マルコムX
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マルコムX (マルカムXとも表記される。改名前の名はマルコム・アール・リトル)(Malcolm X, Malcolm Little, El-Hajj Malik El-Shabazz, およびOmowale, 1925年5月19日 - 1965年2月21日)は、アメリカの急進的黒人指導者であり「ネイション・オブ・イスラム教団」のスポークスマン、「ムスリム・モスク・インク」および「アフリカ系アメリカ人統一機構」Organization of Afro-American Unityの創立者。非暴力的で融和的な指導者だったキング牧師らとは対照的に、アメリカで最も著名で攻撃的な黒人解放指導者の一人だった。
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[編集] 生い立ち
マルコムはネブラスカ州オマハに生まれる。元の名はマルコム・アール・リトル(Malcolm Earl Little)。バプテストの攻撃的な牧師だった彼の父親アールは、1931年にミシガン州ランシングで人種差別主義者によって殺害された。頭が変形するほど殴られ、体が三つに切断されるように線路に放置されて轢死体となって発見された。明らかな殺人にも関わらず警察と保険会社は自殺と断定、保険金は下りなかった。その後彼の母は精神を病み、精神病院に送られそこで死亡した。病院側は自殺と発表しているが、遺体発見時の状況や自殺方法等については全く言及されていないため、病院職員によって暴行され死亡したのではないか、と言われている。
マルコムの母は黒人と白人の混血で、マルコムの祖母が白人に強姦されて生まれた。一見すると褐色の肌の白人と間違えられ、そのお陰で職を得られた事もあったが、白人の血が入った黒人である事が発覚すると即座に解雇された。
マルコムは幼い頃から優秀な成績を収め、教師から将来何になりたいかを聞かれた時に弁護士か医者と答えたが、教師からは「黒人は黒人らしい夢を見た方がいい」と諭され、大工になる事を勧められた。高校を中退し、異母姉妹と一緒に住むためにボストンへ転居、リンディー・ナイトクラブで靴磨きの仕事を行った。自伝でデューク・エリントンや他の有名な音楽家の靴を磨いたと語っている。その後、ニューヨークのハーレムでギャンブル、麻薬取り引き、売春、ゆすりおよび強盗に手を染めた。さらに第二次世界大戦中、徴兵を回避するために精神異常を装った。ニューヨークでは黒人男性が白人女性を相手する逆売春組織に入ろうとした事もあったが、母方から白人の血が入っていたため肌の色は漆黒ではなく濃い茶色だったため、組織への入会を断られている。事実、彼は黒人の仲間達から『レッド』の愛称で親しまれていた。
[編集] 服役と改宗
1946年1月12日、20歳のときに強盗の罪で逮捕され、窃盗罪で懲役8~10年が宣告された。通常の窃盗罪は初犯では懲役2年となる事が多い。収監されたチャールズタウン州刑務所ではあらゆるものを罵り、特に神と聖書に対する悪罵から彼はサタンと呼ばれた。
1948年に家族がマルコムをイスラム教に改宗させた。彼は獄中でイライジャ・ムハンマドと彼の行っていたブラック・ムスリム運動に出会い、その教えを勤勉に研究した。マルコムはイライジャと文通を行い、独学で知識を進歩させ、手紙を毎日書いた。姉のエラは、彼をより自由のきくノーフォークのマサチューセッツ州刑務所へ移送する支援をした。そこで彼は熱心な指導者となり、歴史上および哲学上にイライジャ・ムハンマドの教えとネイション・オブ・イスラム教団の正当性を発見した。彼は刑務所内の毎週の討論会に参加し、知識を広げ、筆跡を改善するために刑務所の図書館の全辞書を筆写したりもした。
マルコムは1952年8月7日に釈放され、スーツケースと眼鏡、時計を購入した。後に彼はこれらのものが、自分の生活で最も使用したアイテムだったと語った。
1952年9月、彼はネイション・オブ・イスラム教団から「X」の姓を授かり、これ以降「マルコムX」を名乗ることになる。アメリカ黒人の「姓」は本来の彼らの姓ではなく、奴隷所有者が勝手につけたものにすぎないとネイション・オブ・イスラム教団では考え、未知数を意味する「X」は、失われた本来の姓を象徴するものである。
1957年、ネイション・オブ・イスラム教団のひとりが警察官に暴行を受け逮捕された。教団はこれに抗議、マルコムを中心として留置所前で仲間を病院へ送るよう要求した。これが受け入れられ、教団とマルコムは一躍名を知られることとなった。
[編集] 脱退とメッカ巡礼
1962年、イライジャが少女を強姦し子を産ませていたことが判明しマルコムはネイション・オブ・イスラム教団に失望する。彼はイライジャの行為に怒り、教団内におけるその立場を危うくする事になる。1963年2月に教団は彼を暗殺しようとしたが失敗に終わる。
