国鉄キハ80系気動車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
国鉄キハ80系気動車(こくてつきは80けいきどうしゃ)は、日本国有鉄道が1960年に開発した特急形気動車のグループである。
1967年までに384両が製作され、四国を除く日本全国で広く特急列車に用いられた。日本における初の特急形気動車であり、従来主要幹線のみに限定して運転されていた特急列車を、地方路線に拡充する成果を挙げた。既に全車が現役を退いているが東海旅客鉄道(JR東海)の名古屋車両区及び北海道旅客鉄道(JR北海道)の苗穂運転所に保留車両が存在する。
系統としては、1960年に先行量産型的な位置付けで製作されたキハ81系のグループ26両と、1961年以降に量産されたキハ82系のグループ358両があるが、構造的には多くが共通であるため、本稿においては一括して記述する。
目次 |
[編集] 登場までの経緯
[編集] 1950年代の国鉄特急列車網
1912年に日本最初の特別急行列車が新橋駅~下関駅間に運転開始されて以来、国鉄の特急列車は東海道・山陽本線に限定される形で運行されてきた。戦前の例外としては、1942年の関門トンネル開通に伴い、特急「富士」が下関から長崎まで延長運転され、九州島内の鹿児島・長崎本線を経由した例が在るのみである(1944年廃止)。
太平洋戦争後もその傾向は変わらず、1958年までは東海道・山陽本線と鹿児島本線の一部に限って特急が運行されていた。
1950年代までの「特急」の存在は、文字通りの「特別急行」であり、当時の意識では、地方路線に運行すること自体が論外であった。戦後間もない時期は、旅客の速達需要そのものが現代に比べて遙かに低く、戦前から沿線に大都市を擁していた東海道本線を除けば、急行以上に速い特急列車を設定する必然性が低かった。もとより東海道本線が1956年に全線電化された他は、幹線の長距離電化は高崎・上越線の上野駅~長岡駅間(1947~1952年完成)に限られていた時代である。多くの路線は蒸気機関車によって運行される非効率な状態であった。従前の急行列車に比して大きく速度向上する手段は、停車駅を減らす以外になかったが、それも難しかった。需要が限られる以上、少ない本数の急行列車で中距離客・長距離客いずれにも対応しなければならない。
また、1958年までは特急用車両と急行用車両の明確な区別もされていなかった。明確に特急専用と評し得たのは、一等展望車と、一方向き固定の二人がけシートを備えた三等車スハ44系(スハ44形・スハフ43形・スハニ35形)くらいのものであった。1956年から東京駅~博多駅間に運転を開始した戦後最初の夜行特急「あさかぜ」は、三等車は急行列車並みの4人がけボックスシートであり、その他寝台車や特別二等車、食堂車についても急行列車との差異は見られなかった。
[編集] 特急専用車両の出現
鉄道全体の近代化を推進してきた国鉄は、1958年秋、2形式の特急形車両を出現させた。昼行特急用の20系電車(のち151系電車)と、夜行特急用の20系客車である。この両形式は用途も外観も全く異なっていたが、いずれも全車両に冷房装置と空気バネ台車を備えた優秀な車両で、それ以前の国鉄車両とは隔絶した高水準の居住性と走行性能を実現していた。151系は新設の東京-大阪・神戸間特急「こだま」に、また20系客車は「あさかぜ」の車両置き換え用に投入され、未曾有の成功を収めた。
特急専用車である両系列の出現により、一等展望車をはじめとする在来型客車で運行されていた「つばめ」・「はと」は陳腐化した存在となった。
[編集] 特急「はつかり」
一方、1958年10月のダイヤ改正で、それまで特急列車が存在しなかった上野-青森間に、昼行の特急列車が1往復新設されることになった。これが「はつかり」号で、同年10月10日から常磐線経由で運転を開始した。
「はつかり」は、従来から運転されていた上野-青森間の昼行急行「みちのく」を特急に格上げした列車である(「みちのく」は「はつかり」登場後も一部区間を不定期化して存続、のち定期列車に復帰)。
「みちのく」は、戦前からの歴史がある東北本線昼行急行が1949年9月のダイヤ改正で本格的に復活したもので、1950年10月には勾配の緩い常磐線経由となり、同年11月から「みちのく」の愛称を名乗った。運行ダイヤとしては、朝9時台に東京を発ち、夜遅く青森に到着して青函連絡船の夜行便に接続。翌早朝の函館からは旭川行の函館本線急行「大雪」に連絡、出発2日目の正午には札幌に到着できた(「大雪」は更に普通列車となって石北本線に直通し、網走に日着可能だった)。北海道への最速ルートとなる優等列車であり、乗車率は常に高かった。当然、乗客の多くは全区間を乗り通す直通客であった。
このように旺盛な輸送需要があり、新たに特急を新設するだけの意義は十分にあった。
