マイケル・アンドレッティ
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F1での経歴 | |
国籍 | アメリカ合衆国 |
活動年数 | 1993 |
所属チーム | マクラーレン |
出走回数 | 13 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 7 |
表彰台(3位以内)回数 | 1 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
F1デビュー戦 | 1993年南アフリカGP |
初勝利 | - |
最終勝利 | - |
最終戦 | 1993年イタリアGP |
マイケル・アンドレッティ(Michael Andretti,1962年10月5日 - )はアメリカ合衆国ペンシルバニア州ベツレヘム出身の元レーサー。
インディ500、F1、インディカー・ワールドシリーズのチャンピオン・ドライバーであるマリオ・アンドレッティの息子。レーシング一族に生まれ、弟のジョン・叔父のアルド・息子のマルコも現役・元カーレーサーである。 現在はインディ・レーシング・リーグ(IRL)のアンドレッティ・グリーンレーシングのオーナー。
目次 |
[編集] 経歴
CARTではニューマン・ハースに所属していた1991年にチャンピオンに輝くなど多くの勝利を獲得し、アメリカで最も成功を収めたレーシングドライバーの地位をほしいままにしていた。しかし、父のF1時代はGPに同行し、アメリカ人ながらF1で成功することを夢としていたマイケルは、1993年にCARTチャンピオンとして、マクラーレンチームと契約しF1参戦することとなった。契約時、マイケルは「アラン・プロストやアイルトン・セナにも勝つ自信がある。」と強気なコメントを発し、成功への自信を示していた。
しかし、迎えた開幕戦南アフリカGPではスタートでエンストし、その後デレック・ワーウィックに接触し4周リタイヤ。第2戦ブラジルGPでは、スタートでゲルハルト・ベルガーを巻き込んでの派手なクラッシュを起こし0周リタイヤ。そして第3戦ヨーロッパGPでも、オープニング・ラップでカール・ヴェンドリンガーに接触し、0周リタイヤ。開幕前は注目と期待の大きかったマイケルだが、3戦を終了した時点で全て接触リタイヤ(チームメイトのセナは2勝・2位1回)、しかも全て合わせても4周しかこなしていないという状況に、期待の声は急速に薄まっていった。第4戦サンマリノGPでは、ようやくまともに周回を重ねるも、32周目に単独スピンを喫し4戦連続リタイヤに終わっている。
第5戦スペインGPで5位に入り、ようやくの初入賞となりその後は暫く完走が続くが、入賞はスペインGPと第8戦フランスGPの2度という状況だった。そして続く第9戦イギリスGPでは1周目にスピンで0周リタイヤ、第10戦ドイツGPでも5周目の接触事故でリタイヤ、第11戦ハンガリーGPではスロットルトラブルによりリタイヤ(マシントラブルによるリタイヤはこれのみ)と3戦連続リタイヤを喫した。パドックでは、「アンドレッティは今回は何周でリタイヤするか」という会話が囁かるようになっていたという。その後、第13戦のイタリアGPでようやく3位表彰台を獲得するが、その直後にシーズンの残り3戦を残してマクラーレンとの契約を解除し、アメリカへ戻ることとなった。
結局、1度もトップと(セナが通常の形で完走していた場合、セナとも)同一周回でフィニッシュしたことは無かった。アメリカのオープンな雰囲気とF1の閉鎖的な雰囲気の違いに馴染めず、また欧州に拠点を置かずレース毎にアメリカからサーキットへ入る生活を続けたことから、なかなか思う通りの成績を収めることができなかったとされている。
1994年、アメリカへ戻ると、再びCART及びIRLでトップドライバーとして活躍し、自らのチーム(アンドレッティ・グリーン・レーシング(AGR))も結成する。その後2002年を最後にドライバーとしては引退し、AGRのチームオーナー業を専念していたが、2006年のインディ500にはカーナンバー"1"をまとっての参戦が発表された。息子のマルコのAGRからのフル参戦が決定しており、親子対決となると同時に史上初めて3代に亘っての参戦となる。レースの結果は、終盤に親子でトップ争いを演じる白熱の展開になったが、優勝はサム・ホーニッシュJr.、2位マルコ、3位マイケルであった。
[編集] F1とインディ(CART)との比較論争
1993年、輝かしいアメリカでのキャリアに比べて、マイケル・アンドレッティがF1で思う様な成績を収められなかったことと、同年にナイジェル・マンセルがあっさりとF1とCARTでの「2年連続」のチャンピオンを獲得したこととにより、F1とCARTのドライバーのレベルの差の論争を起こすことになった。
その後もジャック・ヴィルヌーヴがCARTチャンピオン獲得後にF1でもチャンピオンを獲得したこと、アレックス・ザナルディがCARTチャンピオン獲得後F1に復帰するが全く結果を残せなかったことにより、ファンの間で様々な論争が展開された。
[編集] アメリカ人F1ドライバー
アメリカにはCARTやIRL、NASCARなどのモータースポーツが盛んであることや、前者と比べアメリカ国内でのF1の人気が低いこともあり、アメリカ人でF1に参戦するドライバーは少ない。アンドレッティが去って以後、2006年にスコット・スピードがスクーデリア・トロ・ロッソからデビューするまで、13年間アメリカ人のF1ドライバーは誕生しなかった。