15日、三里塚で狭間派が対立関係にあった滝口派を武装襲撃したのを機に、革労協及び社青同解放派の組織的分裂が決定的となった。1981年6月頃までには学生グループ及び非合法闘争を行う「革命軍」に影響力を持つ永井啓之、狭間嘉明らの狭間派と、産別労働者組織に影響力を持つ滝口・高見らの労対派に完全に分裂。その際狭間派は現代社と革命的労働者協会を名乗ることを継承した。現代社を追われる形となった労対派は後に革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会を結成することになる。
[編集] 分裂と爆弾テロ
成田闘争では、中核派とともに反対同盟北原派を支持していたが、1987年に北原派の農民の一部が中核派の引き回しに反発して、小川派を結成。中核派に同調した最高指導者・狭間嘉明を中心とする狭間グループと、小川派に同情的なNO.2の総務委員・永井啓之を中心とする永井グループの対立が深まるが、1988年1月に永井啓之は指導部から追放される。1989年2月5日 永井グループの元軍事指導部、辻美喜がリンチ殺害される。1989年6月25日、永井啓之は埼玉県川口市の自宅から拉致、殺害され、茨城県牛久市の県道トンネル内で放置された寝袋の中に遺体で発見された。この事件で11月になって狭間嘉明が殺人容疑で逮捕された。11月7日には北海道帯広市の列車内で、狭間派の女性活動家が、包丁で腹を切って自殺している。この後、旧永井派は革労協から集団脱走した。1990年11月1日 東京都新宿区の警視庁独身寮「清和寮」に2つの爆弾を仕掛け、寮を爆破。警察官1人を殺害し、8人に重軽傷を負わせる。1991年には関西の西原学を中心とする西原グループが分裂した。
[編集] 現代社派と赤砦社派の分裂
1999年5月、革労協の拠点であった明治大学で反共主義・ファンダメンタリズムなどを掲げる「明大ゴスペル愛好会」(ゴスペル研究会、ヨハン早稲田キリスト教会系列)との闘争が激化した。革労協は同愛好会を襲撃をするも返り討ちに合い、警察へ突き出されるなどの失態まで出すことになった。そこで明大ゴスペル愛好会への対応をめぐり、闘争をやめて事態の鎮静化を図ろうとする穏健派の山田茂樹ら反主流派(後に赤砦社派)と、徹底抗戦を主張する強硬派の狭間、千木良ら主流派(後に現代社派)が対立。以前から革労協内部でくすぶっていた現代社官僚(狭間派)と全学連・寄せ場労働者などのメンバー(赤砦派)の対立が表面化する。特に山田茂樹が個人の判断で勝手にゴスペル代表者と手打ちをしたことで、狭間嘉明の怒りを買い杉並区高井戸の「現代社」での反主流派への査問が始まった。その際山田ら反主流派は革労協内部での劣勢を立て直すため、ひそかに革労協のシンボルである現代社の乗っ取り計画を立てクーデターを画策した。社防隊が手薄となるゴールデンウィークに狙い定め実行するも失敗。反主流派は逆に外部へと放遂される形で追い出され、現在の台東区下谷の賃貸マンションに新拠点の「赤砦社」を置き、山田茂樹をリーダーとして、革労協の分裂が決定的となった。主流派は現代社派・狭間派、反主流派は赤砦社派・山茂派・木元派などとも呼ばれる。
[編集] 現代社派の攻勢
1999年6月、現代社派のテロ部隊が山田茂樹に4日「死を狙った襲撃」をかけ、瀕死の重傷を負わせる事件が発生。氏は現在もその後遺症により、単独での歩行に困難を強制されている。 赤砦社派は6月4日の山田茂樹への襲撃を受け、襲撃に備え明大学内サークル室に搬伸縮式鉄パイプや特殊警棒、金属バット類を搬入した。が、それを理由に警察家宅捜査に入り、8日中心メンバー17名が凶器準備集合罪で逮捕され、赤砦社派は危機的状況に陥る。ここで現代社派は赤砦社派の手薄に乗じ、赤砦社派の強い影響力下にあった明大学苑会中執に「委員長」として現在指名手配中のTや、「同副委員長」を捏造し『乗り込み支配』の画策を実行に移す。