須摩洋朔
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須摩洋朔(すまようさく,1907年 - 2000年)は、石川県羽咋郡富来町(現志賀町)生まれの作曲家、トロンボーン奏者。別名明石丈夫(あかしたけお)、築地洋(つきじひろし)、七海富夫。
目次 |
[編集] 略歴
1925年、陸軍戸山学校に入学。1942年7月、南方総軍軍楽隊(隊長・大沼哲)が編成された際、その一員として加わる。泰緬鉄道開通式などに参加の後、1944年9月24日に第二方面軍(在セレベス島)軍楽隊が南京で編成(中支那派遣軍軍楽隊のメンバーを中心としたため)されると、その隊長に任ぜられる。しかし、マニラに到着後、11月13日に爆撃で負傷する。セレベス方面への交通が困難になり、また10月18日に大沼以下中心の隊員29名全員が戦死したこともあり、基隆経由でサイゴンに移動する。移動後、1945年3月の仏印軍武装解除(『明号作戦』)の際には仏印軍軍楽隊の接収に従事、同年5月には第二方面軍軍楽隊の一部と、ビルマ派遣軍軍楽隊が合同し南方総軍軍楽隊が再建された際には副隊長となる(隊長は有井長雄)。戦後、NHK交響楽団(当時は日響)のトロンボーン奏者(ソリストでもあった)を経て、1951年警察予備隊音楽隊(1952年に保安隊音楽隊と隊称変更。1954年に陸上自衛隊中央音楽隊と隊称変更。)の創隊に尽力、同隊の初代隊長となる。1967年に退官後、武蔵野音楽大学の講師を務めた。2000年に逝去。 現在も故郷の学生からの校歌の評判はとてもいい。
[編集] 主な作品
[編集] 作曲
- 大空(陸上自衛隊の公式の行進曲。観閲式の普通科部隊の行進の際に演奏)
- 祝典ギャロップ(観閲式の車両観閲の際に演奏)
- 鬨の声(戦後「歓声」改題されて吹奏楽コンクールの課題曲に)
- 戦陣訓の歌
- 巡閲の譜
- 皇軍の精華
- 壮行譜
- 少年旗手
- 噫呼聖断は降りたり
- ユエの流れ(筒美京平と合作)
- 富来高等学校校歌
- 富来中学校校歌
[編集] 編曲
- 愛馬進軍曲(原曲・新城正一「愛馬進軍歌」)
- 愛国(原曲・瀬戸口藤吉「愛国行進曲」)
- 日本民謡お国めぐり
[編集] 参考文献
- 山口常光『陸軍軍楽隊史~吹奏楽物語り~』三青社、1968年。
- 須摩洋朔「南方総軍軍楽隊記」(山口常光『陸軍軍楽隊史~吹奏楽物語り~』所収)
カテゴリ: クラシック音楽関連のスタブ | 人物関連のスタブ項目 | 日本の作曲家 | 吹奏楽の作曲家 | 石川県出身のミュージシャン | 1907年生 | 2000年没