「はつかり」格上げに当たって、特急用のスハ44系客車が転用された。元々、京都-博多間特急「かもめ」に1953年から使われていた車両であったが、「かもめ」は東京に直通しない特急ゆえに利用率が悪いばかりではなく、運用上の不備もあり、1957年に三等車は急行用のナハ11形ほかに置き換えられてしまった。「はつかり」のスハ44系は、「かもめ」のお下がりだったのである。しかも「かもめ」に使用されたナハ11系は不定期寝台特急「さちかぜ」の定期格上げを見据えて捻出したもので、「お下がりのお下がり」だった。ちなみに「さちかぜ」定期化後の姿は「平和」を経て20系客車を使用した「さくら」である。
特別二等車については格上げ前と変化がないとあって、新味に乏しかった。一等展望車は東北本線では利用を見込めないことから連結されず、食堂車以外に冷房は装備されていなかった。
イメージアップのため、「はつかり」投入にあたっては20系同様の青地に白帯塗装に変更した。だが内装に変化はなく、東海道本線の旧型特急である「つばめ」・「はと」よりもグレードが低い列車なのは明白であった。蒸気機関車牽引ながら急行時代に比して約2時間も所要を短縮、上野-青森間を12時間ジャストで走破したが、事ある毎に優秀設備の「こだま」・「あさかぜ」と比較され、「かもめ」共々二流の列車と評された。
[編集] 日光形気動車
国鉄は1953年から総括制御可能な液体式気動車キハ45000系(のちのキハ10系気動車)を量産し、地方路線で無煙化や増発、速度向上などの成果を上げていたが、1956年にはその技術の延長上に準急形気動車を開発した。
大型車体と2台のエンジンを備える試作車・キハ44800形は、1956年10月から上野-日光間準急列車「日光」として運転を開始、日光線内の急勾配をものともせず、競合する東武鉄道の特急電車に比肩しうる俊足を実現した。上野-日光間約146kmを、蒸気機関車牽引準急列車の2時間25分に対し、2時間5分に短縮している。「日光形気動車」と呼ばれたキハ44800形は、翌1957年にキハ55形と改称され、本格的な量産が開始された。
キハ55系の最高速度は旅客用蒸気機関車同様95km/hであったが、加速力と登坂力で遙かに勝った。例えば昭和30年代中期の鹿児島本線では、キハ55系気動車準急の「ひかり」や「かいもん」が、蒸気機関車牽引の特急「はやぶさ」をしのぐスピードで都市間を連絡し、利用者の好評を得た。それ以前の気動車の弱点であった客室の居住性も、車体の大型化と設備改善である程度の水準に達しており、煤煙を出さない点や、運行経費の面でも蒸気機関車列車より有利であった。
気動車準急のスピードと快適さを目の当たりにした鉄道沿線の地方自治体や観光団体等は、「利用債」と呼ばれる国鉄の債券を進んで引き受けることで、キハ55系気動車の製造資金調達に協力した。こうして1960年頃までには、日本全国に気動車準急列車のネットワークが構築されたのである。但し、キハ55系は耐寒性能が不十分で、冬の北海道では使えなかった。代わりに普通列車用のキハ22形が準急列車にも充当された。
「日光形気動車」の出現は、日本の鉄道における衝撃的なブレイクスルーの一つであった。それまで非電化の路線では、線路規格の低さに加えて蒸気機関車の性能の限界が重なり、高速運転は困難だった。急勾配路線であれば、たとえ急行列車であっても、平均速度は40km/hに満たない鈍足にならざるを得なかった。そのような路線でも、気動車の投入で高速の優等列車を運転できることが立証されたのである。
[編集] 特急気動車の急造
アジア鉄道首脳者会議 (ARC = Asian Railways Conference) の第1回は、日本国有鉄道総裁であった十河信二の提唱で、1958年に東京で開かれた。そして1960年の初頭、ARCの第2回会議が再び東京で開かれることになった。
ここで国鉄部内にある計画が浮上した。とかく評判の悪い「はつかり」を気動車に置き換え、接客設備や速度の向上を図るというプランである。それに先だってARCでこの新型気動車をお披露目し、アジア諸国に日本の技術力をアピールして、鉄道車両の輸出促進に役立てようと目論んだのであった。
当時日本の鉄道技術は、世界的に見ればまだ先端を行くほどでなかったが、少なくともアジアにおいてはかなり高い水準にあった。日本からはアジア諸国に対する鉄道車両輸出も盛んに行われており、将来的にも有望な分野であった。
しかし、鉄道首脳者会議は1960年10月に予定されており、開発期間は半年ほどしかなかった。新しい鉄道車両を一から開発するには決して十分な期間とは言い難かったが、急ピッチで開発が進められた。
特急気動車の構造は、既に大きな成功を収めていた151系電車を全面的に踏襲することになった。全車両に冷暖房を搭載する空調完備の状態を前提に、客室窓は複層ガラスによる固定式とし、冷暖房や食堂車調理室は全て電気式となった。
これに組み合わせる走行機器は、当初キハ60系を試験車として開発を進めていた大出力エンジンを想定していた。だがARC会議までの時間が限られている一方で、キハ60系での試験結果は思わしくなく、これを特急形気動車に搭載することは早くに諦められていた。
