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ローマ建築 - Wikipedia

ローマ建築

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ローマ建築(Roman Architecture)は、古代ローマの最も独創的な芸術。共和制ローマ、そしてローマ帝国の支配地域に広く残る遺跡と、ウィトルウィウスの残した『建築について』の存在により、ルネサンスに始まる古典主義建築の源泉となった。

ギリシア建築がほとんどひとつの彫刻のように捉えられ、自己完結的であるのに対し、ローマ建築では建築物が相互に関連し、複合して成り立っているものとして考えられている。そのため、ギリシア建築といえばすぐに周囲から孤立した神殿を思い浮かべるが、ローマ建築ではコロッセオやフォルムなどの様々な機能を備えた公共施設、アーチなどの建築工学が想起される。

万神殿(パンテオン)のドーム
万神殿(パンテオン)のドーム

目次

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[編集] 概説

ニームのメゾン・カレーギリシア神殿とエトルリア神殿の形式が混じりあった帝政初期の神殿建築。
ニームのメゾン・カレー
ギリシア神殿とエトルリア神殿の形式が混じりあった帝政初期の神殿建築。
ハドリアヌスのヴィッラギリシア伝統のオーダーとローマン・コンクリートによる造形が融合した邸宅建築。
ハドリアヌスのヴィッラ
ギリシア伝統のオーダーとローマン・コンクリートによる造形が融合した邸宅建築。
マクセンティウスのバシリカ末期ローマのバシリカ
マクセンティウスのバシリカ
末期ローマのバシリカ

ローマ建築は紀元前6世紀頃から4世紀までに形成された古代ローマの建築である。4世紀以降、ローマ帝国の政治機構と文化は東方に継承され、15世紀まで存続することになるが、この東ローマ帝国の建築はビザンティン建築として、ふつうローマ建築とは区別される。

ローマ建築には、様式の概念で説明できるような固有の意匠や特徴はない[1]。古代ローマは、紀元前1世紀に地中海を取り巻く広大な地域を勢力下においたが、首都ローマと先進的な東方属州、蛮族の割拠する北方の建築活動は一様ではなく、当然、地域的な差異もたいへん大きかった。ただし、一般的にはヘレニズム文化を擁する東方属州は常に伝統的要素の源泉であり続け、一方で、ヌミディア、ガリア、ヒスパニアの属州は様々な点で首都の建築の影響を受け、これを自由に発展させていく傾向にあったと言える。首都は常に保守的傾向にあったので、こうした属州の建築はローマ建築に自由な意匠を提供する役割を担った。

共和制時代に急速に領土を拡張したローマは、地方から流れ込む潤沢な資金と物産によって活発な活動を行うようになり、建築においてはローマン・コンクリートの運用とローマ社会に適合した建築施設を構築した。首都は芸術活動においてたいへん保守的であったため、一般に、このような活動は首都ではなく、まずローマ人入植地や軍事拠点となる都市で行われた。そこで導入された新しい施工技術や公共施設が成功を収めると、首都において採用され、そして文化水準で劣る他の地方都市へと波及していった。

ローマが帝政を敷いてからは、建築を含む諸芸術は皇帝の好みを直接的に反映するようになり、帝国最盛期となる五賢帝時代には、ローマン・コンクリートを用いた独創的かつ壮大な建築を生み出した。2世紀初期まで、ローマ建築を牽引したのは皇帝の手による首都、あるいはその近郊の建築活動であったが、2世紀の四半世紀を過ぎると首都は公共建築で飽和状態となり、ローマ市の建築活動は停滞した。続く混乱期には首都の建築活動は完全に停止するが、この時期、ローマ建築は経済的繁栄を謳歌していた地中海沿岸部の都市で維持された。

3世紀後半に首都の建築活動は再開されるが、ローマ帝国を取り巻く環境は大きく変化していた。テトラルキアによって各地に小ローマとも言うべき都市[2]が建設され、そこでは伝統に縛られない自由な建築が萌芽したが、同時にこれは首都ローマが帝国の活動中心地ではなくなったことを意味した。また、コンスタンティヌス1世によってキリスト教が公認されると、ローマ建築はキリスト教の礼拝空間を生み出す素地としての役割を果たした。

395年のテオドシウス1世の死によって、ローマ帝国は西と東に分裂したまま二度と統合されなかった。西のローマは476年に消滅し、情勢不安、異民族の侵入、戦争などの渦の中でその建築も忘れられていったが、東方ではその経済力と技術力によって、ローマ建築はさらに発展していくことになる(以降のローマ建築については、ビザンティン建築を参照)。

[編集] 歴史

[編集] 王朝時代・共和制時代のローマ建築

エトルリアから直接の影響を受けるようになった紀元前6世紀前後は、ローマ建築の黎明期にあたる。発掘された遺跡から、紀元前2世紀に至るまで神殿の構成にギリシア建築の要素はあまり見られず、また、紀元前2世紀以後にギリシア文明に直接触れた後も、ローマは単純にギリシア建築を導入したわけではなかった。

[編集] ギリシア芸術の導入と北方の植民都市

紀元前4世紀まで、ローマ市は地中海文明からは完全に取り残された、どちらかというとあまり目立たない存在だった。しかし、紀元前338年のラティウム戦争の勝利によってカンパーニアにまで勢力を広げると、紀元前275年のエピロス戦争と紀元前247年の第一次ポエニ戦争の勝利によって、ローマは南イタリアを手中に収めることに成功した。紀元前200年頃のイタリア半島南部およびシチリア島は、シュラクサやポセイドニア(パエストゥム)などのギリシア植民都市が割拠しており、そこはまさにヘレニズム文化の領域であった。

