国鉄キハ56系気動車
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国鉄キハ56系気動車(こくてつきは56けいきどうしゃ)は、旧日本国有鉄道が1961年から北海道向けに製作した急行形気動車のグループである。
キハ58系気動車の系統に属する急行形気動車の中で最初に登場したもので、北海道の酷寒な気候に対応した耐寒耐雪装備を施されている。それまで蒸気機関車の牽引する急行列車が主流であった北海道において、速度向上や設備改善に実績を挙げた。
1980年代以降、赤字ローカル路線の廃止や急行列車廃止による余剰化、老朽化で廃車が進行し、2002年までに全車が現役を退いている。
目次 |
[編集] 開発の経緯
1950年代初頭、北海道の主要幹線に運転される急行列車は、すべて蒸気機関車が牽引する客車列車で、一般に鈍足であった。また北海道向けの車両は、特殊な耐寒耐雪設備を要することもあって潤沢には製作されない傾向があった。従って道内の車両数は常に不足しており、特に幹線の輸送力は逼迫していた。
1956年から製造された準急形気動車キハ55系は、1950年代後半、快適な居住性と優れた性能で成功を収めた。日本全国に準急列車のネットワークを構築する成果を上げ、一部は急行列車にも充当された。しかし、キハ55系には耐寒耐雪対策が施されておらず、冬期の北海道での運用には適さなかった。
北海道での気動車優等列車は、1957年6月に釧網本線の釧路~川湯(現・川湯温泉)間に臨時列車として運転開始した準急「摩周」が最初である。これは普通列車用のキハ12形を用いたものであった。以後1960年頃までに、札幌地区を中心とした気動車準急網が整備されたが、それらに使用される車両はいずれも普通列車用のキハ12形やキハ21・22形のみであった。
1960年7月1日、北海道初の気動車急行列車「すずらん」が、函館~札幌間に運転を開始した。全車指定席となったこの列車は、本州から借り入れたキハ55系を使用し、函館~札幌間を途中室蘭本線・千歳線経由で、5時間で走破した。函館本線小樽経由の客車急行列車に比べて30分のスピードアップとなり、最速列車として好評を得た。だがキハ55系は北海道での冬期の使用に耐えないことから、やむなく冬を前に本州に戻され、代わって普通列車用のキハ22形で長編成を組んで「すずらん」に充当した。ともかくも「すずらん」の登場は、長距離列車における気動車の有効性を北海道内でも強く認知させたと言える。
気動車列車の高速性、快適性はキハ55系準急によって国鉄内でも広く認識され、1950年代末期になると急行列車についても気動車化を促進する気運が高まっていた。結果、キハ55系は急行用としては設備グレードがやや低いことから、1ランク上の設備を備えた急行形気動車が計画された。のちのキハ58系である。
この計画の中には北海道用の耐寒耐雪形も含まれており、特に輸送事情の逼迫した北海道向けに、本州以南用を差し置いていち早く開発が進められることになった。こうして1961年初頭に完成したのが、キハ56系であった。
[編集] 諸元
広幅車体や高運転台構造、接客設備等、多くのスペックは後から登場したキハ58系と同等である(キハ58系の項目を参照のこと)。しかし、北海道の酷寒地で運用される条件から、様々の耐寒耐雪装備が施されている。
外観でわかりやすい特徴として、小型の客室窓が挙げられる。本州並みに大型の窓を採用すると保温性に難があるためで、本州用のキハ58系より一回り小さい。それまでの北海道用車両と同様、二重窓であるが、内窓には初めてFRP製の窓枠を採用している。なお、一等車のキロ26形が連続窓ではなく独立した小窓を用いているのも同様の理由である。
保温には二重窓以外にも配慮がなされ、暖房はキハ22形に倣ったエンジン冷却水利用の温水暖房とした。キハ58系でも採用された方式であるが、58系では床下のラジエーターと客室の放熱器が直列につながれているのに対し、キハ22形や56系の場合はラジエーターと客室放熱器を並列配置とし、より強力な暖房能力を確保している。
床板は鋼板やビニール等を使わず、木張りとした。より保温性に優れるほか、北海道では雪靴・雪下駄に滑り止めの金具を付けて列車に乗る乗客が多く、木製以外では耐久性に難があったという事情もある。
また、随所にエンジン冷却水を引き回す温水管や電熱ヒーターを装備し、凍結を防止している。冬期には床下にエンジン覆いを装備する耐寒措置が可能である。
[編集] 新造形式
[編集] キハ56形
本系列の基本形式である2エンジン二等車。1961年~1968年にかけ、合計121両製造された。キハ58系におけるキハ58形に相当する。
