ゲド戦記 (映画)
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ゲド戦記 | |
監督 | 宮崎吾朗 |
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製作 | スタジオジブリ |
脚本 | 宮崎吾朗 丹羽圭子 |
出演者 | 岡田准一 菅原文太 手嶌葵 田中裕子 |
音楽 | 寺嶋民哉 |
配給 | 東宝 |
公開 | 2006年7月29日 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
allcinema | |
IMDb | |
『ゲド戦記』(-せんき、英題:Tales from Earthsea)は、アーシュラ・K・ル=グウィンの小説『ゲド戦記』(主に第3巻の「さいはての島へ」)を原作とし、宮崎駿の絵物語『シュナの旅』を原案とした長編アニメーション映画。
スタジオジブリ制作、宮崎吾朗監督・脚本の独自解釈によるストーリー、東宝配給で2006年7月29日に劇場公開された。
注意 : 以降に、作品の結末など核心部分が記述されています。
目次 |
[編集] 登場人物
- ( )内はその人物の「真の名」。作中(アースシー)の世界では真の名は普段隠すものである。
- アレン(レバンネン):岡田准一
- エンラッドの王子。17歳。謎の影に追われ、国を捨てて失踪。逃走中にハイタカに命を救われ、世界に異変を起こしている災いの根源を探す旅に同行する。
- テルー(テハヌー):手嶌葵
- 顔に火傷の痕がある少女。テナーと共に農作物を育てて暮らしているが、テナー以外の人物(特に自分の命を大切にしない人間)を嫌い、心を閉ざしている。心に闇を持ち折に触れて自暴自棄になるアレンを嫌っていたが、やがて友情を築く。ハイタカには出会ってすぐに心を開き、彼のことを「タカ」と呼ぶ。
- ハイタカ(ゲド):菅原文太
- アースシーの大賢人。世界の均衡が崩れつつある事を察知し、アレンと共に災いの源を探る旅に出る。頬に傷がある。世界の均衡を崩さぬよう、みだりに魔法を使ってはならないと考えている。
- テナー:風吹ジュン
- ハイタカの昔なじみで、彼のよき理解者。「ゲド」という彼の真の名を知っている。親に捨てられたテルーを女手一つで育てている。昔、カルガド帝国にあるアチュアンの墓地の巫女をしていた。このことは台詞のみで語られている。
- 映画では髪は金色だが、原作では髪は黒い。
- クモ:田中裕子
- 永遠の命を得るために、禁断の生死両界を分かつ扉を開いた魔法使い。かつて魔法を濫用したが、ゲドに阻止されたため、彼に復讐する機会をうかがっている。ゲド戦記公式情報のストーリー紹介の欄にあるように男性という設定だが、声優とその外見から女性的に見えるキャラクターとなっている。
- 公式パンフレットによればクモの過去は、かつて「ハブナーのクモ」と呼ばれていたクモは、人が金を払いさえすればパルンの『知恵の書』を使い、望み通りの人間をあの世から呼び出していた。師の魂を呼び出され憤った若き日のハイタカは、泣きわめいて抵抗するクモを無理矢理黄泉の国まで連れて行き、恐怖の底に突き落とした。その後クモは、改心を誓って西へと去ったが、その心の底ではハイタカへの復讐を誓っていたのだった、とある。
- ウサギ:香川照之
- 人狩りを生業とするクモの部下。小心者だが、クモの力をかさに来て傍若無人に振る舞う。アレンを「坊っちゃん」、テルーを「お嬢ちゃん」と呼ぶ。これは声優本人が希望した呼び方らしい。
- 国王:小林薫
- エンラッドの賢王で、アレンの父。ある夜、突如アレンに刺され、魔法の剣を奪われる。
- 王妃:夏川結衣
- アレンの母。国を継ぐものとして、アレンを厳しくしつける。猫を抱いている。
- 女主人:倍賞美津子
- 都城ホート・タウンに住む元まじない師。現在は魔法を信じられなくなり、まがい物の生地を売っている。
- ハジア売り:内藤剛志
- 常習すると死に至る麻薬・ハジアを、アレンに近づき売りさばこうと企む男。
- ルート:飯沼彗
- エンラッド国王の側近で、魔法使い。世界の均衡が崩れつつある事に憂慮している。
- 二人組のオバさん:梅沢昌代・神野三鈴
