KENTA
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KENTA | |
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プロフィール | |
リングネーム | KENTA 小林健太 ハリマオ |
本名 | 小林健太 |
ニックネーム | イケメンレスラー |
身長 | 173cm |
体重 | 78kg |
誕生日 | 1981年3月12日 |
出身地 | 埼玉県草加市 |
所属 | プロレスリング・ノア |
スポーツ歴 | 野球 |
トレーナー | 小橋建太 高山善廣 |
デビュー | 2000年5月24日 |
KENTA(けんた、本名:小林健太、1981年3月12日 - )は、プロレスリング・ノア所属のプロレスラー。埼玉県草加市出身。173cm、78kg、O型。
相手がヘビー・格上・師匠であろうが物怖じせず、そのまま突っ込んでいくストレートさと、相手を小馬鹿にした動作や「すかす」クレバーさを備えた珍しいタイプのレスラーである。また、非常にルックスが良いためにプロレスとは関係のない雑誌にも数多く登場し、丸藤正道と共に女性ファン新規開拓の牽引役となっていた。しかし、2006年の5月に入籍を発表。
童顔である為か初期の頃は女性ファンに「ケンタきゅん」と呼ばれていたが、最近の急成長を前にそう言われることは殆どなくなってきている。ムシキング・テリー戦以降から、テリー目当てにやってきたちびっ子達のハートを掴み、子供達の人気も上昇している。
団体内では、本名が小橋建太と一文字違いの為「コケンタ」と呼ばれている。
入場テーマ曲
- For One's Life/BRAHMAN (- 2002年)
- The Champ Is Here(remix)~Art And Life Chi-Roc (2002年 - 2006年)
- What You Know(2007年1月8日 - )
目次 |
[編集] 経歴・戦歴
[編集] 入門前
- 小学校高学年の頃、ファミコンのプロレスゲームで自分と一文字違いの名前のプロレスラー・小橋健太(現・小橋建太)の存在を知り、プロレスに興味を持つ。以降TV・雑誌を通じて小橋の、ひいてはプロレスファンとして成長する。
- 高校野球の強豪・修徳高校時代には野球に打ち込みつつ、小橋がアマチュア時代に体を作るために通っていた遠藤光男氏(日本アームレスリング連盟会長)の主催するエンドウズジムの存在を知り、入会。卒業にあたり、遠藤氏にプロレスラー志望の意を伝えると、小橋と旧知の遠藤氏が小橋宛に履歴書を送り、「一般公募オーディションに参加するように」との返事を貰う。なお、このオーディション参加には、一面識もないにも関わらず小橋の推薦が付いていて本人も驚いた、という秀逸なエピソードがある。
[編集] デビュー
- 1999年、全日本プロレスが新人発掘のために初めて行われた一般公募オーディションに参加し、見事に合格する。練習初日、余りの練習の厳しさに合格者が次々と倒れこんでいく中、テレビのインタビュアーに「後悔していませんか?」と訊ねられたところ、「いえ、していません」ときっぱり答えていた。2000年3月11日、後楽園ホールでのバトルロイヤルでプレ・デビュー。そして合格者(7名)の中で唯一5月24日青森県総合運動公園体育館にて、丸藤正道を相手に本名の「小林健太」でデビューを果たす。しかし、その直後に全日本が分裂しそのまま三沢が設立した新団体プロレスリング・ノアに移籍する。またこの頃、小橋がリーダーのチーム「バーニング」が崩壊、初代付き人の金丸義信も小橋の元を離れ、KENTAが2代目付き人となり、3代目の潮﨑豪に引き継ぐまでの約4年間行動を共にすることになる。