ローマはさらに、ポエニ戦争の終結後、紀元前200年に マケドニア王国と緒戦を開き、紀元前146年にコリントスを征服、マケドニア王国、アテナイを制圧してバルカン半島に進出した。文化的に高い水準を維持していた南イタリアやバルカン半島の征服と略奪は、ローマに高度なギリシア芸術をもたらし、ローマ人に無批判に受け入れられた。彫刻や絵画、陶器といったギリシア芸術は、やがてローマの全時代を通じて極端なまでに権威化され、決して破棄されることはなかったのである。建築も、オーダーなどの装飾については、西ローマが衰退するまでギリシア芸術の影響から脱することはなかった。

一方、ローマは紀元前224年にイタリア半島北部に南下してきたガリア人を駆逐、アルプスに至る北方地域にも領土を拡大していた。共和制時代に北イタリアには多くの植民都市が建設されたが、これによってローマは、ローマ式の社会構造とそれを収容する施設を都市に導入する機会を得ることになった。アリミヌム(現リミニ)、プラケンティア(現ピアチェンツァ)、ティキム(現パヴィーア)、ネマウスス(現ニーム)、コムム(現コモ)などの軍事拠点都市にはローマの社会構造と地中海文明の都市形態が導入され、これは今でも、格子状の街路によって整然と区画された都市のかたちとしてはっきりと認めることができる。

[編集] ローマ社会の形成と共和制時代の建築

紀元前2世紀以後、急速に進んだ社会構造の複雑化に対応するため、ローマではギリシア起原の建築も独自に修正され、都市の中に組み込まれていった。特に南イタリアでは、典型的なローマ建築と思われている建物、すなわち闘技場、劇場、そして恐らく公共浴場とバシリカを作り出した。共和制時代の都市が残るポンペイの遺跡では、紀元前55年に建設された最初の恒久的なローマ劇場と闘技場が残っている。バシリカもローマ領内では初期のものに属する。このように、共和制時代のローマ建築は、社会構造に適した建築を新たに作り出したり、あるいは作りかえたりしていた。

タブラリウム(ローマ)
タブラリウム(ローマ)

共和制末期の紀元前45年には、ローマは地中海を中心として、大西洋から黒海に至る広大な領土を獲得した。そして、あらゆる都市に首都ローマの政治的・社会的構造と文化をもたらすことになった。フォルムとこれに付随するバシリカ、元老院、コミティウム、タブラリウム(公文書館)、サエプタ(投票所)、そして神殿などの公共建築は、首都の建築を直接、または間接的に模倣して建設された。現在のローマに残る共和制時代の建築は紀元前78年に建設されたタブラリウム(公文書保存所)しかないが、共和制初期に建設された植民都市を発掘すると、かつてローマに建設されていた建築物を模倣した建物が発掘される。

ただし、植民都市はローマの影響を受けるばかりではなく、保守的な首都に代わってローマン・コンクリートなどの新技術を取り入れる実験場の役割を果たしていた。代表的なものが、アーチとトンネル・ヴォールトの採用である。

紀元前4世紀までにアーチの運用方法は確立されていたが、最初は目立たない場所か、あるいは倉庫などの美的観点が要求されないものに使用されていた。紀元前2世紀頃になると、ポンペイの円形闘技場やペルージャのポルタ・マールツィア門などに見られるように、建物の開口部をアーチの連続するリズミカルなものに変えてしまうほど活用され、やがてこれは首都ローマの建築にも導入された。このような運用が確立されると、オーダーは構造的な意味を失ってその権威も低下するが、オーダーが単なる装飾として意識されるようになるのは、さらに後の時代になってからである。

プラエネステ(現パレストリーナ)のフォルトゥナ・プリミゲニアの聖域は、共和制時代の最も完成された建築であり、しばしば初期ローマ建築の傑作とされる。この建築の正確な建設時期は議論があるが、紀元前2世紀から紀元前1世紀の間と推定される。ギリシア建築の形態を徹底的に解体した構成や、テラスを上がるごとに建物の姿が現れる仕組み、アーチによってリズミカルにまとめられた立面、そしてローマン・コンクリートによる格間ヴォールトなど、あらゆる要素で時代を先取りした建築となっている。

[編集] 帝政黎明期の建築

ローマ市は共和制時代を通じて常に保守的であり続け、これは帝政が敷かれてもしばらく維持されていた。しかし、ローマ大火の後にネロ帝が市中心部を作り替え、ドミティアヌス帝がドムス・アウグスタナを建設したことによって、後の皇帝たちは、ためらうことなく新しい巨大公共建築物を首都に導入するようになった。

[編集] オクタウィアヌスによるローマの整備

フォルム・ロマヌム左よりセプティミウス・セウェルスの記念門、サトゥルヌスの神殿、バシリカ・ユリア、右側丘の上にドムス・アウグスタナ、中央奥にコロッセウムが見える
フォルム・ロマヌム
左よりセプティミウス・セウェルスの記念門、サトゥルヌスの神殿、バシリカ・ユリア、右側丘の上にドムス・アウグスタナ、中央奥にコロッセウムが見える

ユリウス・カエサルと、その後継者オクタウィアヌス(アウグストゥス)は、保守的傾向の強い共和政末期の建築を継承した。

皇帝を中心とする政治組織の確立によって皇帝の影響力は絶大なものとなるが、これはローマ建築にとって、なによりもまず皇帝自身の好みや選択が建築の形態を示唆するようになったことを意味していた。ただし、芸術の保護者としての地位にあったにもかかわらず、オクタウィアヌスの時代に顕著な建築的特徴というものはあまり見られない。彼にはカエサルの残した壮大な都市計画を完結するという仕事が残されていたので、ローマ中の工房が多忙を極め、個人的な傾向や趣味が反映されることがなかった、あるいは彼自身にそのような興味がなかった、といった理由が考えられる。