- テナーの家の近くに住む村人。テナーの作る薬を買っているが、内心ではテナーやテルーの事を薄気味悪がっている。なお、このオバさんたちの動きは、ハウルの動く城で王宮の大階段のシーンを手がけたアニメーター、大塚伸治氏によるものである。
[編集] 原作との相違点
本作品はアーシュラ・K・ル=グウィンによって書かれた「ゲド戦記」が原作であり、世界観や設定、登場人物名や用語などは、少なからず原作と共通している。その一方、原案『シュナの旅』の影響が強いため、原作とは異なる点が多い。 本作品と原作ゲド戦記の主要な相違点は以下のとおりである。
- 影の意味
- 原作3巻にアレンの影は出てこない。鈴木敏夫氏がゲド戦記のテーマに触れる入り口として導入を提案した。原作1巻の影の物語をハイタカからアレンに移植し、影の役割も変わっている。
- 制作者によると本作では影の意味は原作とは対照的に設定されているようである。原作では若きハイタカ(ゲド)の影が「心の闇(憎しみや傲慢)」として描かれているが、映画ではアレンの影が「心の光の存在」であるとして描かれている。
- 原作における影は、光を受けた時に認識する事ができる、様々な受入れがたい心の傷(良心の呵責等)や、結果的に自分を害する事に繋がる弱い心(憎しみや傲慢等)である(参考文献:ル=グウィンのエッセイ「夜の言葉」、第1作巻頭言「エアの創造」)。原作では影は、様々なゲドの経験から蓄積された無自覚な否定したい心の部分が召喚魔法により具現化し実体を脅かす存在となり、実体であるゲドにつきまといゲドは次第に追いつめられて行く。しかし、少年ゲドが影から逃げるのをやめて正面から向き合ったとき、彼は影が自分の一部であることを悟り受け入れ全き人となる。「影は自己認識へ、大人へ、光への旅の案内人なのです」(「夜の言葉」より)
- 宮崎吾朗監督のインタビューによると、映画では悪役クモの仕業によって主人公の「心の光の部分」が切り離されて、光が肉体を追う影となってしまい、影(実は光)は心の闇に支配されたアレンの実体と一体となろうとして追いかけていたと説明されている。つまり、アレンの影こそが実は「心の光の存在」であった。テルーから「レバンネン、そうして命はずっと続いていくんだよ。」という言葉を聞かされ、闇に支配されていたアレンの心に「光」が戻る。
- 原作者は映画に対するコメントの中でアレンの分割状態について批判をしている。
- アレンとゲドの関係
- 映画ではアレンが心の闇に支配されて国王(父)を殺害し国を出奔、そしてハイタカに出会って旅に同行するという展開になっているが、原作ではアレンは、世界の異常を知らせるよう父に命じられて、ロークの大賢人たるゲドに会いに行き、そして2人で旅に出る流れになっている。
- アレンの父殺し
- アレンが国王である父親を殺すという設定は原作にはなく、映画オリジナルである。テルーが親から虐待されたという原作に準拠した設定ともあいまって、均衡の崩れた(人間の頭が変になっている)世界を象徴している。世界の均衡を崩し、人の頭を変にする災いの力はアレンの身にも及んでいた。
- 劇中、アレンが父を刺したのと同じ構図で、アレンがハイタカに斬りかかるシーンもある。2度目のハイタカに斬りかかる方は、劇中はっきりとクモに操られていることが示される。
- アレンの父殺しという設定のできた経緯は、書籍「ロマンアルバム ゲド戦記」のインタビューに詳しく記述されている。発案者は鈴木プロデューサーで、主人公の旅立ちの理由を模索していた吾郎監督は、「この子は父を殺しちゃうんだよ」と言う鈴木氏の一言に初め驚いたそうだが、アレンのキャラクターに合うと思い取り入れた。脚本家の丹羽圭子のインタビューでは、当初アレンはおかしくなった父親に殺されそうになり国を飛び出す、というシノプシスがあったが、鈴木氏が「今の時代を考えると、息子が父を刺すほうがリアルだ」と発案し、吾郎監督が取り入れたと言う。鈴木氏の意見は、日本の近年の痛ましい少年犯罪から来ているものと言えよう。
- アレンの父殺しの理由は劇中はっきりとは説明されず曖昧だが、吾郎監督はインタビューで、アレンは父を憎んでいたわけではなく、たぶん尊敬しており好きでもあったが、自分が陥っていた閉塞感やがんじがらめな気分を抑えきれなくなり暴走し、彼を取り巻く世界、社会の「象徴」である父親に抑えきれなくなった感情の矛先が向かったという講釈をしている。