[編集] 新人時代
- ジュニア戦士らしく飛び技主体のスタイルで戦っていたが、その路線には天才と名高い丸藤正道が居たためいま一つ印象が薄く、当時練習生であった鈴木鼓太郎が自分が出来ない跳び技を軽々やってみせていたことから自分のスタイルに迷いが出てくる。また、師匠である小橋にオレンジ色を譲り受けるも度重なる怪我で戦列を離れるというアクシデントにも見舞われた。これは自分はジュニア戦士なのだから飛び技を使えなければならないと思い意図的に飛び技を出していたためである。しかし、練習の虫である小橋の下で鍛えられ、KENTAと改名して復帰する頃には薄く貧弱だった体が引き締まった密度の高い肉体へと変貌し、そのスタイルもパワーを強調したものになっていった。そして2002年5月27日、あわや王者奪取かと思われた第5代ジュニアヘビー級トーナメント決勝での金丸義信戦以降、積み重ねてきたキックボクシングを取り入れたキック中心のスタイルを確立していく。これを前後してルックスの良さからか丸藤正道と並んで若い女性ファンが付き始め、ノアの会場には黄色い歓声が響くようになっていった。
[編集] イケメンタッグ
- 着実に経験と練習を積み重ねていったKENTAは上に食いついていく為に丸藤正道とタッグを組みはじめる。性格はバラバラで特に仲良くもなかったが、タッグの相性は抜群であり、同年7月16日、外敵タッグの獣神サンダー・ライガー・村濱武洋組を退け初代GHCジュニアタッグ王者を獲得する。丸藤の魅せる動きと受け、KENTAのハードヒットという両極端だが非常に分かり易いスタイル、そしてルックスの良さから「イケメンタッグ」と称されるようになり、多くの女性ファンを呼び込むことに成功した。また、ただ見た目が良いだけではなく、試合をすれば必ず名勝負を演じ納得のフィニッシュで勝利を掴むことから、同時期のGHCヘビー級王者の小橋建太と並んで「名勝負製造機」「ジュニア版絶対王者」と賞され、ノアにおけるジュニアの台頭を生んだ。2004年、タッグでの快進撃を続けていたKENTAは「蹴撃七番勝負」を行なう。しかし、初戦のフベントゥ・ゲレーラ以外は全敗という結果に終わる。とは言え、団体のトップヘビーレスラーに対し、一歩も引かず感情をむき出しにして蹴りかかっていくその姿はファン・対戦相手共に高い評価を得る事になる。なお、第二戦の相手小川良成の持つGHCタッグに挑戦を表明していたが、これに敗れてしまった為に反対に小川から鈴木鼓太郎とのタッグでGHCジュニア・タッグ挑戦が決定するもこれを返り討ちにする。この実績から三沢光晴・小川良成組が持つGHCタッグへの挑戦が2004年4月25日に決定した。結果は敗北であったが、ヘビー相手でも十分に戦えることをアピールする。
- 5月7日・8日に行われた第二回ディファカップに丸藤とのタッグで出場。大本命の下馬評通り、決勝戦でタッグ歴6年を誇る日高郁人・藤田ミノル組と35分24秒にも及ぶ激闘を繰り広げ、最後にはブサイクへの膝蹴りで藤田を撃破し見事優勝を果たした。6月5日には金丸義信・杉浦貴組に敗れ、約2年に渡り9度の防衛に成功したGHCジュニアタッグ王座から陥落。
[編集] 主な得意技
ジュニアとしては飛び技(特にダイブ系)が極めて少ないのは、周りのジュニア戦士が軽々と行っていたものを「怖くて出来なかった」ためである。現在では様々な経験を経て、キックを主体としたスタイルを確立し、師匠小橋建太と同様、雪崩式・垂直落下式の危険技も併せ持つ。
- ミドルキック
- 時に高山善廣と合同で行うこともあるキックボクシング仕込の切れ味鋭いキック、KENTAの主力武器。
- ハイキック
- 試合終盤、フィニッシュへ行こうとする時遠慮なしに左右織り交ぜて乱発することが多い。
- ファルコンアロー