当時、国鉄気動車を製造するメーカーは多数存在したにもかかわらず、本形式は末期型の一部を除いてほとんどが新潟鐵工所によって製造された。
[編集] 0番台(1~47)
1961年から翌年にかけて製造された初期形。キハ58形0番台に相当する。昭和35年度(1961年3月)に製造された最初の5両(1~5)は、車体断面形状が異なり、裾絞りが直線的であること、前照灯がやや内側に寄っていることなど、その後の量産型と微妙に異なる部分がある。
1986年にキハ53形500番台に改造された6両を除き、1987年の国鉄分割民営化までに全車廃車された。
[編集] 100番台(101~151)
1963年~1967年まで製造された改良型。長大編成対応(キハ58系の項を参照)装備が施されており、キハ58形400番台に相当する。
のち2両がキロ59形に改造され、4両がキハ53形500番台に改造された。残りの車両のうち41両が北海道旅客鉄道(JR北海道)に引き継がれたが、2000年までに全車廃車された。
[編集] 200番台(201~214)
1968年に製造された最終増備グループで、このタイプのみ一部を富士重工業が製造している。キハ58系の末期形の1100番台に相当する番台で、冷房装置の搭載を前提に車体断面が変更され、冷房搭載準備工事がなされており、屋根上に冷房装置取付用の台座が並んでいる。また前面窓はパノラミックウインドウとなり、前面下部には排障器が備えられた。
しかし、夏季の短い北海道の気候事情もあって、北海道の気動車急行の普通車は冷房を設置しなかったため、実際に原型のままで冷房搭載改造された例はなかった。
1986年に3両が改造を受け、キハ59系「アルファコンチネンタルエクスプレス」となった。残りは事故廃車となった1両を除きJR北海道に引き継がれたが、2002年までに全て現役を退いた。
なお、1969年10月1日から1970年2月28日にかけて本系列を使用した代用特急「北斗」の普通車には、本番台が「北斗」のヘッドマークを装着の上で使用されていた。
[編集] キハ27形
キハ56形と同型の1エンジン二等車。キハ58系におけるキハ28形に相当する。1961年~1968年にかけ、合計102両製造された。
[編集] 0番台(1~56)
1961年から翌年にかけて製造された初期形。キハ28形0番台に相当する。昭和35年度(1961年3月)に製造された最初の12両(1~12)は、キハ56形初期車同様、車体断面形状や前照灯位置がその後の量産型と微妙に異なっている。4両がJR北海道に引き継がれたが、1989年までにすべて廃車となった。
[編集] 100番台(101~129)
1963年~1967年にかけて製造された改良形。キハ56形101~同様の長大編成対応装備車で、キハ28形300番台に相当する。
1973年に3両がお座敷車キロ29形に改造された。残りの車両のうち22両がJR北海道に引き継がれたが、1993年までに廃車となった。
[編集] 200番台(201~217)
1968年に製造された最終増備グループである。キハ56形201~同様の前面パノラミックウインドウ、冷房準備仕様車で、キハ28形1000番台に相当する。
全車両がJR北海道に引き継がれた。民営化後に6両が夜行快速列車「ミッドナイト」用に改造転用(この改造車のみ冷房を取り付けた)されたが、それ以外は非冷房のまま1997年までに廃車となった。
[編集] キロ26形
本系列唯一の新製一等車で、1961年~1968年の間に28両が製造された。キハ58系におけるキロ28形に相当する。
本州以南用の急行形電車・気動車の一等車とは違い、2連窓ではなく、座席1列ごとに独立した一段上昇窓が1枚ずつ並んでいる。車内は通常のリクライニングシート。
[編集] 0番台(1~18)
1961年から翌年にかけて製造された初期形。キロ28形0番台に相当する。昭和35年度(1961年3月)に製造された最初の5両(1~5)は、キハ56形・キハ27形初期車同様、車体断面形状がその後の量産型と微妙に異なっている。当初は非冷房仕様だったが、1964年~1968年にかけ箱形クーラー(AU13形6基)と自車単独用の電源エンジン(4DQ-11P)を搭載して冷房化された。
1985年3月14日のダイヤ改正で北海道内の気動車急行列車のグリーン車が全廃されたことで用途がなくなり、国鉄時代の1986年までに廃車された。
[編集] 100番台(101~107)
1963年から1966年にかけて製造された長大編成対応形。キロ28形100番台に相当する。101~103は1~と同仕様で非冷房、104~107は強制通風装置付で冷房化準備仕様。何れも1968年までに冷房化されている。
0番台同様、道内の気動車急行のグリーン車廃止により用途がなくなり、国鉄時代の1987年までに廃車された。