とはいえ、その代わりになる手段は、DMH17系エンジンの2基搭載しかなかった。実績はあれどコストのかかる、良くも悪くも保守的な手法である。
[編集] キハ81系
上記の経緯により、1960年に開発された日本初の特急形気動車である。車両工業界全体のPRの意味も込めて、電車・客車メーカーも参集して、9両編成2本と予備8両の合計26両が製作された。最初に使用された列車にちなみ、「はつかり形気動車」とも呼ばれる。1961年、第4回鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。 初めての特急形気動車だけに、随所に特異な部分が多い系列である。当時はキハ81系という名称で呼ばれていた。
[編集] 車体外観
前頭デザインは他に例のない独特のボンネット形で、膨れて寸詰まりな形態はファンの間から「犬顔」「ブルドッグ」と呼ばれた。
デザインの意図としては151系電車に倣ったものとされるが、ヘッドライトはボンネット腰板部分には無く屋根上のみ(両脇に標識灯を並べる)、ボンネット自体も幅の広い詰まった形状で、タブレットを授受するために低く抑えられた運転台など、実際には151系のスタイルとはほど遠い(後述するとおり、このボンネットには発電セット(エンジン+発電機)が枕木方向に収まっており、ボンネット(フード)を大きく開いて整備ができる)。当時、非電化路線ではタブレットによる非自動閉塞を用いていた路線も多く、乗務員によるタブレットの走行中授受の便を考慮して、運転台位置が151系よりも低い。
運転席前面には曲面ガラスを用いて、高速運転時の視界確保を図っている。中央には電源エンジンの排気管が立ち上がっている。151系は運転台屋根が薄く軽快で、長いボンネットと相まって航空機的なスマートさを持っていたが、キハ81形の運転台屋根はボンネットトラックのように深く鈍重なものである。
キハ81形の前頭形状については「個性的でユニーク」「こだま形と違い、非常に醜悪」と賛否両論であったが、いずれにしてもこれを「美しい」と評した文献はあまり多くない。「力強くて格好がよい」という意見はあったが、所謂「新性能トリオ」のうち他の2者である「こだま」「あさかぜ」の「スマート」で「流美」というスタイルとはかけ離れていた。この「力強さ」については、後年キハ181系がデビューしたことにより薄れてしまった。
運転台直後には、発電用エンジンのラジエーターを収めた機械室が設けられ、車体側面にラジエターを保護するルーバーが配置されている。この機械室部分は運転台と屋根高さを合わせてあり、ルーバー位置も高い。
前頭形状を除く全体のスタイリングは、151系の流れを汲んでいると言ってよい。クリーム色地に窓周りが赤のツートーンカラー、きのこ形ケースに収められた屋根上のユニットクーラー、浮床構造の車体、複層ガラスによる固定窓、そして車端部1ヶ所のデッキなど、すべて151系の先例を踏襲しており、酷似している。ただし、非電化区間や交流電化区間はホーム高さが低いため、ドアにはステップを設けている。
その他の特徴として、各車連結面間に車体断面に沿った外幌を設けたことが挙げられる。通常の貫通幌とは別で同時期の151系電車が導入していた外幌と同じもので、車両相互間でファスナーによって連結された。空気抵抗減少の狙いがあったようであるが、在来線の低速では効果を発揮せず、のちに取り外された。その為、キハ82形を含む二次車以降には踏襲されていない。やがてこのアイデアは新幹線N700系の「全周ホロ」として、ようやく日の目を見ることになる。
[編集] 設備
全般に151系に準拠した構造で、遮音・防振のために浮床構造を採用しているのも同様である。ただし、窓の日除けは151系のような横引きカーテンではなく、巻き上げ式カーテンに変更されており、一等車通路の絨毯も省略されるなど若干グレードが落ちる。
冷房は屋上のユニットクーラー、暖房は座席下配置の電気暖房方式で、いずれもディーゼル発電機を電源とする。
座席は二等車が回転クロスシート、一等車がリクライニングシートで、151系の仕様を踏襲した。トイレ・洗面所が各車に設置され、一等車には洋式便所も設けられている。
エンジンの排気管は車端部に移され、客室からは隠された。また従来の気動車では暖房カバーが窓側足下にスペースを取っていたが、これが電熱式となって座席下に収まったため、客室内に限っては電車と区別が付かない仕上がりとなった。
[編集] 主要機器
開発期間が限られていたことから、キハ55系をベースとした保守的な構造となった。DMH17系機関2基を搭載して必要な出力を確保する従来の手法である。
ただし、2エンジン搭載なのは中間車のキハ80形・キロ80形のみで、先頭車のキハ81形は電源用エンジンを搭載するため走行用エンジンは1基、食堂車のキサシ80形は電源用エンジンのみ搭載で無動力の付随車だった。