実際に、オクタウィアヌスが完成させた計画は、そのほとんどがカエサルによって立案されたものであった。フォルム・ロマヌムの西側の再建もそのひとつで、バシリカ・ユリアはカエサル時代に一応完成したが、その後火災に遭ったため、12年にオクタウィアヌスによって再建された。オクタウィアヌスの都市計画は、友人でもあったマルクス・ウィプサニウス・アグリッパという有能な人物によって進められ、ローマの上水道システムの再構築とテヴィレ川の治水工事は彼の能力によって完成した。また、彼はローマ市にはじめて浴場を建設したことで有名だが、残念ながらその仕事は80年の火災によって完全に失われている。

フォルム・アウグストゥムが最終的に完成したのは概ね1世紀末と考えられているが、建築の骨格部分はオクタウィアヌスの時代にはすでに完成していた。当時としてはずば抜けたスケールの建築物であるが[3]、建築の活力という意味ではこの建築物にみるべきところはない。これはギリシア芸術の権威とローマの工房の保守的傾向の帰結であり、彼の時代のローマ建築の特徴を端的に示している。

ただし、フォルム・アウグストゥムには類を見ない豊かな装飾がふんだんに取り入れられた。彫刻を飾るためにアテネから職人が呼ばれ、表面には高価な大理石が使用された。オクタウィアヌスに続く初期帝政時代、部装飾はほとんど成金趣味的なほどに多産な時代を迎え、彫刻は独自の発展を遂げた。大理石はそれまでアッティカやヌミディアから輸入されていたため記念建築にしか採用されなかったが、ルーニ(現カッラーラ)の石切り場が開かれたことによって、化粧張りではあったが一般的な仕上げ材として用いられるようになった。

[編集] ローマ中心部の開発

保守的な帝初期のローマ建築にあって、皇帝ネロが造形に与えた影響は大きい。彼はローマ芸術の保護者を自認しており、64年の大火災の後、ローマ中心部にドムス・アウレア(黄金宮殿)を建設した。ほとんど誇大妄想的な巨大宮殿で、密集したローマ市街にあって、エスクイリヌスの丘(現エスクィリーノの丘)の斜面にテラスを造り、人工池(現在コロッセウムがあるあたり)を見下ろす、すばらしい景観を眺めることができた。内部は大理石やモザイクを使った贅沢なもので、グロテスク装飾はラファエロ・サンティに影響を与えるものであったが、この建物の革新的な部分はローマン・コンクリートによって構築された、ヴォールト天井とドームが架けられた八角型の部屋である。八角堂の形式は他にみられないが、ドムス・アウレアではじめて採用されたとは考えにくいので、直接の原型があると考えられる。ドムス・アウレアで革新的な造形が採用されたことは、他の建築に新しい技術や意匠をもたらす契機となった。

コロッセウム
コロッセウム

ネロの追放とそれに続く混乱期の後、実権を握ったウェスパシアヌスは、ネロのドムス・アウレアの人工池があった場所を埋め立てて、コロッセウムを建設した。コロッセオの意匠はルネサンスの建築家たちによって繰りかえし手本とされたが、当時はどちらかというとすでに使い古されたデザインで、この建築物のすばらしさはむしろ工学的な部分にあると言える。基礎はかなり深く造られており、池の跡に建設されたにも関わらず建物は全く沈下を起こしていない。下部構造は切り石による積石造で、上部構造は重量を軽減するためにコンクリートが用いられた。建設は4つの部分に分割施工され、材料に応じて入念に行程分けされた。その組織的かつ効率的な建設事業はたいへん高度なもので、ローマ建築の技術レベルの高さを物語る。

[編集] 五賢帝時代

ネルウァと彼に続く五賢帝時代はローマ帝国の最盛期であり、ローマ市は東西の中心にあって、ローマ建築に絶大な影響力を及ぼした。ハドリアヌスの死によって建築活動は衰退するものの、首都の建築の威光は3世紀後半の混乱期を経てテトラルキアが始まるまで存続した。

[編集] トラヤヌスの時代のローマ建築

トラヤヌスの浴場この遺跡の下にドムス・アウレアが眠る。
トラヤヌスの浴場
この遺跡の下にドムス・アウレアが眠る。
トラヤヌスのマーケット
トラヤヌスのマーケット

トライアヌス帝の建築を考察する際には、建築家ダマスカスのアポロドーロスの名を挙げなければならない。彼がどのような趣向を持った人物だったかについては議論があるが、ローマン・コンクリート技術を巧みに操ることのできた技術者で、都市計画についても知識を発揮できた人物であることは確かである。

ローマの公共浴場はカンパーニアで始まったと考えられているが、いわゆる皇帝浴場とよばれるタイプの建築はトラヤヌスの浴場で完成された。この浴場はエスクイリヌスの丘に建設され、ネロのドムス・アウレアの跡に建設されている。ウェシパシアヌス帝が起工し、皇帝ティトゥスによって完成されたティトゥスの浴場も、トラヤヌスの浴場とほとんど同じシステムをもっていたと考えられているが、トラヤヌスの浴場は施設の中心に大広間とプールが付け加えられており、南に向かって窓ガラスが嵌められた開口部の列が取り付けていた。機能的には、それぞれ個別の施設であった浴場とギムナシウムが完全に融合しており、これは以後の浴場建築の雛形となった。