12日、明大駿河台の学生部隊(=赤砦社派)に向け、現代社派は私服部隊で武装潜入をかけ、明大学生会館内の赤砦社派に握られていた革労協拠点の奪還を図るが未遂に終わる。一連の現代社派の攻勢は”頭目山田撃沈”とセットでの「木元(山田)派粛清」一掃を狙った作戦だった。結果的としての「頭目殺害に失敗した狭間派」はあくまで「党内闘争」の範囲と片付け、それは今にちまで姿勢は一貫している。 なお、明大駿河台襲撃作戦失敗の際、キャンパス内で摘発された狭間派のゲバ部隊の面々が覆面のない私服状態だったため、中心メンバーの面が割れ、後々にまで「山田派軍事的優位」に結び付くことになった。
[編集] 赤砦社派の反撃
一連の現代社派による襲撃によって堪忍袋の緒を切った赤砦社派は6月13日『6・13軍声明』として、現代社派との「全面戦争」を宣言した。山田は幹部土肥・小沢(従来彼らは『革労協の「軍事部門」の担当』だったキャリア?)らと、巻き返しのための「革命軍」を早速強化、全国で報復に乗り出した。 1999年7月、最大の学生拠点である明治大学は両派攻防の主戦場となった。 7月2日、まず赤砦社派は学内で同派にとっての「目の上のタンコブ」、明大生協理事となっていた現代社派の荻野氏をターゲットとする。萩野氏は松戸市で出勤中のバイクを倒され、側頭部へのハンマー連打を浴びその場で絶命した。7月21日 狭間派は7・2の報復として赤砦派中山同生協職員を殺害した(なぜか赤砦社派はこの人物には冷淡だった)。さらに現代社派は7月22日には明大生田キャンパスに再度、全国動員公然ゲバ部隊(計37名)を差し向け、構内の赤砦社派に白昼の襲撃をかける。だが赤砦社派部隊はいち早く大学の退去命令に従ってしてしまい、現代社派のゲバ部隊は37名全員が凶器準備集合罪と建造物侵入で検挙・起訴され壊滅的打撃を受ける。この大量逮捕(「情宣していただけなのに」狭間派「解放」)がたたり、拠点の明治大各キャンパスはじめ山谷や福岡、九州大などから狭間派が一掃され、革労協の拠点は三里塚現闘以外、赤砦社派一色に塗り替えられてしまう。
[編集] 明治大学による赤砦派排除
現代社派勢力が明治大学から一掃されたが、その後明大学生会館でナゾの放火事件が起き、同時に明大生協の争議に足場のないはずの狭間派が暴力的に介入してきた。これを利用して大学側は《双方が殺人の応酬をしており、じじつ凶器類も押収されるなど、キャンパス全体を生命の危険から守るため…やむを得ず》として、警察・ガードマンによる赤砦社派の学内からの締め出しを開始。されに、生協解体、二大学園祭中止といった対革労協施策を次々と打ち出した。駿河台キャンパスでは門や扉に通行人にも見える位置に明大当局の名で『これら以下の者らは本学生ではなく…』と、両派の「明大担当」らしき人物の本名が羅列され、立ち入った場合は直ちに法的措置となる旨の警告文紙が貼られた。これらの措置によって赤砦社派も活動拠点は奪われ、資金源となっていた生協・自治会費からの収入も断絶され、革労協にとっての金城湯池=明大を失ってしまい壊滅的な打撃を受けた。
[編集] 内ゲバ戦争の激化
2000年2月8日、福岡の赤砦社が現代社派のゲバ部隊に襲われ、福井大生だった片岡君が殺害された。その翌朝、1000キロも離れた神奈川県真鶴で福岡での襲撃を実行したゲバ部隊のキャップとサブ(女性)が赤砦社派の追っ手によって、早々と殺害・重傷を負った。 片岡君(社防隊?)を殺害した部隊は、朝の犯行から夕方まで福岡市内で潜伏していたらしく、同8日夕刻博多発東京行きの寝台特急にカップルを装いこの二人は乗車していた。 ところがこの時点で既に赤砦社派はこの二人の捕捉に成功しており、そっと同じ列車に乗り込んでいた。彼らを載せた列車が二つ目の真鶴駅に到着した時のこと、出刃包丁で武装した赤砦社派による襲撃が始まり、衆人環視のなかこの二人はメッタ刺しになる。この襲撃で男性幹部のキャップ柿沼忠氏は駅のホームで絶命。同行の女性幹部も失血死寸前となるが、周囲の懸命の配慮により一命を取り止める。赤砦社派部隊は、なんと真鶴駅先に逃走用車輌を用意しており、犯行後に改札口を跳び越して逃げてきた彼らを回収して姿を消した。 この赤砦社派部隊のあまりに水際立った索敵・捕捉・襲撃・逃走ぶりには狭間派や警察も、あらためてその”赤砦派革命軍の実力”に衝撃を受けたようだ。