浮床構造を採用したことから、客室床面の点検蓋は廃止せざるを得ない。このためエンジンはDMH17系ではあるが、床下側面から整備できる水平シリンダー形とすることになった。この結果、DMH17C形を水平型に改良したDMH17H形(HはHorizontalの意 180PS/1,500rpm)が開発された。但、ひと言で水平型に改良とは言っても、実際には燃料噴射機構やシリンダー潤滑など、機構の大部分は一から新設計するに等しいものがあり、短い開発期間と相まって後述のトラブル頻発につながったと思われる。
変速機は従来からの標準型であるTC2AもしくはDF115Aを使用している。最高速度を高くする目的で、台車側の最終減速歯車比を若干高速側に振っている。最高速度は100km/h。
走行用台車のDT27形(付随台車はTR67形)は、DT22形の枕バネをベローズ式空気バネとした設計の台車である。自動空気ブレーキ方式で、ディスクブレーキではなく通常型の踏面ブレーキを用いた。この台車の採用で、気動車としては優秀な乗り心地を確保している。
「はつかり」からの撤退後は、全車の台車がディスクブレーキ仕様のDT31系に交換され、多数の改造車が出現している。なお、ここから捻出したDT27・TR67形は、キハ58系列のDT22形と交換され、同系列の乗心地改善に利用された。
電源エンジンはDMH17H形と基本構造を同じくするDMH17H-G形(160PS/1,200rpm)で、三相交流発電機を駆動し、1基で3~4両分の電源を供給できた。「はつかり」では9両編成中3両に計3基が搭載された。
[編集] キハ81形
本系列の先頭車となる片運転台の二等車で、1960年に6両が製作された。定員40人。前述のとおり個性的なボンネットスタイルで、走行用エンジン1基を床下搭載するほか、ボンネット内に電源用のDMH17H-Gエンジン(160PS/1,200rpm)を横置き搭載する。便所・洗面所が車体中央部、機械室と客室の間に配置される特異なレイアウトとなっている。客室と出入台の間には売店と物置が設置されている。キハ81の外観の特徴に茄子形のタイフォンカバーがあり、鳴らすときにカバーが捲れあがる。先行増備である1と4は他の4両とは形状が異なる。1と4は落成時タイフォンカバーは準備工事でスカートの裏側にタイフォンを取り付けていた。記録映画や写真集でそれを確認することが可能である。2,3,5,6のタイフォンカバーはやや出っ張りのある形状となっている。
1968年に「はつかり」が電車化された後は奥羽本線特急「つばさ」2往復中の1往復に充当された。しかし、この時、先頭部の連結器カバーが板谷峠での補機連結に支障を来たすために取り外され、以後廃車まで再装着されなかった。連結器カバー取り外し後は作業性をよくするため、スカートの切り欠きが行われ、この形状で製造番号を特定することができた。また運転席部分の窓枠に取っ手を溶接した車両も存在した。のち1969年には羽越本線経由の「いなほ」に転用され、間合い運用で常磐線特急「ひたち」にも充当された。更に1972年には紀勢本線に転じ、名古屋-天王寺間を走破する「くろしお」として運転されたが、非貫通で定員が40名と少ない故に徐々に運用を減らされ1978年の紀勢本線電化を機に退役、翌年までに廃車された。ちなみにくろしお時代、売店はほとんど使われていなかった。
現在、大阪市港区の交通科学博物館にキハ81形3が静態保存されている。スカート部分のみ5のスカートに交換されている。正面の列車愛称表示板は盗難防止のため、連結器カバーは事故防止のため設置されていない。
[編集] キハ80形(1~12)
本系列の多数派である中間二等車である。1960年に12両が製造された。定員72人。走行用エンジン2基搭載。
「はつかり」用のキハ81系として製造されたグループ中では最も長きにわたって使われたが、1983年までに廃車された。
[編集] キロ80形(1~5)
本系列の中間一等車である。1960年に5両が製造された。定員48人。走行用エンジン2基搭載。屋根上に水タンクはなかった。
特徴としては、長距離客の疲労軽減を目的に、座席頭もたれ部分を上下にスライドさせて調整できるようになっていることが挙げられる。また当初は、座席にシートラジオが設置されていたが、メンテナンス難を理由に早期に撤去された。テーブルは取り外し式だった。
「はつかり」が1968年に電車化されたことで余剰となり、2は1968年に座席を二等車用に交換してキハ80形901となった。のち九州に転じ、末期には日豊本線特急「にちりん」・肥薩・吉都線特急「おおよど」等に用いられたが、1979年に廃車となった。1、5は走行用エンジン1基として運転台と電源用エンジン・機器室を設置、合わせて座席を二等車用に交換して先頭車のキハ82形901・902となった。北海道に転用され、1982年までに廃車となっている(902は1982年の石北線脱線事故で事故廃車)。いずれも窓は一等時代の狭窓のままで、座席ピッチと合っていなかったが、定員はオリジナルのキハ82形・キハ80形と同一となっている。
キロのまま残存した2両はキハ81形と共に運用され、紀勢線「くろしお」運用を最後に1977年に廃車された。
[編集] キサシ80形