1964年3月にマーティン・ルーサー・キングとの、最初で最後の対面をした。同年、マルコムはメッカに巡礼。そこで彼は現地のイスラム教徒から熱い歓迎を受ける。白人でありながら自分たち黒人を肌で判断しない彼らに感銘を受け、それまでの考えを捨てた(但し人種概念をもとに大別したとき、アラブ人はヨーロッパ人と同じコーカソイド人種とされるが、肌の白さや文化・宗教の違いからヨーロッパ系白人からは同じ白人としてみなされる場面は少ない)。正統イスラム教徒への転向者としてアメリカに帰国し、ネイション・オブ・イスラム教団を脱退、「アフリカ系アメリカ人統一機構」を組織するが、マルコムとネイション・オブ・イスラム教団の間の緊張は増加した。教団内に侵入したFBIの工作員は、マルコムが教団によって暗殺の対象になったと報告した。メッカ巡礼後マルコムはアメリカの黒人に向けてアフリカへ帰れ、と呼びかけた。
暗殺の対象となったマルコムは、護衛なしでは外を出歩かないようになった。ライフ誌は、M1カービン銃を持って窓から外を凝視するためにカーテンを開くマルコムXの有名な写真を掲載した。写真は、彼と家族が毎日受けていた死の脅迫から自己防衛するというマルコムの宣言から公表された。
[編集] 暗殺とその後
教団はマルコムの暗殺指令をメンバーに下した。教団内のFBI工作員は教団からマルコムの自動車に爆弾を仕掛けるように指示された。1965年2月14日に、ニューヨークの彼の自宅は教団メンバーによって爆弾で攻撃されたが、マルコムと彼の家族は無事だった。
1週間後の2月21日、マンハッタンのオードゥボン舞踊場でマルコムがスピーチを始めたとき、騒動が400人の群衆の中で発生した。男が「俺のポケットから手を離せ!、ポケットにさわるな!」と叫んだ。マルコムのボディーガードが騒動に対処しようとしたとき、男は前に突進し、短い散弾銃をマルコムの胸に向けて発射した。他の2人がステージに素早く近づき、マルコムに短銃を発砲した。マルコムは15発の銃弾を受けコロンビア長老教会病院に運ばれたが死亡が確認された。
マルコムXはニューヨーク州ハーツデールのファーンクリフ墓地に埋葬された。また、ネイション・オブ・イスラム教団メンバー、タルマージ・ヘイヤー、ノーマン・3X・バトラーおよびトマス・15X・ジョンソンの三人が殺人罪で逮捕され、3人とも1966年3月に第一級殺人で有罪と判決された。
マルコムは生前、自分の命を狙っているのは教団だけでなく、FBIやCIAすらも協力しているのではないか、と漏らしていた。彼の死後も、そのような噂は途絶えなかった。
1964年と1965年の間に、マルコムの死の直前まで行なわれたインタビューに基づき、アレックス・ヘイリーによって執筆された『マルコムX自伝』は1965年に出版され、タイム誌によって20世紀の10冊の最も重要なノンフィクションの中の1つに選ばれた。 日本語訳は1968年に河出書房(現河出書房新社)より抄訳版が『マルカムX自伝』と題して刊行。約半分の内容であった。全訳版は1993年に映画『マルコムX』(監督:スパイク・リー、主演:デンゼル・ワシントン)公開に合わせて同出版社より現在の『マルコムX自伝』として刊行された。
[編集] マルコムXとモハメド・アリ
マルコムXは生前及び没後もなお、多くの人物に影響を与えた。なかでも著名なのがモハメド・アリのケースであろう。アリはマルコムXと出会いその思想に啓蒙されイスラム教に改宗する。その時既に自身の本名「カシアス・クレイ」でボクサーとして活躍し、世界チャンピオンになっていたが教団から授かった名前「モハメド・アリ」に改名し、周囲を驚かせた。また、マルコムXの影響を受けてアリはベトナム戦争の徴兵令を拒否する。これは世界タイトルの剥奪及び試合停止などの処分を伴う厳しい選択であったが、アリは自身の理念を貫いた。
[編集] 文献
- 『キング牧師とマルコムX』 講談社[講談社現代新書]ISBN 4061492314
- 『マルコムX最後の証言』 扶桑社[扶桑社ミステリー]ISBN 4594011128
- 『完訳 マルコムX自伝 上』 中公文庫 ISBN 4122039975
- 『完訳 マルコムX自伝 下』 中公文庫 ISBN 4122039983
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Wikiquote-マルコムX
- 公式サイト
- American Rhetoric 「Top 100 Speeches」にマルコムXの有名な演説 "The Ballot or the Bullet"(投票か弾丸か),"Message to the Grassroots"(草の根へのメッセージ)が収録されている。(英語)