トラヤヌスのマーケットは、エスクイリヌスの丘とカピトリヌスの丘を結ぶ線上に計画されたトラヤヌスのフォルムの一部を成しており、斜面の等高線に沿った3方向からのアクセスが考えられていた。下部はフォルムからバシリカを経て到達するもので、2層からなる半円形平面を形成する。その上部の道は今日もヴィア・ベラティカと呼ばれる街路として残っており、3階建ての店舗と集合住宅に囲まれていた。東側はそこからさらに上の道に通じていた。トラヤヌスのマーケットは実用的な商業建築であったので、使われている装飾は少ないが、プランニングは共和制時代の鈍重さから抜け出した自由なもので、アーチを用いた戸口のリズミカルなパターンとカーブしたファサードはローマ建築のあたらしい構成要素のひとつとなった。

[編集] ハドリアヌスの建築と首都ローマの停滞

パンテオン
パンテオン
ハドリアヌスのヴィラカノプス
ハドリアヌスのヴィラ
カノプス
ハドリアヌスの霊廟下部構造の部分がローマ時代のもの。上部は要塞として改修された。
ハドリアヌスの霊廟
下部構造の部分がローマ時代のもの。上部は要塞として改修された。

古代世界で最も偉大な皇帝と呼ばれるハドリアヌスは、トラヤヌスが獲得したパルティアなどの不安定な領土の維持を放棄し、国境線を画定した[4]ため、バル・コクバの乱を除いては、帝国は平和な時代を迎えた。

ハドリアヌスによって着工された建築は、どれもローマ建築を代表するものばかりである。

118年から128年にかけて建設されたパンテオンは、おそらくローマン・コンクリートによる造形の最も完成された建物で、現在でもローマ建築の内部空間を実感できる希有な建築物である。平面はたいへん単純なものであるが、圧倒的な大きさの半球のドームと、その頂点から差し込む光によってたいへん象徴的な空間となっている。あまりにも完成された空間であったことと、構造を改編することが容易だとは思われなかったことで、ローマが完全にキリスト教化した後もこの建物は破壊されず、608年か610年前後にキリスト教の聖堂として聖別された。

ハドリアヌスがティヴォリに作らせた田園邸宅は、18世紀にイギリスで好まれたカントリー・ハウスに酷似した建築である。風景に対する憧れはローマの人々の心にすでに刻まれていたもので、キケロやティベリウス[5]、ネロ、ドミティアヌスらは、自らの好む別荘や田園邸宅を所持していた。ハドリアヌスのヴィッラは、この種の建築としては残存する数少ないものであるが、その趣味はかなり折衷的なもので、彫刻については完全なギリシアのものからエジプト風のものまで一緒くたに置かれており、ほとんど好事家的である。建物そのものには、技術的洗練と曲線の多用、色彩への関心、そして内部空間を外部に率直に表現することへの試みが見られる。それを一概に述べるには、あまりにも多くの事象がこの中に詰め込まれているが、それがこのヴィッラの魅力であると言えよう。

ハドリアヌスの建設した建物で、最も有名で、最もよく目にするものが、現在はサンタンジェロ城と呼ばれているハドリアヌスの霊廟である。上部は後に補強されたもので、現在はローマ時代の下部構造が残る。その着想はアウグストゥスの霊廟にあることは間違いないであろうが、より現代的な、そして要塞のようなデザインであった。実際に、4世紀にはアウレリアヌスの市壁に組み込まれた軍事要塞として活用され、現在では完全に城として生まれ変わっている。

アントニヌス・ピウスが即位した138年以降、ローマ市の建築活動は完全に停滞する。首都ローマは2世紀中期には継続的な建設活動によって公共建築の飽和状態を迎えており、また、文化的にも急速に進んだ西方属州に追いつかれようとしていた。これ以降の比較的大きな公共工事は、わずかにカラカラ帝の時代にカラカラの浴場とパラティヌスの丘の宮殿拡張工事が行われたに過ぎない。続く3世紀には、政治的混乱によって首都の建築活動は完全に停滞期を迎え、やがて首都はコンスタンティヌス帝によって完全に見捨てられることになるのである。

[編集] 属州の繁栄と四分治制

首都の停滞をよそに、ローマ帝国領属州では劇的な変化を迎え、特に地中海周辺部は空前の経済的繁栄を達成した。リビアにはカルタゴの商業都市レプティス・マグナとサブラタ、 アルジェリアにはタムガディなどの都市遺跡が、かなり良好な状態で残っているが、これらは地中海の物質文明の繁栄を今日に伝えている。

[編集] 東方属州の伝統的建築と地方様式

ミレトスの公共浴場跡
ミレトスの公共浴場跡
パルミラの幹線道路の列柱
パルミラの幹線道路の列柱

ギリシア、小アジアのエーゲ海沿岸部では、ヘレニズムの伝統が常に生き続けた。東方属州も最終的にはローマの建築工学と施設を受け入れるが、バシリカですら、小アジアでは2世紀になってようやく導入されるほどで、比較的すんなりと受け入れられた建物は公共浴場のみである。エフェソスやミレトス、アンキュラ(現アンカラ)などにその遺構が残るが、この施設は東方で先例がなかったため、イタリア形式のものがほとんどそのまま建設された。

ただし、軍事拠点都市では、かなり強力なローマ化が計られた。代表的な都市がコリントスで、これは古代ギリシアを代表する都市のように見えるが、実際には、現在の遺跡に古代ギリシアに由来するものはほとんどない。