- ブレーンバスターの体勢で持ち上げた後、相手の頭が自分の方にくるようあお向けに回転させながら自分は前方開脚、尻餅状態に座りながら股の間に相手の後頭部から背中を投げ落とす。FMWのハヤブサが開発したことでこの名がついた。印象は薄いかもしれないが、現在のスタイルが確立される前から大一番で使用されることが多い技である。
- 2005年以降、ビッグマッチでは雪崩式に使用することもあり、投げ技の中心となっている。しかしこの雪崩式ファルコンアローは相手を回さず、自分が回転するため、落とし方はファルコンアローなのだが、厳密には違う技となる。2006年10月29日の丸藤戦では、断崖式で繰り出した。
- フィッシャーマンズ・バスター
- 相手を前かがみにさせ、左腕で相手の首を下から巻きつけロックし、左腿を右手で抱えて持ち上げる。この状態で担ぎ上げ、垂直落下式に落とす技。ファルコンアロー共々キック主体となる前から度々使用されている。2006年1月22日の丸藤戦では、この技を雪崩式で繰り出している。ちなみに雪崩式は足から落ちるため技をかける側も非常に危険である。
- タイガー・スープレックス
- 詳細はリンク先参照。KENTAのものは三沢式('84)でクラッチしている。2004年頃から使用され始め、中盤から試合を決めに行こうとする繋ぎの投げとしてビッグマッチで使用されている。丸藤とのGHCヘビー級王座戦では雪崩式(下田美馬のデスレイクドライブ)で出した。
- スワンダイブ式ミサイルキック
- KENTAにとっては珍しい飛び技。ファルコンアロー同様、長く愛用している技の一つである。2006年1月22日の丸藤戦の解説(高山善廣)によると、受身の取り方を背中でとるものから、捻りを加え前でとるものに変更したとのこと。
- スワンダイブ式ラリアット
- 柴田との合体技「タッチ・ザ・スカイ」の披露後に使われだした技。相手の位置は違うが(タッチ・ザ・スカイは相手が柴田の肩車に乗せられている)、一人タッチ・ザ・スカイとも言える。
- ローリングラリアット
- 試合終盤にて繰り出される回転してのラリアット。主にビッグマッチにて使われ、返されるとブサイクへのコンビネーションに繋げていく。
- ターンバックル・パワーボム
- パワーボムで担ぎ上げた相手をコーナーのターンバックルに後頭部から叩きつける技。場所が場所だけにタイミングも取りにくく、何処に当たるか分からないので肉体的ダメージの他に精神的ダメージも与えていると思われる技。元々は師匠小橋の技であったが、2005年7月18日の金丸戦、同年10月28日のムシキング・テリー戦、12月17日のロウキー戦、2006年1月22日の丸藤戦と立て続けに使用し、自分の技へとしていった。
- ブサイクへの膝蹴り
- コンビネーションからの膝蹴り。ボディに左掌底→右頬に左掌底→左頬に右掌底→右頬にローリング裏拳→右側頭部に左ハイキックというコンビネーション(ここまでの流れを「ブサイクへの顔面潰し」とも言う)→ロープに走り戻ってきた所で、右膝で相手の首筋・顎あたりを蹴り飛ばす独特の飛び膝蹴り。コンビネーションからの飛び膝を指す場合と、最後の飛び膝のみを指す場合がある。
- 過去に金丸義信は一回転で、藤田ミノルは旋回して受身を取ったことがあり、食らい方にもバリエーションがある。最近では最後の跳び膝を、リング一往復半して溜めに溜めてから繰り出すことも多くなっている。また、ロウキー戦では掌底のコンビネーションをグーパンチとローキックに変え、2006年1月22日の丸藤戦では膝蹴りを後頭部にお見舞いしている。金丸義信・菊地毅の持つIWGPジュニアタッグに挑戦の際、開発・初披露された技で、命名者は当時のパートナー・杉浦貴。挑戦失敗後、杉浦と組んでの試合中にこの技が杉浦に誤爆したことから仲間割れし、杉浦が金丸・橋誠らと組んでKENTAに暴行を働き、それを丸藤正道・鈴木鼓太郎が救出。数年に渡りNOAHジュニアを牽引するブサイクVSイケメン抗争がこの技により勃発したといえる。まさしくKENTAの代名詞・絶対的な決め技であり、この技でトップへの道を駆け上がったといっても過言ではない。