- よく父である宮崎駿と吾郎監督の関係になぞらえられた推察がされるが、吾郎監督自身は「父さえいなければ、生きられると思った。」というキャッチコピーに対しても、自分のことではない、と否定している。
- テルーの描写
- 映画ではテルーは火傷の跡こそ描かれているものの、基本的にジブリ作品におけるヒロインのデザインを踏襲したものとなっている。『シュナの旅』のヒロイン、テアにも似ている。ジブリの定石である少年と少女の物語にするため、原作では5、6歳(4巻)であるところをアレンと見た目同年代に変更。火傷の位置は原作では右半身にだが、映画では左の目から頬にかけて痣状にある。
- 原作では顔の半分がケロイド化して目がつぶれている、手が溶けて鉤爪のようになっている、と醜悪さを表現する描写が少なくない。また原作では炎によって喉も潰れており、「テルーの唄」のように歌を歌うこともできないとされる。
- 物語の世界
- 映画ではホート・タウンとその周辺で物語が進められるが、原作においてはゲドとアレンは辺境の島々から死後の世界まで、アースシーの世界を縦横に横断している。
- 原作では肌の黒い人間がマジョリティ、白い人間はマイノリティ(カルガド圏出身)である。しかし、映画ではハイタカの肌がやや黒い以外は誰の肌も褐色とはおよそ言えない。原作者は物語で肌の色が濃いのは邪悪さと結びつけられる因習に批判的であるため、この肌の表現にこだわりを持ち、表紙の人物のデザインについて出版社と争うこともあり、ドラマ版製作者と対立したこともある。
- 物語の解決
- 原作では、誰か悪者を暴力で倒すことによって物語の解決を図ろうとはしていない。それに対して映画では、世界の均衡が崩れつつあるのも、竜が食い合うのも悪役クモが生死両方を分かつ扉を開けた影響とされ、その悪役クモを倒すことによって、共食いをしていた竜がラストシーンで仲睦まじく天空高く飛ぶようになる姿を描き、物語は解決を見せ、終わっている。アレンはすべてのいきさつを知る大賢人ゲドと共に国へ帰る(参考文献:公式パンフレット)。
- 本作品の映画の公式パンフレットに『ハイタカはクモという魔法使いが生死両方を分かつ扉を開け、それによって世界の均衡が崩れつつあることを探り出す』と記載されているとおり、世界の均衡を崩し、人々の頭をおかしくしているのは、クモであるが、劇中ではクモが敗れただけであるため世界の崩れた均衡のすべてが解決したかどうかは明確ではない。また、クモの台詞の中に「均衡はすでに我ら人間の手によって破壊されつつある」とあるため、クモだけが災いの原因とは言えない可能性が大きい。
- 劇中、世界の均衡を唯一崩せる存在は「人間」であると暗に示されており、世界の均衡を崩しているのは、本来自分たちのものではないものまで欲する人間の強欲な働きである。クモが不死を欲したことは均衡を崩す強欲な人間の働きの代表であるといえよう。ハイタカも過去の教訓から、均衡を崩さぬよう魔法の使用を控えている。
- 物語のその後
- 2006年10月6日付け全国紙夕刊に掲載された広告には、「国に帰れば死が待っている。二度と会うことの無い二人だけど」とのコピーが記載され、アレンが帰国後、国王殺害の咎により処刑されることが暗示されているが、本作品自体にはそれをうかがわせる描写はない。
[編集] 原案『シュナの旅』(作:宮崎駿)との関係
本作品は、プロットや部分的な絵作りにおいて、宮崎駿作の『シュナの旅』(原案としてクレジット)からの翻案が多い。その主要なものは以下のとおりである。
- プロット(筋書)
- ストーリーの前半で、主人公の少年は悪者に捕まったヒロインの少女を助ける。そしてストーリーのラストでは、心の闇に沈んでしまった主人公の少年が、ヒロインの少女によって心の光を取り戻す。これは本作品と『シュナの旅』に共通するプロット(筋書)である。
- 人狩り
- 人狩りに捕まって首輪を付けられているシーン。また、人買いの車から助けられた際に、同時に枷(かせ)をはずされた同乗の犠牲者達が、再び捕まるという恐怖の為に動けないでいるシーンは『シュナの旅』とほぼ同一である。
- 旅の風景