東方の属州であっても、ヘレニズムの伝統が比較的浅い地域では、ローマ建築はかなり早い段階で浸透した。バールベックはローマの神々ではない土着神の信仰中心地であるが、アウグストゥスが都市を改編した後、徹底的にローマ化された。アウグストゥスの時代の造営には、首都ローマの国家建築を建設した人々が動員されたことが知られている。バールベックのようなシリア的ローマ建築は、アンティオケイア、ダマスカス、ゲラサ、パルミラなどで見られるが、例えば巨大な列柱道路、中央アーチの左右に水平梁を配置するペディメントなどは、瞬く間に小アジアの都市を席巻し、初期ビザンティン建築においても広く採用された。

シリア的意匠が小アジアのみでなく、地中海沿岸部にかなり早く広がったとは、ローマ建築における首都の影響力がますます低下していったことを意味する。2世紀には属州の文化的・経済的水準は首都ローマに匹敵するほど底上げされており、建築のアイディアは首都ローマを経由することなく、属州相互の間で交換されるようになった。また、属州では、イタリア半島のように良質なローマン・コンクリートを得ることができなかったため、建築材料は主に煉瓦を用いたものとなった。煉瓦でヴォールトを構成するという、西方世界ではほとんど採用されることのなかった技法は、やがてローマ建築の新しい手法となり、後にビザンティン建築に継承される。

[編集] 首都の衰退とテトラルキア

アウグスタ・トレウェロムの都市の復元
アウグスタ・トレウェロムの都市の復元

3世紀後半、首都ローマでは休止状態を経て建築活動が再開される。しかし、この時代に建設されたものはどれも保守的で、はもはや首都ローマの威光は完全に衰退していた。それに加えて、北方と東方から蛮族の侵入が繰り返され、アウレリアヌス帝はローマの市壁の建設に着手せねばならなかった。ただし、帝国全体を眺めた場合、その衰退は、少なくとも建築においてはたいへんゆっくりしたもので、危機の時代にあっても、比較的平和な北アフリカから中東にかけての都市は繁栄を続けていた。

政治的混乱の末、ディオクレティアヌス帝は四分治制(テトラルキア)と呼ばれる統治方法を構築し、その拠点を地方都市に移した。テトラルキアは結果的に失敗することになるが、ローマ建築にとっては、それまでに考案された技術や意匠をかなり自由に伝播させることになり、大胆な建築を生み出す原動力になった。テッサロニキではガレリウスによる霊廟と凱旋門、トーリアには現代的な意匠を持った宮廷謁見室とポルタ・ニグラ、ローマにはリキニウスのパヴィリオン(いわゆるミネルウァ・メディカ神殿)、マクセンティウスのバシリカなどが残る。

[編集] 末期ローマ建築と初期キリスト教建築

サン・ロレンツォ聖堂下部は末期ローマ時代のものである。
サン・ロレンツォ聖堂
下部は末期ローマ時代のものである。
ガッラ・プラキディア霊廟小さいが末期ローマの重要な建築物。内部に美しいモザイクがある。
ガッラ・プラキディア霊廟
小さいが末期ローマの重要な建築物。内部に美しいモザイクがある。

四分治制による首都の拡散は、ローマ建築に新たな息吹を与えたが、このような体制はディオクレティアヌスの強力な手腕によって維持されたものであり、彼の死後、ローマ帝国は急速に安定を失った。混乱の中で、コンスタンティヌス帝がリキニウス帝に打ち勝ってローマ唯一人の皇帝の座に着いたとき、ローマの政治体制は分権行政でなければ成り立たないほどに肥大化・分散化していた。彼は、現実的選択として帝国を二つに分け、東はコンスタンティノポリスを、西はミラノ、後にラヴェンナを首都とする統治体制を採った。その結果、経済的に恵まれた東方でローマ建築は新たな建築の道を開き、西方世界は歴史の荒波のまっただ中に放り出され、衰退することになるのである。

ローマ建築の最終局面は、キリスト教と深い関わりがある。すでにローマ帝国領では至る所でミトラ教、マニ教などの東方宗教が信者を獲得したが、最終的に成功を収めたのはコンスタンティヌス帝に協力したクリストス教(キリスト教)であった。

コンスタンティヌス帝がミラノ勅令によってキリスト教を容認した後、ローマ帝国領土内ではいくつもの大教会が建設されたが、これらの教会はローマの世俗建築であったバシリカを採用した。しかし、これらの教会堂にヴォールト天井のものは存在しない。キリスト教徒にとって、ローマのヴォールト構造は世俗的で物質的なものだったらしく、ヴォールトはかなり後の時代になってから採用された。装飾についてもフレスコ画は使われず、光を反射させるモザイクによって壁の量塊を極力非物質化させる努力が払われた。なぜ彼らがバシリカを採用したかについては諸説あるが、様々な要素が複雑にからみあって成立したのだと推測される。

[編集] 特徴

ローマ帝国では、ギリシア芸術古典的形態を保持することが慣例化しており、通常ローマ芸術とされるものの多くは、ギリシアの建築家・芸術家の作によるものである。ギリシア芸術の権威は高く、新たな形態を導入するには、それを意図的に打開しなければならなかった。そのなかで、新しい造形を生み出す助けとなったのが、技術革新とローマ特有の新しい施設の建設であった。

[編集] ローマの都市

ローマが領土を獲得するにつれて各地には植民都市が新設されたが、都市の構造を逐一立案するのはたいへんな労力と想像力を必要としたため、これらの都市には画一的な一般原則が適用された。

