国鉄キハ57系気動車
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キハ57系気動車(57けいきどうしゃ)は、日本国有鉄道が1961年から翌1962年にかけて製造した急行形気動車である。
信越本線横川-軽井沢間(碓氷峠)のアプト式区間を通過する急行列車用として製造された車両で、台車が空気ばね台車となっていた。「キハ58系気動車の特殊仕様」という位置づけの車両であり、台車以外は同系に準じている。
アプト式区間では自力走行せず、専用のED42形電気機関車によって推進(牽引)された。
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[編集] 開発の経緯
1950年代末期、全国各地で準急列車・急行列車の気動車化が進展すると、長野県内の信越本線沿線でも気動車導入のニーズが生じた。だがここに問題が判明する。
信越本線の横川~軽井沢間(碓氷峠)は急勾配のため、当時はアプト式軌道を使用していた。アプト式区間ではこの区間専用の補助電気機関車を使用するため、線路中央にラックレールが敷設されている。ところが、当時の標準的な気動車用の金属バネ台車は、ブレーキテコの部品がラックレールに接触してしまうので、通過することができなかった。
ディスクブレーキを装備した空気バネ台車なら接触は起こらないため、信越本線専用として特に空気バネ台車を装備した車両を投入することになったものである。
[編集] 形式
片運転台、DMH17H(180PS/1500rpm)エンジン2基装備の二等車(普通車)キハ57形が36両、運転台なし、DMH17Hエンジン1基装備の一等車(グリーン車)のキロ27形が7両製造された。前者はキハ58系でいうところのキハ58形に、後者はキロ28形に相当する。本系列が走行する長野県内は勾配が多いため、キハ28形にあたる1基エンジンの二等車は製造されなかった。
[編集] 構造
車体構造、エンジン、車内設備など、台車関係以外の部品や構造はキハ58系と同一である。台車は空気ばね式のDT31形(動力台車)、TR68形(付随台車)である。この台車は本来特急車両用に開発されたもので、油圧作動のディスクブレーキを装備し、乗り心地とブレーキ性能は優秀だった。ただし、そのブレーキ周りにスペースの余裕が無く、整備点検が困難で、整備担当者からは不評だったという。
[編集] 経歴
1961年7月から上野-長野・湯田中間の急行「志賀」「丸池」に投入されて運転開始した。設計の元となったキハ58系よりも早期に登場したのは、この年の9月がちょうど善光寺のご開帳に当たっており、沿線自治体から輸送力増強の要請があったことによる。同年10月から運転開始した特急「白鳥」と共に、信越本線の看板列車として好評を博した。なお同年10月からは「とがくし」と、碓氷峠とは全く関係の無い大阪~長野の「ちくま」にも充当される。
しかし、製造からわずか2年後の1963年には碓氷峠のアプト式鉄道が廃止されて粘着走行式となり、同年には信越本線長野までの電化が完成し、急行列車が電車化されたことから、キハ57系はこの時点で本来の存在意義を失った。これ以後、キハ57系は長野鉄道管理局(中込)、名古屋鉄道管理局(美濃太田、名古屋)や四国総局(高松)に転属し、多数派のキハ58系と混用されて小海線、飯山線、高山本線や四国内の急行や普通列車などで用いられた。キハ58系と同様にまず1965年にキロ27形が自車専用の発電エンジン(4DQ-11P)を搭載して冷房化改造を受け、キハ57形も1970年代に全車が冷房化された。
キロ27形は1978年から1980年の間に7両すべてが廃車となり、キハ57形もキハ58形より製造が古いことや少数形式であったことから国鉄分割民営化までにほとんどが廃車となった。キハ57形のうち19・22の2両は民営化時にも残り、四国旅客鉄道(JR四国)に承継されたが、2両とも1991年に廃車された。
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