- また、形は同じでも相手によって名前に数多くのバリエーションがあり、「すずきこたろうへの膝蹴り」「イケメンへの膝蹴り」「先輩への膝蹴り」「関取への膝蹴り」「ケツアゴへの膝蹴り」「ノーフィアーへの膝蹴り」「ベテランへの膝蹴り」「伝説の男(絶対王者/鉄人etc)への膝蹴り」「パンチパーマへの膝蹴り(ノアコロ前の解説では×××への膝蹴りとテロップが出て、実況もピー音で隠されたのにも関わらず、試合中には普通にブサイクへの膝蹴りと言っていた)」等がある。ブサイクと思われるレスラーがこれを使用すると、「ブサイクが膝蹴り」になる。
- go 2 sleep
- 自分の左肩に顔がくるようにうつぶせ状態で抱え上げ(ファイアマン・キャリーの体勢)、相手を目の前に落とすと同時に胸元や首・顎あたりにカウンターで左膝を叩き込む。「ブサイクへの膝蹴り」に続くフィニッシュムーブ。相手が落下するタイミングと膝を当てるタイミングの取り方が難しいため綺麗な形で決まらない場合も多く、潮崎豪の顎を骨折させたこともある危険な技である。なお、この名前を意訳すると「おやすみなさい」になり、「これでフィニッシュ」することを意味する。名前、形合わせてKENTAのふてぶてしさが良く伝わる技でもある。
[編集] 人柄
- 丸藤とタッグを組み、ジュニアタッグ王者の長期政権を築いていたが、KENTAは「丸藤さんとは仲が良くない」「タッグを組んでいるのは、あくまで上を獲る為」と平気で言っている。柴田勝頼のことは「ソウルメイト」と言い、趣味も同じ事から公私ともに気の合う仲であることを公言している。
- 周りからイケメンイケメンと騒がれ、自分もそれを逆手にとって「ブサイクへの膝蹴り」という技も使用しているが、本人曰く「自分を本気で『イケメン』だなんて思っている人は居ませんよ」と、周りの騒ぎ振りに少々戸惑っているところもあるようである。
- 「第二回ディファカップ」優勝後、リング上で優勝賞金100万円を受け取ると、小声で丸藤と相談をし始める。開催前に「イケメンは嫌い」「優勝して欲しくない」と優勝大本命だった丸藤・KENTA組に嫌悪感を示していたオッキー沖田(ZERO1-MAX所属のリングアナ、当大会の本部長)を呼び出し、「オッキー、これ、おまえが責任持って星川選手に渡しな」と、試合中のダメージによりくも膜下出血のリハビリを続けている星川尚浩へ渡すよう告げる。沖田はリング上にも関わらず号泣し、これを約束。感動の内に大会を締めた。
- またKENTA自身もオッキー沖田を嫌っていた。その理由は、オッキーがNOAH社長である三沢光晴の事を「緑」と呼び捨てにしているのを目撃したためで、「自分には例える色もないくせに」と憤慨していた。
- 師匠である小橋をめぐる関係で、秋山準とはそりが合わない。普段の興行ではタッグを組むことはまず無い上に、対戦カードが組まれるとKENTAは秋山に対し普段以上の猛攻を浴びせ、秋山も何時も以上の冷徹さでこれに応戦する。この確執が決定的になったのは、2004年に行われたKENTA蹴撃七番勝負の秋山戦である。5月14日の秋山戦前、秋山はKENTAのことは特に触れず、「健康の為にプロレスをやっている」という意味でヘルスクラブ(井上雅央・泉田純至・川畑輝鎮)とこきおろしていた3人と白GHCを賭けて戦うことをアピールする。そして、KENTAを一蹴した後会場の興奮冷めやらぬうちにさっさとマイクを取って3人を呼び出し、挑発を行った。格下とは言えまるで眼中にないと言わんが如くその振る舞いにKENTAは隠すことなく怒りをあらわにする。更に11月13日、七番勝負最終戦の丸藤戦にて丸藤に敗れた直後、潮崎豪が丸藤が獲得していた白GHCへの挑戦表明にやってくる。この挑戦表明をけしかけたのは他でもなく秋山で、一度ならずとも二度まで自分が主役の舞台を邪魔される形となった。なお雑誌等の取材で秋山のことに話が及ぶと、KENTAは敢えて「秋山氏」「白パン」(秋山のリングコスチュームが白のトランクスであることから)と呼ぶ。