ローマ新設都市の構造は、正方形、または長方形に整然と区画されたもので、都市中央には東西南北に大きな幹線道路を通した。南北に通る線を、蝶番や軸を意味するカルドと呼び、東西の幹線をデクマヌスと呼んだ。デクマヌスの語源は不明であるが、カルドは天空の回転軸を意味するもので、都市の創建者ははじめにこの二本の軸線を決定した。こうしてできる都市の輪郭はおおむね正方形で、デクマヌスとカルドの延長に、四つの大きな城門が設けられた。街路によって正方形に区画される都市計画は、あきらかに古代ギリシアからもたらされたもので、エトルリア人によって建設された都市にも認められる[6]。このような明確なプランが認められない場合、その都市はかなり由来が古いと言って良いであろう。

ローマの場合、王制時代にはフォルム・ロマヌムにカルドとデクマヌスが走っていたらしいが、共和制時代にはすでにこの二本の幹線路は失われ、放射状の道路が形成されていた。北に通じるラータ通りは市街を抜けるとフラミア街道になり、アウェンティヌスの丘のふもとから南西にオスティア街道が、カエリウスの丘のふもとから南にアッピア街道がそれぞれ抜けていた。当時、人口の増大によってローマに明確な都市の形態はなくなっていたが、それでも都市の構造を明確にする意味から、共和制末期にフォルム・ロマヌムの再建が行われている。フォルム・ロマヌムの軸はすでに古来のデクマヌスとはかなりずれており、東西南北に軸線を構成することは不可能になっていた。そればかりでなく、フォルム内の軸も聖なる道から著しく折れ曲がってしまった。共和制時代のローマの都市計画は、同時代の東方の都市の水準からすると、著しく後退していたのである。

ローマの再建を妨げていたのが、首都の超過密状態であった。次第に共同住宅は高層化し、ありとあらゆる土地に住宅が建て込まれたため、公共建築をたてるスペースは限られていた。ユリウス・カエサルは、このような状況を打開すべく、当時宗教的タブーによって開発されていなかったマルスの野(カンプス・マルティウス)に都市を拡張することをはじめる。続いてオクタウィアヌスはエスクイリヌスの丘に住宅の建設用地を確保したが、それでもローマの過密状態は回復することがなかった。ただし、皇帝の権力が確立されたことによって、ローマの中心部は、皇帝の命令によって首都にふさわしい環境が整備されていった。歴代皇帝によるフォルムは、ローマが首尾一貫した都市の形状をつくることができた一例である。

[編集] フォルムと行政施設、娯楽施設

サブラタの劇場
サブラタの劇場
マルケルス劇場
マルケルス劇場
ニームの円形闘技場
ニームの円形闘技場

ローマ都市に必ず置かれた施設がフォルムである。最初は商人が露店をひらく広場であったが、紀元前3世紀ごろにギリシアのアゴラから着想を得た列柱が導入された。いくつかの例外があるが、フォルムはカルドとデクマヌスが交差する都市中心部にあり、市街の形成もフォルムからはじまった。フォルムにはバシリカとクリアが併設され、バシリカは悪天候の際に使われるもうひとつのフォルムとして[7]、クリアは元老院の会合に使われるホールとして機能した。神殿もフォルムの中かその付近に建設され北方属州では、これらの建物が完全に融合した、フォルム・バシリカ・神殿複合体が考案された。このタイプは、後に皇帝のフォルムに採用され、トライアヌスのフォルムにおいて完成された姿となった。

劇場と円形闘技場は、正方形に区画された都市に配置しにくい施設であったが、ローマ都市遺跡の中では最も保存状態の良いものである。

劇場はギリシア発祥の建築であるが、ローマはギリシア劇場をそのまま受け入れたわけではない。ギリシア劇場は、観客席の前に合唱隊が配置するオルケストラがもうけられていたが、ローマの戯曲に合唱隊は必要とされなくなったので、オルケストラは必然的に小さなものになった。ローマ劇場で特に目を引くのは舞台背景となるフロンス・スケナエである。フロンス・スケナエは通常3層で、中央と両側の3つの扉を備え、重要人物は中央から、さして重要でない役は両側の扉から登場した。声優の声を観客席に届ける役割を果たすこの設備は小アジアで考案されたものであると考えられるが、ローマにおいて洗練され、やがて西方に広がっていった。ギリシア劇場は擂鉢状の土地にしか建設されなかったが、ローマでは平地でも劇場が作られ、オデイオンやアウディトリウムと呼ばれるより小規模なものには屋根が架けられた。

円形闘技場は、剣闘士や猛獣の血なまぐさい見せ物のために建設されたもので、最も古い闘技場はポンペイのものである。競技場(キクルス)とおなじように、漏斗状の地形を利用して建設されているが、競技場とは別の施設としてカンパーニアで生まれたものと考えられている。ウィトルウィウスによると、ローマでは、この種の競技はフォルム・ロマヌムで行われており、帝政初期には恒常的な建築ではなかったが、ウェスパシアヌスによってようやく首都にふさわしい競技場が建設された。45,000人を収容できたとされるコロッセウムは、マルケルス劇場と類似したファサードを持ち、帝国の最も高い技術が集約されている。ただし、地方都市では、ローマよりもすでにかなり早い段階で恒久的な闘技場が建設されており、セント、アルル、ニーム、イタリカなどでは首都にもひけをとらない大きさの円形闘技場が建設されていた。

[編集] ローマン・コンクリートと建築のプレハブ化

ローマ建築の主要材料は、主要な公共建築を除いては、現地の材料とオープス・カエメンティキウム(ローマン・コンクリート)によって建設されている。ローマの構造体は表面の石や煉瓦の積み方によって分類され、煉瓦であればオープス・テスタケウムとか煉瓦と石の混成積みであればオープス・ミクストゥムなどと呼ばれるが、その内部はモルタルと骨材(カエメンタ)による充填材で成り立っており、表面材としても使われるこの充填材を、今日ローマン・コンクリートと呼んでいる。これは、今日用いられているコンクリートとは全く別のもので、イタリア西部の砂ポッツォラーナ(科学的には砂ではなく、二酸化硅素を多量に含む沈殿物)を石灰モルタルの水和反応によって固化するものである。