食堂車である気動付随車で、1960年に3両が製作された。食堂定員40人。気動車としては日本初の食堂車で、外観は同時期に開発された151系サシ151形に類似しており、石炭レンジを廃した完全電化の調理設備を備える。床下に水タンクと、電源用のDMH17H-Gエンジン(160PS/1,600rpm)を搭載している。それらの搭載スペースのため、走行用エンジンは搭載されていない。
のち1968年~1969年に編成出力確保のため発電セットを降ろし、水タンクを床上搭載として走行用エンジン2台を搭載、冷蔵ケース、休憩室設置のうえキシ80形901~903に改造された。定員は32人に減少した。床上水タンクの位置は通常型キシ80形が調理室側車端なのに対し、900番台車は食堂側車端である。またクーラーを移設している。乗務員室がなく、キシ80形と比べ使い勝手が悪かった。最終的には向日町運転所と函館運転所に配置され、1976年までに全車廃車となった。
[編集] 「はつかりがっかり事故ばっかり」
1960年9月に第1編成が落成したキハ81系は、15日には川越線で、18日から23日にかけて営業運転と同様に常磐線・東北本線でPR映画の撮影が行われた。この映画は映像ソフト化されており、現在でも視聴する事が可能である。
同年10月、鉄道首脳者会議でお披露目されたキハ81系気動車は、国鉄の意図通り会議参加者の注目を集めた。特別に一等車を連ねた編成が組まれて東京-日光間を往復、各国鉄道幹部からも大好評であった。
キハ81系気動車は、同年12月10日から上野-青森間特急「はつかり」に就役した。編成は9両、うち両端のキハ81形は1エンジン車、食堂車は無動力のキサシである。運転開始時は蒸気機関車列車時代と同一時間であったが1961年10月のダイヤ改正で10時間半を切り、蒸気機関車列車時代に比べて大幅なスピードアップとなった。
こうして鉄道界と沿線の注目のうちに運転を開始した「はつかり」であったが、思わぬアクシデントが続出した。
水平シリンダーのエンジンは垂直シリンダー式に比べ、潤滑の不均一など多くの弱点を持つ。開発されたばかりのDMH17Hは、750kmもの長距離運転を課せられる中で、エンジントラブルを続出させた。無動力のキサシ80形を含んだ編成は元々非力であったが、これに加えて時には多くのエンジンがダウンしている状態で走行せねばならず、過負荷は新たなトラブルの原因にもなった。東北本線の奥中山越えの連続勾配は、登り切れずに立ち往生する事態となり、ついには排気管が過熱して発火するという危険な事故も発生した。気動車の心臓と言うべき走行用エンジンの欠陥は致命的であった。電源エンジンの不調も多く、冷暖房ダウンがしばしば生じた。
余りにトラブル続きのため、利用者からは不興を買った。マスコミからは「はつかり事故ばっかり」「がっかり、はつかり」などと揶揄された。このような問題が続出したのは、開発過程で就役を急ぎ過ぎ、新技術の問題点を洗い出す十分な熟成作業が行われなかったことが原因であった。急造が災いしたのである。1961年6月からは、奥中山越えの前後にある御堂駅・小鳥谷駅で点検停車を行うようになった。
国鉄設計陣と現場技術者は問題解決に奔走し、「事故ばっかり」だったキハ81系を、ともかくも数ヶ月かけて改善し、安定して使えるようにした。そして信頼性を確保されたDMH17H形エンジンは、1960年代の国鉄気動車の主力エンジンとして大量に製作されることになる。
余談ながら、この時の教訓を軽視した訳ではないだろうが、後継車のキハ181系開発・導入において、先行試作としてキハ91系を導入する等の方策を採ったものの、結果として特急運用ゆえの酷使から来るトラブルが生じ、国鉄の硬直体質を暴露することになる。
[編集] キハ82系(改良型80系)
1961年から製造された特急形気動車のグループで、キハ81系グループの改良型である。「はつかり改良型」、あるいは当初投入された列車の一つである特急「白鳥」にちなみ、「白鳥形気動車」とも呼ばれる。この系列の登場からキハ80系という名称が一般的に使われるようになっていく。
[編集] 開発の経緯
「はつかり形」キハ81系は、登場早々のトラブル続きで不評を買い、将来性を危ぶまれた。しかし、その間にも旅客需要の増大で、全国の国鉄線における輸送力改善は急務となっていた。これに対応するため、国鉄は1961年10月に白紙ダイヤ大改正を計画した。
この改正では全国に特急列車を大増発することが計画された。特急新設路線の多くは地方の亜幹線であり、当然ながら非電化で、気動車を充当せねばならなかった。このため国鉄は1960年末からキハ81系の改良型開発に着手した。
[編集] 改良点
キハ81系グループには走行機器のトラブル多発のほか、幾つかの欠点があった。特に代表的なのは次の2点である。
- DMH17系エンジンの低出力、編成内に付随車のキサシを含むことに伴う編成全体の出力不足
- 非貫通先頭車と食堂車のみに電源を搭載するため編成を組成する際のフレキシビリティに欠ける
