チャールズ・ジェンキンス
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チャールズ・ロバート・ジェンキンス(Charles Robert Jenkins、1940年2月18日 - )は、アメリカ合衆国ノースカロライナ州リッチ・スクエアー出身の元アメリカ軍兵士。階級は陸軍軍曹。北朝鮮拉致被害者・曽我ひとみの夫。北朝鮮より日本に到着直後においてはアメリカ政府は除隊を認めていなかったが、二等兵降格、禁固刑の後、2005年6月21日付で不名誉除隊。
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[編集] 概要
1996年に米軍が発表した記録によれば、ジェンキンスは1955年に15歳で米陸軍に入隊し、1964年には米第8騎兵師団のベテラン軍曹として韓国に駐屯しており、1965年1月5日午前2時30分、板門店南10キロの森の中で4人編成のパトロール隊を指揮している途中姿をくらました。物音がしたので見て来ると言い残したまま3人を置き去りにしたのである。北朝鮮軍に捕らえられた可能性も疑われたが、米軍当局は残された手紙などから脱走と断定した。北朝鮮は間もなく、ジェンキンスは共産圏でのより良い生活のために投降したと発表した。
ジェンキンスは1960年代に平壌放送で何回か放送を行い、1980年代には北朝鮮映画「無名の英雄たち」にニヒルな米軍情報将校役で出演している。平壌外国語大学で英語も教えていた。1978年8月に日本の佐渡島から北朝鮮に拉致されて来た曽我ひとみとは1980年に結婚、二人の娘がいる。
曽我は2002年10月に帰国したが、ジェンキンスと二人の娘は北朝鮮に残留し、2004年7月9日アメリカと犯罪人引渡し条約のないインドネシアのジャカルタで曽我と再会した。この際にアメリカがジェンキンスを直ちに訴追する可能性は低いことを知らされ、2004年7月18日、日本で治療を受けるため一家で来日した。
その後2004年9月11日、ジェンキンスは在日米軍陸軍司令部のあるキャンプ座間に出頭した。下士官用宿舎で司法手続きを行い軍法会議(脱走教唆、敵前逃亡など計4つの罪)による判決が出るまで事務職として勤務、11月3日の軍法会議で禁固30日と不名誉除隊を言い渡された(判決は禁固6月と軍曹から初年兵に降格の上、不名誉除隊、司法取引により減刑)。一般に敵前逃亡などの行為が軍隊においては死刑もあり得るほどの重罪であることを考慮すれば、これは異例の軽い判決であった。
釈放後は妻の故郷である佐渡に赴いた。またジェンキンスには北朝鮮での生活など自叙伝の執筆依頼が「タイム」誌より来ており、正式に契約した。そして2005年10月には自伝である『告白』を出版した。その際、北朝鮮で海へ旅行に出かけた際に妻の曽我を撮影した写真を掲載したが、そこには行方不明になっていたタイ人女性が写っており、更に日本・韓国・タイ以外の国より拉致されたとされる人物がいるとも語っており波紋を広げている。
米国に一時帰国し高齢の母親との再会を果たしたが、生まれ故郷の人々からは脱走兵として批判を受け、必ずしも温かい歓迎を受けたわけではなかったとされる。
テレビのインタビューで、長い間、亡命した彼に特権的な待遇を与えてくれた北朝鮮政府を批判することに道義的な責任は感じないのかという質問を受けたとき、相手(北朝鮮政府)を怒らせてもかまわないと答えた。
海外マスコミ(特に米国)においては彼の行動に対する倫理的な観点からの批判の議論があるが、日本においては曽我への同情論に押されているためか、彼を批判する議論は表面的には殆ど起きていない。
2006年6月、史跡佐渡金山を管理運営する「ゴールデン佐渡」に、施設管理要員として就職することが決まり、6月17日に同社に初出勤した。
今現在、佐渡の土産物店でアルバイトも行っており、そこで記念写真を一緒に取って欲しいと観光客から頼まれることが多い。最近では子供の頃から好きだった、250ccのバイクを通勤用に愛用して乗り回しているとのことで、2006年11月号のミスター・バイクという雑誌で表紙を飾っている。
2007年1月、自宅で転倒し肋骨を折るなどの重傷を負う。
[編集] 文献
[編集] 自著
- 2005年10月 『告白』角川書店(伊藤真訳)、ISBN 4047915106