共和制初期のローマン・コンクリートは強度にばらつきが多く、混和剤の調合量やポッツォラーナの比率などは経験(と、かなりな部分は運)に頼っていたようである。しかし、長期に渡る経験と試行錯誤によって、共和制時代の末期までには、ローマン・コンクリートはある程度、安定的な運用を可能にしていた。それでも、紀元前33年に起工したアグリッパの水道橋のように、施工後十数年でそのほとんどを改修しなければならない場合もあったようである。

初期帝政時代には、ポッツォラーナはプテーオリ(現ポッツォーリ )から船積みされて輸入されるまでに至り、また、石切り場によってはこれと等の強度を示す砂を手に入れることができることも発見された。このことは、ウィトルウィウスの『建築について』の中で指摘されている。とはいえ、共和制時代には単にコストの問題で使用されるに過ぎず、採用される建築も倉庫や闘技場、浴場など、比較的新しいタイプのものか、伝統的な神殿建築の基礎部分など、人目に触れない部分に限られていた。アーチ構造や、これを連続したヴォールト構造はローマン・コンクリートが最も得意とする造形であったと思われるが、ローマ建築に固辞されていたギリシア建築の持つ権威は高く、水平梁がアーチに変わるまでには時間を要した。ローマン・コンクリートが新しい建築的表現を獲得するために採用され、その建築技術を余すところなく見せ始めるのは五賢帝時代、特にトライアヌスとハドリアヌスの時代である。

ローマン・コンクリートによる造形は、ギリシア建築ではなし得なかった巨大空間を作り出すことに成功し、パンテオンでは、その雄大な内部空間を実感することができる。ローマン・コンクリートはあらゆる建築に採用されるようになったが、これにともなって表面材もかなり意識されるようになった。当初は割栗石を積み上げただけの不規則なものであったが、やがて凝灰岩を噛み合わせる編み目継ぎ(オープス・レティクラトゥム)に変化し、帝政初期には平煉瓦積み(オープス・テスタケウム)が採用されるようになる。煉瓦と凝灰岩を交互に重ねることも行われたようで、これはコストを安くあげるための措置であった。建築に煉瓦が採用されるようになると、ローマ郊外では煉瓦を多量に生産する工場が建設された。ローマ建築をささえたのは、このような建設資材の安定的な供給と流通経路の整備である。

建築資材はほとんどのものが規格化されており、共和制末期には煉瓦などは大規模な工場で生産・備蓄され、基準寸法と数量による発注と配達が行われていた。大理石は、共和制時代にはギリシア、エジプトから輸入される希少資材だったが、ティベリウス帝によってイタリア各地の石切り場が開設され、煉瓦と同様、大量生産のシステムが確立された。大理石円柱の寸法は規格化され、事実上、プレハブ化されたので、他の建築から同じ規格のものを移築することもできた。

このようなローマ建築の近代的流通機構は、品質の均質化と資材コストの削減、建設期間の大幅な短縮をもたらした。実際に、初期帝政時代以降は、パンテオンなどの巨大建築物であっても、わずか十年足らずで施工することができた。建築は、発注主の意図に従って自由に設計され、また流行の影響を取り入れることも比較的自由になった。

[編集] 住宅建築

ローマの典型的な住居建築は、中央のアトリウム(中庭)に開かれた平屋建ての都市型住居でギリシア起原のドムス、多層型共同住宅であるインスラ、郊外型の住宅であるヴィッラの3種に分けられる。比較的裕福な人々はドムスを構えることができたが、都市部では圧倒的に賃貸型のインスラにすむ人々が多く、現代でもみることのできる古いヨーロッパの町に似た風景が広がっていた。ヴィッラは郊外や避暑地に建設される邸宅で、上流階級の人々のみ得ることができた。

ただし、公共建築に比べると、住宅のような私的建築物は地方色がたいへん強く、地中海から離れるほど、その土地の伝統的形式で建てられたと言って良い。例えば、ガリアの住宅は基本的に質素なもので、ローマの基準からするとほとんど小屋と言って良い。イギリスで発掘された住宅などは、地中海方面の住宅建築とは全く異なり、ほとんどの場合、中庭はない。人口密度が低かったことに起因するらしいが、住宅は庭に囲まれた建物でベランダを持ち、各部屋へは。このベランダを介して行き来していた。

[編集] 主要建築物

[編集] 共和制ローマの建築

  • フォルトゥナ・プリミゲニア神域(パレストリーナ 紀元前2世紀から紀元前1世紀)
  • ユピテル・アンクスル神域(テッラチーナ 紀元前2世紀から紀元前1世紀)
  • ウェスタ神殿(ティヴォリ 紀元前1世紀)
  • ヘラクレス・ウィクトル神域(ティヴォリ 紀元前1世紀)
  • 風の塔(アテネ 紀元前1世紀)
  • タブラリウム(ローマ 紀元前78年頃)