うち2.に関する問題であるが、過去に特急運転の実績がない地方の亜幹線では、特急9両編成は輸送力過剰が危惧された。だが1961年当時、特急列車には1等車と食堂車の連結は必須であり、6~7両程度の短編成でもそれは例外でなかった。元々キハ80系は欠点1.の通り出力不足であるが、これでキサシ入りの6~7両編成を組むと著しいアンダーパワーとなり、特急列車に求められる走行性能が得られないのである。
キハ80系の2次形となったキハ82系グループの大きな改良点は、信頼性向上の他、先頭車のキハ82形を貫通式運転台としたこと、食堂車を動力付のキシ80形としたことである。
キハ82形は電源エンジンを床下搭載とし、当時の一般形・準急形気動車や急行形電車同様の貫通式運転台を採用した。そして、中間車については全車走行用エンジン2基搭載とし、電源車が必要な場合は編成中間にキハ82形を組み込むことで対処することにした。 この結果、一応の編成出力を確保しつつ、分割併合自在に長短の編成を組めるようになった。
[編集] ディスクブレーキ
その他の特長としては、空気バネ台車をディスクブレーキ式のDT31A形(付随台車はTR68形)に変更したことが挙げられる。気動車用のディスクブレーキは、1960年に試作されたキハ60系気動車の試作台車DT26系で試用された実績があった。
DT31系台車の基本構造はDT27と共通の揺れ枕吊り方式で、相違はブレーキ関連機器のみである。この台車はキハ82系に先立ち、1961年5月に就役した信越本線用のキハ57系急行形気動車に導入されていた。
DT31系台車のディスクブレーキは、酷寒地域の厳しい気象条件の中でも高速域から有効にブレーキ力を発揮し、また長い下り勾配での酷使にも耐えた。乗務する運転士達からも「キハ82のブレーキは良く効く」と好評を博し、信頼を得た。
しかし、逆転器とディスクブレーキ機器を、台車内側の狭いスペースに押し込めて同居させた設計は、整備性という点では劣悪であった。整備担当の現場作業員は、窒息しそうなほどの窮屈な空間で、困難な作業を強いられたという。1965年以降の生産車は改良型のDT31B形・TR68A形台車に移行しているが、大きな差異ではない。
[編集] 81系との違い
キハ81系と異なる点は、車体側面部においてドア戸袋の点検蓋、冷却水の給水口の形状・位置に違いが見られる。また床下の機器のレイアウトも一部異なっている。切妻部分に出っ張りが見られる。
[編集] キハ82形
キハ81形に代わって開発された、キハ80系気動車の貫通型先頭車である。一時は気動車特急の代名詞的存在となり、造形面での優美さと機能美を兼ね備えた前頭形状は今なお鉄道愛好者から高く評価されている。
正面貫通式、両側に若干の後退角を伴ったパノラミックウインドウ付高運転台は、同年に登場した153系電車のクハ153形500番台車にも採用された手法ではあるが、灯具の位置や塗色の違いから両者の印象は相当に異なる。
列車種別表示幕は設けず、屋根上両側に前照灯と標識灯をセットとした横長のライトケースを設置しており、これは同時代のアメリカ製乗用車の影響と見られる。パノラミックウインドウは前面の平面部分から曲面部分までシームレスの一体型で、コスト高をおして採用された。窓下には鋭角の付いた広幅の赤帯を塗装してアクセントとしており、そのイメージは後のキハ181形にも多少の改良を伴いながら継承された。
貫通ドアには、ドアサイズに合わせた小型の列車愛称表示板と、やはり小振りな逆三角形の特急マークが装備されている。貫通幌は、収納時には車体側の凹みに面一で格納され、通常の貫通幌のように飛び出ることのないスマートな外観となった。ただ、収納部の凹みに水気が貯まって錆びやすい弱点はあった。
客室のレイアウトは、便所・洗面所の位置がデッキ寄りの常識的な位置に変更された。ボンネットが廃止され、電源エンジンのDMH17H-Gが運転台寄り床下搭載となったことおよび売店が廃止されたことから客室が拡大されている。このため座席定員は、キハ81形より座席3列分12人多い52人となった。
1961年から1967年までに、110両(1~110)が製造された。1963年の46号以降は機器室寄りの冷房装置が1個増設されており、それ以前の車両も順次ほぼ同様(屋上クーラーカバー後半部の形状に違いがある)に冷房増設改造が施された。1965年の76号以降はDT31B形台車装備である。
ジョイフルトレイン改造車を除き、特急「南紀」での運用を最後に、1992年で定期運用から退いている。ただし、その後も1994年まで名古屋駅~ナゴヤ球場正門前駅間のナイター観客輸送列車に使われていた。
[編集] キハ80形(13~166)・キロ80形(6~62)
1961年から1967年にかけ、キハ80形154両(13~166)、キロ80形57両(6~62)が製造された。
番号はキハ81グループ中間車の続番で、基本構造もほぼ同じであり、台車のDT31A形への変更と、排気管をはじめとするエンジン周辺の熱害対策が施された程度の違いのみである。ただし、キロ80形に関しては、シートラジオは地方線区での受信環境を考慮して廃止し、併せて屋根上への水タンク増設が行われている。キハ80形119号以降、キロ80形48号以降は、DT31B形台車装備である。