2000年8月30日 朝の通勤ラッシュで混み合う鶯谷駅東口を降り立った赤砦社派の女性メンバーリーダー格、明大生協従業員組合書記長片山美恵子氏が、現代社派部隊に襲われ刃物で全身をメッタ刺しにされ、即死。襲撃者らの武器は小型出刃包丁やクリ小刀だった。致命傷となったのは肋骨に逆らわないよう、刃を横にして彼女の心臓にまで達するよう出刃を突き立てたものだったと報じられた。この相手を選ばない犯行、残された犯行現場のむごたらしさに駆け付けた下谷署の警官も言葉を失ったと言う。
[編集] 逮捕と停戦
こうした凄惨で絶滅戦と語られた深刻な事件が続くものの、一進一退は続き、両者の労働者拠点学生拠点は次第に追い詰められて行く。 そうした中、2001年2月16日朝の出勤時間、相模原にある赤砦社派活動家宅を公安私服部隊が徹夜で監視していた目の前で、現代社派の襲撃部隊を載せたバンが現われ、乗っていた4名全員が凶器車輛もろとも一網打尽に遭ってしまう。この未然逮捕は警察が前年の『片山殺害への報復』として起きた現代社派古参現役労組構成員への殺害(12/10)を受けて現代社派が、必ず等価報復に出ると予測し、山田派労組幹部部分への隠密裏監視を行なっていたため成功した。
結局、この逮捕により赤砦社派優性が決定的となり、さらに(狭間氏の死を受け)現代社派へのテロは終息したかのようにみえ、これ以降3年間内ゲバは起こらなかった。赤砦社派の矛先もイラク派兵への「飛翔弾ゲリラ」「時限式発火装置」など対権力ゲリラへの【外ゲバ】へと大きくシフトしていった。
内ゲバ戦争終結?と思われたその矢先の2004年6月2日、東京三ノ輪のマションにある赤砦社派アジトを出てきた3名のメンバーが現代社派テロ部隊の待ち伏せ攻撃を受ける。早朝、通学の小学生の前でナイフやハンマーなどによる襲撃で、逃げ遅れた小山元全学連副委員長とその防衛役五十嵐氏の2名が出血多量などで即死。同組織は混乱に陥った。ところが戦勝ムードにわく現代社派は、なぜか現在も、正面切っての「6・2戦果」の追認からは逃げたままだ。
「対権力」闘争では無傷の現代社派が、こうして充分な襲撃ができるという潜在力を見せ付けたこの事件だが。これ赤砦社派の対応は冷静で報復にはでずに機関紙上で「今度(襲撃に)来たら死人の山となる」と発表した。これは読み方によっては報復を自分の側からはしない(?)との宣言にも受け取れて、現在も現代社派にはホコを納めたままでいる。
結局、両派の内ゲバは99年5月両派の分裂以降、これまでに14件発生し、11人が死亡した。特徴的なのは「小型の出刃包丁」が主要な凶器として登場しており、コンパクトな代わりに必殺の攻撃力も望めるらしく、警察が職質をかけたら、両派とも「防衛用」に携帯していた・・・カドでの「未然の逮捕例」がいくつもある。
[編集] 革労協狭間派の年表
- 1997年
- 9月22日午前4時30分 革命軍が千葉県警・成田警察署に迫撃弾を撃ちこむ。
- 1998年
- 2月2日午後9時 革命軍が成田空港に対して三発の革命的迫撃弾攻撃を敢行。「空港本体の徹底破壊と、空港閉鎖-運行機能停止の大戦果」と発表。
- 1999年
- 5月 革労協反主流派によるクーデターが失敗。革労協が現代社派(主流派)と赤砦社派(反主流派)に分裂する。
- 6月4日 山田茂樹が現代社派に襲撃される。
