ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ
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任期 - 党第一書記 - 首相 - 評議会議長 - 大統領 |
1981年10月 - 1989年7月 1981年2月 - 1985年11月 1985年11月6日 - 1989年7月19日 1989年7月19日 - 1990年12月22日 |
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前任者: | ヘンルィク・ヤブウォンスキ | |
後任者: | レフ・ワレサ | |
生年月日: | 1923年7月6日 | |
出身地: | ルブリン県, プワーヴィ郡 | |
所属政党: | ポーランド統一労働者党 |
ヴォイチェフ・ヴィトルト・ヤルゼルスキ(Wojciech Witold Jaruzelski、 サウンド! ?、1923年7月6日 - )は、ポーランドの政治家・軍人で、元ポーランド統一労働者党第一書記、首相、国家評議会議長、ポーランド大統領。
目次 |
[編集] 来歴・人物
[編集] 生い立ち
ポーランドのルブリン県プワーヴィ郡のクルフで、愛国主義的な貴族の子として生まれる。祖父は1863年にロシア帝国支配下で起こった一月蜂起に参加し、父ヴワディスワフも1920年のポーランド・ソヴィエト戦争に参加している。ワルシャワのビェラヌィ地区にあったカトリック修道会の寄宿舎で教育を受ける。少年期のヤルゼルスキは信心深くとても優秀であったと言われている。
1939年に家族とともにリトアニアに亡命。リトアニアがソ連に併合されると、1940年にはシベリア地方に抑留され、タイガでの森林伐採にまわされた。このとき雪の強い照り返しで目を痛め、以後色付きのめがねをしているとされる。なお、父はこの抑留中に命を落としている。
[編集] 軍人に
ヴワディスワフ・アンデルス率いるポーランド亡命政府軍に入隊志願したが失敗し、1943年、リャザンの士官学校で学び、ヘンルィク・ドンブロフスキの第2歩兵師団に偵察小隊の指揮官として配属される。歩兵連隊の副官であったとき第二次世界大戦に参加し、ヴィスワ川での戦闘やワルシャワ解放などに参加した。1945年5月にナチス・ドイツが敗北し、第二次世界大戦が終結すると軍内で地位を固めた。
1947年からポーランド労働党(1948年からポーランド統一労働党)員。上級歩兵学校とK.スヴェルチェフスキ名称参謀本部アカデミーを優秀で卒業、1957年に第12機械化師団長を務めた。1960年には軍政治総局長に、1965年には軍参謀総長に就任し、1962年に国防次官、1968年4月から1983年11月まで国防大臣を務める。
[編集] 首相就任
1980年7月に北部の都市・グダニスクで食肉の値上げを原因に起きたストをきっかけに造船所の工員のレフ・ワレサが自主管理労働組合「連帯」を組織し、委員長に就任した。民衆からの民主化への要望が高まる中、ヤルゼルスキは1981年2月に首相に就任。また、同年の10月から党第一書記を兼任することになる。
[編集] 戒厳令
その後も高まる民主化運動への対抗策として1981年12月13日にポーランド全土に戒厳令を布告したものの、民衆の民主化要求にそむくこの行為は、共産圏を除く世界各国から激しい非難を浴びる結果となる。戒厳令中の1983年2月に、史上初のポーランド出身のローマ教皇であるヨハネ・パウロ2世がポーランドを訪問した際には、直接的な批判は避けながらもヤルゼルスキに対し、「人間の顔をした社会主義」を実現するよう強く求めた。修道会寄宿舎で学んだ経歴を持ち、信心深いカトリック教徒であるヤルゼルスキは「この時のローマ教皇との会見がその後の方向転換の大きなきっかけとなった」と後に語っている。
なお、ヨハネ・パウロ2世はこれ以降も連帯をはじめとする民主化運動への有形無形の協力と、社会主義政権への圧力を粘り強く掛け続けた。