ジョイフルトレイン改造車を除き、特急「南紀」での運用を最後に、1992年で一般営業運転から退いている。ただし、その後も1994年まで名古屋駅~ナゴヤ球場正門前駅間のナイター観客輸送列車に使われていた。キロ80形も開放され、乗り得車両となっていた。
[編集] キシ80形
キハ81系の非力さの原因の一つだったキサシ80形に代わって開発された、走行用エンジン2基搭載の食堂車である。
床下に調理用水タンクを設置するスペースがないことから、床上の厨房側車端にタンクを配置した。このため食堂スペースが若干小さくなり、テーブルが左右1卓ずつ減って、8卓32人の定員となった。調理用電源はキハ82形から供給を受けることになった。
1961年から1967年までに、1~37までの37両が製造された。35号以降はDT31B形台車装備となり、1967年に製造された最終増備車の37号は、食堂部窓を大窓化、581系電車類似の回転式ブラインドを装備した試作的異端車であった。
ジョイフルトレイン改造車を除き、特急「おおとり」・「オホーツク」での運用を最後として、1986年に一般営業運転からは退いている。
[編集] キハ82系グループの展開
[編集] 1961年10月ダイヤ改正
キハ82系グループは、1961年(昭和36年)10月の全国白紙ダイヤ大改正(いわゆる「サン・ロク・トオ」と、後に呼称される)に先立つ形でまず127両が準備された。
だが、実際には全車両がダイヤ改正当日から就役した訳ではなかった。一部の特急列車(「みどり」「ひばり」)は10月ダイヤ改正では設定こそされたが運転開始は先延ばしされ、「みどり」は12月、季節列車扱いだった「ひばり」は翌1962年4月になってからやっと運転を開始したのである。
これは、就役したキハ82系グループの信頼性が未知数であり、万一トラブルが起きた場合でも代替用の予備車両を即座に用意できる態勢を作っておくためであった。故障率の低さを確認した上で、運休していた列車の運行に初めて踏み出したのである。羮に懲りて膾を吹くきらいはあったにしても、キハ81系での醜態を考えれば、堅実な策ではあったと言える。
ダイヤ改正を前にした1961年夏から秋にかけて、性能確認のために十分な走り込みが繰り返され、運転士をはじめ検修技術者らへの講習も念入りに行われている。
この1961年10月ダイヤ改正では、従来日本全国に9往復しかなかった国鉄特急列車が、一気に26往復まで増発された。この際に設定されたキハ82系グループ気動車特急は、次の通りである。
- 「おおぞら」 函館・室蘭・千歳線経由 函館-旭川間 1往復
- 「白鳥」 東海道・北陸・信越・羽越・奥羽本線/信越・高崎・東北本線 大阪-青森・上野 各1往復(大阪-直江津間併結)
- 「つばさ」 東北・奥羽本線経由 上野-秋田間 1往復
- 「ひばり」 東北本線経由 上野-仙台間 1往復(季節列車 1962年4月27日より運転)
- 「まつかぜ」 東海道・福知山・山陰本線経由 京都-松江間 1往復
- 「かもめ」 東海道・山陽・鹿児島・長崎本線/鹿児島・日豊本線経由 京都-長崎・宮崎間 各1往復(京都-門司間併結 従来の蒸気機関車牽引による京都-博多間列車を気動車化・運転区間延長)
- 「みどり」 東海道・山陽・鹿児島本線経由 大阪-博多間 1往復(1961年12月15日より運転)
- 「へいわ」 東海道・山陽本線経由 大阪-広島間 1往復(山陽線広島以東電化完成に伴う1962年6月のダイヤ改正にて、東京-大阪間電車特急「つばめ」の大阪-広島間延長に置き換えられる形で発展的に廃止)
「かもめ」を除いては全て新設列車ばかりであり、しかも「つばさ」「ひばり」と「白鳥」上野編成以外は、何れも東京に直通しない特急列車であった。キハ82系が地方路線近代化の旗手であったことを象徴する事実である。
これらの中でも「白鳥」青森編成は、全区間で1,000kmを超える大長距離運転を敢行し、国鉄の昼行特急としては日本の最長距離列車となった。この列車にちなんで、キハ82系は「白鳥形気動車」と呼ばれるようにもなった。
だが、同年冬に雪害で「白鳥」が運転不能になった時は、「瀕死の白鳥」とマスコミにからかわれたこともあった。
[編集] サン・ロク・トオとキハ80系特急
[編集] 食堂車2両付の特急
「白鳥」・「かもめ」は、大阪から青森・宮崎という遠隔地への日着を実現した初めての列車となった。貫通型のキハ82形ならではの分割併合機能を早速活かした列車でもある。
両列車については、編成分割後の各ルートの単独走行距離が長大であることから、それぞれの編成に食堂車を連結していた。故に「白鳥」直江津以西、「かもめ」門司以東は1本の列車に食堂車2両という豪華編成になった。しかも2ヶ所の食堂は併結区間でも同時営業していたのである。