- 物語の前半で出てくる「砂漠の上に打ち捨てられた巨大船」の風景、また「人々が捨てて去った村の家を覗き込むシーン」は『シュナの旅』と構図が全く同一である。
- ヤックル
- アレンの馬(劇中ではそう呼ばれているが、馬の原型のような動物)はシュナの愛蓄ヤックルに酷似しており、吾朗監督も「あれはヤックルみたいなものです」「もののけ姫ではなくシュナの旅を参考にした」とインタビューに答えている。ただし2本の角は製作過程で取ってしまった、と言っている。
[編集] スタッフ
- 原作:アーシュラ・K・ル=グウィン (『ゲド戦記』)
- 原案:宮崎駿 (『シュナの旅』)
- 監督:宮崎吾朗
- 脚本:宮崎吾朗、丹羽圭子
- 作画演出:山下明彦
- 作画監督:稲村武志
- 美術監督:武重洋二
- 音楽:寺嶋民哉
- 色彩設計:保田道世
- デジタル作画監督:片塰満則
- 映像演出:奥井敦
- 録音演出:若林和弘
- 整音:高木創
- 効果:笠松広司
- 整音監修:井上秀司
- 編集:瀬山武司
- プロデューサー:鈴木敏夫
- 協賛:アサヒ飲料
- 制作:スタジオジブリ
- 配給:東宝
- プロデューサーである鈴木敏夫に参考資料として手渡された、萩原朔太郎の詩「こころ」に着想を得た宮崎吾朗監督が作詞。
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- 主題歌 - 『時の歌』(歌:手嶌葵)(アルバム「ゲド戦記歌集」収録)
[編集] 公開までの流れ
[編集] 監督就任の経緯
監督の宮崎吾朗の父親である宮崎駿はゲド戦記の古くからのファンであり、彼の作品はゲド戦記から大きな影響を受けてきた。名作風の谷のナウシカ(1984年)を映画化する以前、彼は原作の出版元岩波書店に映画化のオファーを取っていたが、原作者側からは断られていた。当時、原作者ル=グィンはアニメとはディズニーのようなものだと見なしていた。1990年代にも再オファーした事があったが、この時も許可は下りなかった。
2003年頃、ゲド戦記の訳者清水真砂子を通して宮崎作品を気に入ったル=グィンからジブリへ正式にオファーが来る。「監督は宮崎駿に」との要望だったが、当時駿は「ハウルの動く城」を制作中だったためにプロデューサーの鈴木敏夫は息子の吾朗を監督に起用することにした。発表当時のインタヴューでは、「前提としてジブリの今後を考え、当の鈴木を含め駿や高畑勲が高齢である為」と述べ、後継を慮り起用したという理由、またジブリ美術館の制作時の手腕を見ての起用であったとされる。
しかし、駿はアニメーターとしての素養がない素人である吾朗が監督に就く事に「あいつに監督ができるわけがないだろう。絵だって描けるはずがないし、もっと言えば、何も分かっていないやつなんだ」とまで言って反対した。このことはゲド戦記CD発売記念記者会(2006年6月5日タワーレコード渋谷)においても鈴木が語っている。ここで鈴木は吾朗にイメージ画を描かせ、吾朗は「竜とアレンが向き合う絵」を描きあげた。これを見た駿は唸り黙ってしまったという。
2005年6月に鈴木と吾朗は原作者との打ち合わせのため渡米する予定だったが、駿は監督がスタジオを離れると言う事に一喝し、駿と鈴木が渡米する事となった。この場で駿はスクリプトについては責任を持つということでル=グィンの了承を得た。なおこの際に上記『竜とアレンが向き合う絵』をル=グィンに見せたが、駿は「これは間違っていますよね」と吾朗の解釈について批判した。
参考
[編集] 海外での反響
韓国では2006年8月10日に上映が始まり、全国で順調な出発を見せている(INNOLIFE)。台湾でも2007年2月9日に公開予定で、他世界約50カ国でも公開が予定されている。なお、原作者アーシュラ・K・ル=グウィンの母国アメリカ合衆国では、テレビ局との契約により2009年までこの映画は公開されることはない。
第63回ヴェネチア国際映画祭で特別招待作品として上映された。当初はコンペティション部門での出品を要請されていたが、諸事情により特別招待作品として参加した。