- 6月12日 明治大学駿河台キャンパスに赤砦社派学生活動家を狙って現代社派の私服襲撃部隊が潜入するも未遂に終わる。
- 6月13日 赤砦社派が『6・13軍声明』で現代社派との「全面戦争」を宣言。
- 7月2日 赤砦社派が出勤途中の現代社派明大生協理事をハンマーで撲殺。
- 7月21日 現代社派が赤砦派明大生協職員を殺害。
- 7月22日 現代社派の襲撃部隊が明治大学生田キャンパスの赤砦社派を狙ってキャンパスに侵入するも、赤砦社派はいち早く大学から退去。現代社派襲撃部隊37名全員が凶器準備集合罪と建造物侵入で逮捕される。
- 9月 赤砦社派が機関紙『解放』の発行を開始。
- 2000年
- 2月8日 現代社派襲撃部隊が福岡の駐車場において福井大学から遠征していた学生活動家を襲撃し殺害。翌日、神奈川県真鶴駅で赤砦社派の襲撃部隊がその現代社派襲撃部隊のキャップを殺害、女性サブに重傷を負わせる。
- 8月30日 現代社派部隊が鶯谷駅東口で朝の通勤ラッシュ時に赤砦社派明大生協従業員組合書記長を刺殺。
- 12月10日 赤砦社派部隊が東京都清瀬市の路上で現代社派の革労協総務委員であるタクシー運転手を殺害。
- 2001年
- 2月16日 相模原の赤砦社派活動家自宅の前で現代社派襲撃部隊4名が警戒中の公安警察に逮捕される。
- 5月16日 赤砦社派部隊が千葉県八街市の飲食店駐車場で現代社派の革労協総務委員で、反安保労研の中心人物を殺害。
- 2004年
- 6月2日 東京三ノ輪の赤砦社派アジト前で赤砦社派活動家3名が現代社派襲撃部隊の襲撃に遭い逃げ遅れた2名が殺害される。しかし赤砦社派は機関紙上で「今度(襲撃に)来たら死人の山となる」と発表し、報復はしていない。
[編集] 呼称
どちらの派も「革労協」であるが様々な呼称がある。
- 現代社派の呼称
- 革労協狭間派(労対派との分裂以後の呼称。狭間嘉明が中心となったためにこのように呼ばれた。革マル派は「青解狭間一派」等と用いていた。)
- 革労協主流派(近年のマスコミ報道で使われるようになった。)
- ハザマ私兵グループ(赤砦社派が現代社派に用いる蔑称。最近では機関紙でもあまり使われない。)
- 千木良派(革マル派が99年分裂以降、現代社派に用いる蔑称。)
- 宗派グループ(解放派全協が分裂以後の現代社派に用いる呼称。)
- 赤砦派の呼称
- 革労協反主流派(マスコミ報道で用いられる。以前は革労協狭間派反主流派という使われ方もした。)
- 木元グループ(現代社派が赤砦社派に用いる蔑称。リーダーの山田茂樹の組織名に由来。親スターリン・ミニサークル集団という枕詞とともに使われることが多い。)
- 山茂派(革マル派が99年分裂以降、赤砦社派に用いる蔑称。)
- 宗派グループ(解放派全協が分裂以後の現代社派に用いる呼称。赤砦社も現代社から分裂した組織なので同じように使われる。)
ちなみに現代社・赤砦社両派は解放派全協のことを、「反解放派脱走グループ」、「反内糾脱落グループ」、「反解放派差別主義グループ」等と呼ぶ。
[編集] 現在、指名手配されている革労協のメンバー
- 外園悦夫(凶器準備集合罪)
- 田中優(凶器準備集合罪・銃刀法違反)
- 森永美佐枝(凶器準備集合罪・銃刀法違反)
- 後藤あざみ(凶器準備集合罪)
- 岸本美穂(有印私文書偽造)
[編集] かつての拠点校
- 東北大学(山田茂樹を輩出)
- 宇都宮大学
- 明治大学(80年代以降の最大拠点、荻野反帝学評議長を輩出)
- 千葉大学(故・武本全学連委員長輩出)
- 福井大学
- 関西大学
- 徳島大学
- 九州大学(狭間嘉明、石井真作らを輩出)
[編集] かつての拠点労組青年部
[編集] 関連組織・団体
- 社青同解放派
- 革命的労働者協会(解放派)
- 現代社 - 公然拠点
- 日本社会主義青年同盟
- 全日本学生自治会総連合
- 全国部落解放青年同盟