半室形のビュフェ車両を含めれば、1編成に2両連結・同時営業のケースも複数見られたが、全室形の本格的食堂車2両営業は前代未聞、後世にも例のないサービスであった。もっとも、食堂車スタッフの乗務面や食材の搭載・仕込みの手間などを考慮すると、途中駅から区間営業をするのはかえって難しく、やむなく2両それぞれ全区間営業としたのが実情ではあった。
なお、調理・接客にあたる業者は、「かもめ」の場合長崎編成が都ホテル、宮崎編成は日本食堂と分かれ、「白鳥」はいずれも日本食堂ではあったが、青森編成が青森、上野編成は上野の営業所が担当していた。
[編集] 広域への展開・連携
北陸・信越本線経由で大阪-上野間を直通する「白鳥」上野編成は、北陸本線では関西-北陸間旅客用の増結車、また東京からは北陸への最速列車という二つの役割を兼ねていた。途中には国鉄線で一番急峻な碓氷峠越え区間を控えており、自力での単独通過は不可能で、この区間はアプト式電気機関車ED42形の補助を受けて通過した。アプト式区間はラックレールが線路中央に敷かれているため、一般的な踏面ブレーキの気動車では台車のブレーキ部品がラックレールに接触して通過不可能だったが、ディスクブレーキのキハ82系グループはその問題はなかった。
また「つばさ」も奥羽本線福島-米沢間に急勾配区間の板谷峠があり、この区間は勾配線用のEF16形電気機関車(のちEF64形が、更にEF71形が使われた)の補助を受けて通過した。こちらは無理をすれば単独通過できなくもなかったが、液体変速機の変速オイルのオーバーヒートは必至であり、リスクを避けたものである。
ユニークなのは、「白鳥」と「つばさ」が秋田駅で接続していたことである。両列車を乗り継ぐ場合、特急料金も通し計算となり、上野-青森間を乗り継いで行くことができた。特に上り列車については、「白鳥」「つばさ」とも秋田駅を同時刻の8時10分発とされ、羽越・奥羽本線が単線で平行する1kmほどの区間では、そっくり同じ2本の列車が並んで走ってくる姿を毎朝見ることができた。これは1965年10月ダイヤ改正まで続き、地元の名物現象となった。
[編集] 地方の特急網
「おおぞら」は北海道初の特急であり、従来の函館-旭川間急行「大雪」の上位列車として設定されたものである。従って青函連絡船夜行便を介し、「はつかり」及び「白鳥」と接続していた。函館-札幌間は、従来最速の気動車急行より30分短縮され、4時間30分となった。従って上野-札幌間は21時間台となり、大幅なスピードアップとなった。好評を得た結果、翌1962年10月改正では運転区間が延長され、食堂車を含む6両が函館本線滝川駅で分割されて根室本線経由で釧路まで延長運転を開始した。
だが決して耐寒強化車両とは言い難いキハ80系の場合、酷寒の北海道での冬期運用は厳しいものがあり、凍結や着雪による故障が続発した。検修担当者の辛苦は並大抵ではなく、また車両老朽化の進行を早める原因ともなった。ただ唯一、ディスクブレーキ台車は「雪にも強い、よく止まる」と乗務員から好評を得たという。
「まつかぜ」は従来ローカル線同然と見なされていた山陰本線に初めて運行された特急であった。京都と大阪両方の乗客を獲得するため、京都-福知山間では敢えて大阪・福知山線経由の60km以上遠回りなルートを取っていた。将来の発展性を考えて「まつかぜ」を新設した国鉄当局だったが、実のところ、このような区間に特急を運転して客が定着するか危惧していた。だが案に相違して乗車率は良好で、その後1964年には松江-博多間を延長し、1日かけて京都-博多間を走破する長距離特急に成長することになる。
全体に見て、この改正におけるキハ80系特急列車の新設は大成功であったと言えよう。
[編集] ジョイフルトレインへの改造
なお、以下のジョイフルトレインは本系列を改造して誕生したものである。しかし、いずれも2007年現在廃車ないしは保留車となっている。詳細はこちらを参照されたい。
- JR北海道
- 「フラノエクスプレス」
- 「トマム&サホロエクスプレス」
- JR東海
- 「リゾートライナー」
[編集] 保存車両
- キハ80 145:三笠鉄道記念館クロフォード公園(北海道三笠市)
- キハ80 150:三笠鉄道記念館クロフォード公園(北海道三笠市)
- キハ81 3:交通科学博物館(大阪市港区)
- キハ82 1:小樽交通記念館(北海道小樽市)
- キハ82 31:喫茶店ニセコ(岐阜県北方町)※前頭部のみ
- キハ82 86:北海道鉄道技術館(北海道札幌市東区)※前頭部のみ
- キハ82 87:三笠鉄道記念館クロフォード公園(北海道三笠市)
- キハ82 100:三笠鉄道記念館クロフォード公園(北海道三笠市)
- キハ82 101:青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸(青森県青森市)
- キロ80 52:三笠鉄道記念館クロフォード公園(北海道三笠市)
- キシ80 12:小樽交通記念館(北海道小樽市)
- キシ80 27:三笠鉄道記念館クロフォード公園(北海道三笠市)
- キシ80 31:三笠鉄道記念館(北海道三笠市)
- キシ80 34:小樽交通記念館(北海道小樽市)