[編集] 帝政前期のローマ建築

  • フォルム・ロマヌムのレギア(ローマ 紀元前36年完成)
  • フォルム・ロマヌムのサトゥルヌス神殿(ローマ 紀元前30年頃完成)
  • フォルム・ロマヌムのディウウス・ユリウス神殿(ローマ 紀元前29年完成)
  • アリミヌムのアウグストゥス記念門(リミニ 紀元前27年完成)
  • アーラ・パキス(ローマ 紀元前13年)
  • カイウス・ケスティウスのピラミッド(ローマ 紀元前12年頃)
  • マルケルスの劇場(ローマ 紀元前11年)
  • レプティス・マグナのマーケット(トリポリタニア 紀元前8年完成)
  • レプティス・マグナの劇場(トリポリタニア 1年完成)
  • フォルム・ロマヌムのカストル・ポルックス神殿(ローマ 6年完成)
  • フォルム・ロマヌムのコンコルディア神殿(ローマ 10年完成)
  • フォルム・ロマヌムのバシリカ・ユリア(ローマ 12年完成)
  • アウグスタ・タウリノルム市街門(トリノ 現ポルタ・パラティーナ 16年頃起工)
  • ネマウスス市街門(ニーム 現ポルト・ドーギュスト 16年頃起工)
  • ドムス・アウレア(ローマ 64年頃起工)
  • コロッセウム(ローマ 72年起工・80年完成)
  • ドムス・アウグスタナ(ローマ 92年完成)
  • フォルム・トランシトリウム(ローマ 96年起工・97年完成)
  • ティトゥスの凱旋門(ローマ 1世紀末完成)
  • フォルム・アウグストゥム(ローマ 1世紀末完成)
  • オースティア市街再建(オスティア 1世紀後期から2世紀初期)
  • トライアヌスの浴場(104年起工・109年完成)
  • トライアヌスのフォルムとマーケット(ローマ 113年完成)
  • パンテオン(ローマ 118年起工・128年頃完成)
  • ティヴォリのハドリアヌスのヴィッラ(ティーブル 2世紀前期)
  • レプティス・マグナのハドリアヌスの浴場(トリポリタニア 123年完成)
  • ハドリアヌス廟堂(ローマ 現サンタンジェロ城 136年完成)
  • ペルガモンのアスクレピオン(ベルガマ 140年頃起工・175年頃完成)
  • アントニヌスとファウスティナの神殿(ローマ 現サン・ロレンツォ・イン・ミランダ聖堂 141年起工)
  • アントニヌスの浴場(カルタゴ 143年完成)
  • タムガディのトライアヌス記念門(ティムガド 2世紀後期)

[編集] 帝政後期のローマ建築

  • サブラタの劇場(トリポリタニア 180年頃完成)
  • カラカラの浴場(ローマ 217年完成)
  • ローマ街壁(ローマ 275年完成)
  • ガレリウス墓廟(テッサロニキ 現アギオス・ゲオルギス聖堂 293年起工・311年に建設放棄)
  • ディオクレアヌスの浴場(ローマ 309年頃完成)
  • コンスタンティヌスのバシリカ(ローマ 現サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ聖堂 312年頃完成)
  • コンスタンティヌス1世の凱旋門(ローマ 313年起工・315年完成)
  • ミネルウァ・メディカ神殿(ローマ 320年完成)
  • サン・ピエトロ聖堂(ローマ 329年完成)
  • コンスタンティア廟堂(ローマ 現サンタ・コンスタンツァ聖堂 350年頃完成)

[編集] 脚注

  1. ^ ローマ様式なるものはないと言えるが、ルネサンスの時代には明確な建築比例や固有の意匠(オーダー)が存在し、これこそが建築の美であると思われていた。これが建築における古典主義の基本的な考え方である。
  2. ^ 四分統治の中心となったのは、それぞれニコメディア、シルミウム、メディオラヌム、アウグスタ・トレウェロムである。テトラルキアが終焉を迎えると、東西の中心都市としてビュザンティオン、ラヴェンナが開発される。
  3. ^ フォルム・ロマヌムの北側、カエサルのフォルムの東側、トライアヌスのフォルムの南側一帯に広がっていたが、フォーリ・インペリアーリ通りが横断するため、今日の遺跡にそのような姿をみることはできない。
  4. ^ ブリタンニア(イギリス)には、国境を示すいわゆるハドリアヌスの長城が残る。異民族の侵入を防止するとともに、これ以上領土を拡大しないという意思表示であったとされる。
  5. ^ ティベリウスは皇帝に即位する前はロードス島に、晩年はカプリ島に隠棲しており、それぞれにヴィッラを構えていた。
  6. ^ いわゆるヒッポダモスの都市計画と呼ばれるものである。ミレトスなどのイオニア地方で始まりペイライエウス(現ピレウス)、プリエネ、ネアポリス(現ナポリ)などで採用されたことが知られている。イタリア半島のエトルリア人都市では、カプアやウォルシニィ(現ボルセーナ)などで採用されている。
  7. ^ バシリカは基本的には多目的ホールに近い。詳細はバシリカを参照。

[編集] 参考文献

  • ジョン・ブライアン/ウォード・パーキンズ著・桐敷真次郎訳『ローマ建築』(本の友社)ISBN 9784894390201
  • ピエール・グリマル著・北野徹訳『ローマの古代都市』(白水社)ISBN 9784560057672
  • 青柳正規編『古代地中海とローマ 世界美術大全集 西洋編5』(小学館)ISBN 9784096010051
  • 太田静六著『世界帝国ローマの遺構』(理工図書)ISBN 9784844605546
  • ウィトルウィウス著・森田慶一訳『ウィトル-ウィウス建築書』(東海選書)ISBN 9784486005025
  • 香川壽夫 香川玲子著『建築巡礼42 イタリアの初期キリスト教聖堂』(丸善)ISBN 9784621046166

[編集] 関連項目

[編集] ローマ建築に関わる世界遺産

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