- 第2回SEMのボーナスマッチの後、菊タローが「これからは菊KENタッグでタッグベルトを狙います。森嶋、ヨネ、待っていろ!」と言われ、菊タローをつまみ出して「組むことはない」と言っているが、実はこのネタも楽しんでいるのではないのかと言われている(当のKENTA本人はお笑い好きであり、シャイな性格故に自分からコミカルな一面を見せることはない。選手会興行などで他の選手が笑いを狙って入場するときに、ロープに顔を伏せて笑っている姿が目撃されている)。
[編集] 師匠「小橋建太」
上述のプロレス界入りの経緯の通り、KENTAは小橋建太に多大なる影響を受けている。
- 練習生時代には小橋から「俺と一文字違いということで周りから色々と言われるかもしれないけど、お前はお前で小林健太を確立していけばいい」とアドバイスを受けた。また、KENTAが三沢・小橋を差し置いて初のメインに抜擢された時、思ったとおりの試合が出来ず落ち込んでいたところ、「みんなそういう気持ちを経験し、乗り越えて成長していくんだよ」と励まされ、その後は一切試合の話はせずに関係ない話をしてくれたという。以上のように細かいところまで気が付いて、その都度気を使ってくれる小橋に随分と助けられたそうである。
- KENTAという改名の理由は「小橋建太に似ているから」ではなく、NOAH旗揚げ前に小橋が膝の手術で入院していた頃、お見舞いに来ていたTHE YELLOW MONKEYの菊地英昭から「KENTAという名前はどうだ?」という話が出ていたという。その後小林名義で怪我の絶えなかった事から、小橋がその「KENTA」という名前を提案、吹っ切る意味で変えたという。
- NOAH時代、小橋が膝の怪我悪化で長期離脱を余儀なくされた頃、小橋はバーニング解散を宣言する。その旨をKENTA(当時小林)に告げ、付け人も辞めて別のチームにでも行けと言うと「絶対嫌です」と固辞し続け、結局一人だけバーニングに残ることになった。これを聞いた小橋と同期でありバーニングの一員であった菊地毅は「なんでお前だけ残れるんだよ~。なに言って残ったんだよ~」と問いただし、小橋に電話してきて「なんで小林だけ残すんだよ~。ずるいよ~」とごねたらしい。
- 2002年の秋、小橋は膝の手術からの復帰前にKENTAを引きつれハワイにてトレーニング合宿を行った。普通なら観光や買い物を楽しむものなのだろうが、本当に毎日朝から晩までジムにこもって練習をしていた。一応「別に付き合わなくていいよ」とは言われていたが、意地でKENTAも参加していた。しかし最後には耐え切れず、最終日に「今日は休ませてください」と申し出た。なお、2005年9月、丸藤と共に小橋のアメリカ海外遠征の付き添いからそのままファンクラブイベントでハワイに向かったのだが、「ハワイって楽しいところだったんですね」と発言している。また、別の件ではあるが小橋の練習に付き合いすぎて病院に運ばれたこともあった。
[編集] タイトル歴
- GHCジュニアヘビー級
- 第10代
- GHCジュニアタッグ
- 初代、パートナーは丸藤正道
[編集] 関連項目
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