映画祭での上映に対する現地の評判は、賛否が分かれるとはいえ、多くは手厳しい評価である。「平板なスタイル、創造性に欠けた絵で、それはリアリズムの上に成り立つファンタジーに供する想像を生み出すことを放棄している」(「ウニタ」紙のダリオ・ゾンダ)。「アニメーションはスムーズで、緻密なキャラクターデザインではあるけれども、吾朗の映画は父親の映画における創造性と物語性芸術の高みには達していない。もちろん若者の最初の作品であるから、比較の対象として父の作品を挙げることは公平ではないのだが。」(キャッスルロック.it) (FantasyMagazine)。
一方、原作者のル=グウィンは、映画に批判的な感想を自身のホームページ上で発表した(原作者HP)(ゲド戦記wikiによる直訳と意訳)。
韓国では、アレンが父親を殺すという設定が現地の事情(主に儒教的精神)からふさわしくないため、該当台詞部分の韓国語字幕を「王を殺した」と間接的表現に変更している。
[編集] 興行と受賞
公開2日間で観客動員約67万人、興行収入約9億円を記録した。配給の東宝は初動の結果を受け、興行収入100億円超を目標に掲げたが、9月に入ると最終見込み約85億円と目標を下回る数字を発表。結果的に興行収入約77億円を記録した。2006年邦画興行収入第1位。
- 第30回日本アカデミー賞優秀アニメーション作品賞
- 第3回文春きいちご賞(日本版ゴールデンラズベリー賞と言われるその年の最低映画に贈られる賞)
- 映画芸術 2006年ワーストテン 第一位
[編集] 挿入歌に対する批判と謝罪
諸君!2006年11月号誌上において荒川洋治は、「作詞者宮崎吾朗氏への疑問」と題して劇中挿入歌である『テルーの唄』に対し、「萩原朔太郎の『こころ』に、ある範囲を超えて似すぎている」「参考資料として『こころ』を詞のもとにしたならば、原詩・萩原朔太郎、編詞・宮崎吾朗とでも表記するべきで、作詞・宮崎吾朗とすることにためらいはなかったのか」との批判を行った。
2006年10月21日、毎日新聞はこの件につき報道した。記事の中で三田誠広は、「盗作ではないがモラルの問題として謝辞を入れるべき」「シングルCD購入者はそうであるとは分からず、先行する芸術に尊敬が欠けている」旨述べた(映画「さびしんぼう」主題歌にショパンの「別れの曲」が使用されているのと同種の問題)。
2006年10月24日、鈴木敏夫はゲド戦記プロデューサーとしてこの件につき声明し、「表記について思慮不足であった」との旨を述べ謝罪した。(「テルーの唄」の歌詞の表記の問題について)
原詩との関連についてオリジナルサウンドトラック、劇場用パンフレット、公式WEB、TV番組『ゲド戦記音図鑑~テルーの唄はこうして生まれた』等、映画に関係が深い媒体では『こころ』に着想を得て作詞された旨が解説されていたが、歌そのものであるシングルCDには解説がなかった。
参考として、本問題については本歌取りやオマージュであり、表記については問題がないという見方がある。法律としては現在、『こころ』の著作権は著作権の保護期間を満了し消滅している。
[編集] 批判
映画評論家のおすぎはこの映画を「ゴミみたいな映画」と酷評している。
[編集] キャッチコピー
- 「見えぬものこそ。」
- 「父さえいなければ、生きられると思った。」
- 「かつて人と竜はひとつだった。」糸井重里
[編集] コマーシャル
本作品は、三ツ矢サイダーのコマーシャルにも起用されている。挿入歌の「テルーの唄」をバックに、テルー(登場人物の見出し参照)の声優の手嶌葵がアフレコをしている場面で、劇中のセリフと吹き込むというもの。
[編集] 関連項目
[編集] 関連書籍
- ニュータイプ編『アースシーの風に乗って~映画「ゲド戦記」完全ガイド』角川書店(2006年)
- フィルムコミック1~4巻
[編集] 外部リンク
長編作品 |
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天空の城ラピュタ | となりのトトロ | 火垂るの墓 | 魔女の宅急便 | おもひでぽろぽろ | 紅の豚 | 海がきこえる | 平成狸合戦ぽんぽこ | 耳をすませば | もののけ姫 | ホーホケキョ となりの山田くん | 千と千尋の神隠し | 猫の恩返し | ハウルの動く城 | ゲド戦記 | 崖の上のポニョ |
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