1981年~1983年、救国軍事会議議長。1983年からはポーランド軍総司令官となった。
[編集] 民主化
教皇訪問後の1983年7月には戒厳令が解除され、ヤルゼルスキは社会主義の枠内での経済改革を試みたが、「連帯」率いる労働者からの支持が得られず効果は上がらなかった。その後1985年11月には国家評議会議長に就任したが、同年にソ連ではペレストロイカ政策を押し進めるミハイル・ゴルバチョフが共産党書記長に就任し、その結果ポーランドをはじめとする東欧諸国にも民主化の波が急激に押し寄せた。
この様な民主化の波を受け、1989年2月以降数度にわたり行われた「円卓会議」と呼ばれる「連帯」を中心とする反体制側との会議で、上院の新設や下院立候補の制限緩和、「連帯」の合法化などの大幅な民主化政策の実施についての合意を成立させ、民主化への道筋をつけることに成功した。
[編集] 初代大統領就任
その後1989年6月に行われた部分的自由選挙では「連帯」系候補者が地滑り的な大勝利を収め、8月2日には統一労働者党(共産党)出身のチェスワフ・キシチャク内相を強引に首相に指名したものの、「連帯」が認めず組閣に失敗し、その後8月24日に「連帯」出身のタデウシュ・マゾビエツキが首相に指名された。ヤルゼルスキ自身は先立って行われた円卓会議での合意の元ポーランドの初代大統領に選出され、1990年12月まで大統領を務め、初の自由選挙で大統領に選出されたかつての政敵、レフ・ワレサにその座を譲って政界を引退した。
[編集] 評価
ヤルゼルスキは、戒厳令を敷いたことで非難されているが、連帯を解体させず、民主化へと導いたと言うことでもっと評価されていい人物である。戒厳令中、彼は民主化を主張するポーランド人を弾圧したが、熱心なカトリックである彼は、教会に逃げ込んだデモ隊に対して弾圧を行なうことは決してなかった。またソ連政府が衛星国である当時の東欧諸国がソヴィエトから離脱しようとした時容赦なく軍事侵攻している(例、ハンガリー動乱、プラハの春)ことを目の当たりしている以上、もし戒厳令を敷かなければソ連政府はポーランドへ軍事侵攻を実行に移すことは明白であった。実際にソ連からは有効な対策を打たなければ実力行使を行うという期限付き最後通告を受けており、放置しておけばソ連の介入でポーランドが壊滅すると考えた末の決断であった。ヤルゼルスキ自身ものちに、「あれ(戒厳令の布告)は、(ソ連の介入という事態に比べれば)より小さな悪だった」といった発言をしている。ハンガリーやチェコスロヴァキアで起きた悲劇を未然に防いだことは、彼自身の功績であったと断言してもいいだろう。またポーランド民主化運動も彼が拒否し弾圧を過激化させていたならば、平和的に無血で政権交代に及ぶことが出来ず、ルーマニア革命や、ユーゴスラヴィアの様な内戦に陥る不安もあったのである。東欧革命では、ワレサに主役の座を譲ったが、彼自身も革命的政治家として、東欧革命の主役の一人であったと言っても過言ではないはずである。
[編集] パーソナル
妻バルバラは、哲学科学準博士。1女を有する。
[編集] 軍歴
- 1943年 - 少尉補
- 1944年 - 少尉
- 1945年 - 中尉
- 1946年 - 大尉
- 1948年 - 少佐
- 1949年 - 中佐
- 1953年 - 大佐
- 1956年 - 将軍
- 1960年 - ポーランド軍政治総局長
- 1965年 - ポーランド軍参謀総長
ポーランドの最高軍事勲章である「ヴィルトゥチ・ミリタリ」勲章を受章。
[編集] 著書
- ポーランドを生きる
[編集] 関連著作物
- もの食う人びと(共同通信社刊) - 辺見庸のルポタージュ集。同著中の「敗者の味」の章は、大統領退任後のヤルゼルスキへのインタビューに基づき執筆されている。
[編集] 関連項目
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