[編集] 200番台(201~203)
1968年に製造された最終増備形。当初から冷房付で、キロ28形300番台に相当する。
道内の気動車急行のグリーン車廃止により、本来のグリーン車としての用途はなくなった。1985年に201が「アルファコンチネンタルエクスプレス」用に改造された。202は「アルファコンチネンタルエクスプレス」用増結車として塗り替えられ、JR北海道に引継がれたが、1988年に廃車された。203は民営化前に廃車となっている。
[編集] 改造車
[編集] キロ29・59形(お座敷車)
北海道内のお座敷車両は、国鉄時代の1973年にキハ27形122~124の3両が改造され、グリーン車扱いのキロ29形1~3となったのが最初である。片側通路式で、天井内張は屋形船のような合掌式となっていた。冷房装置は設けられず、夏には市販されているお座敷用の扇風機を客室内に置いてしのいでいた。
運転室後方のデッキを物置にしたので、その部分の扉は埋められたのが外観上の大きな変更点である。当時は特殊な編成・車両といえども独自の塗装を施すことは認められなかったため、塗色そのものは変更されず、窓下に淡緑色の帯を追加し、グリーン車マークを入れたのみであった。
編成には「くつろぎ」の愛称が付けられた。単独編成を組んで団体専用列車に用いられたほか、定期急行列車に増結されることもあった。
1984年にはキハ56形134、135を改造してキロ59形1、2の2両が製作された。内装はキロ29形1~3の流れを汲んでいるが、10年以上を経過したこともあって設備面ではカラオケ装置、オーディオ設備、冷蔵庫などが追加されている。冷房装置は設けられなかったが、扇風機に代わりラインフロー式換気装置(ラインデリア)が設置された。またこの車両は外部塗装がクリーム色1号の地に赤2号の模様を入れた塗装に塗り替えられている。
このキロ59形の登場と同時にキロ29形も同じ色に塗り替えられた。また車両個別に北海道の湖にちなんだ愛称が付けられた。愛称は以下のとおり。
- キロ59 1:「大沼」
- キロ59 2:「洞爺」
- キロ29 1:「支笏」
- キロ29 2:「摩周」
- キロ29 3:「サロマ」
JR北海道移管後にはサブエンジン直結式クーラーを搭載して冷房化されたが、老朽化が進行したことから、後継形式のキハ40系改造お座敷車が登場した後の1999年に全車廃車された。
[編集] キハ53形500番台(501~510)
1986年にキハ56形(14、15、19、38、40、47、113、120、121、139)10両を、苗穂工場・釧路車両所・五稜郭車両センターにて両運転台化改造したものである。名目は近郊形キハ45系のキハ53形である。同形式との重複を避けるために500番台とされたが、キハ45系とは全く無関係である。
北海道のローカル線は冬期の降雪量が多く、列車の運転頻度が低いこともあって、旅客列車もそれなりの排雪能力が要求される。しかし、従来道内の普通列車に広く用いられていたキハ22形・キハ40形は、いずれも低出力の1エンジン1軸駆動車であり、1両で深い雪を排除しながら走行するのは困難だった。やむなく通常は1両で間に合う乗客数の列車を、冬期のみ2両編成で運転することがしばしば行われていた。道内のほとんど全てのローカル線が大幅な赤字路線であるのに、2両編成を組むことは不経済であった。また、1両で普通列車に充当できる北海道用の強力型車両がなく、急勾配路線であっても22形・40形などの低出力車で無理をして運転されるケースが多かった。
キハ53形500番台車はこれらの諸事情を改善するために、2エンジン・2軸駆動の両運転台車として改造されたものである。
キハ56形の車体から運転台と反対の連結面側を切断し、廃車になったキハ56・27形から切断・流用した運転台を接合、新たに客室内片隅にデッキから出入りするタイプのトイレを設け、水タンクも車室内に置いている。座席は一部がロングシートに改められている。なお、接合用に使われた運転台には断面形状が量産車と異なる初期形車のものが含まれていたが、その場合も強引に接合した。従ってキハ53形500番台車の一部には、車体接合部が微妙にいびつなものが含まれている。
当初は名寄本線に直通する急行「大雪」などにも用いられたが、すぐに普通列車専用となった(宗谷本線急行の増結車にキハ56形と共に用いられたこともある)。JR北海道に引き継がれてからも深名線や札沼線末端区間などの閑散ローカル線において、ほとんどは1両で運用された。
老朽化に伴い、1996年までに全車廃車となったが、ワンマン化改造は行われず、塗色は最後まで赤とベージュの急行塗装だった。
[編集] キハ59系(アルファコンチネンタルエクスプレス)
国鉄末期の1985年から1986年にかけ、苗穂工場でキハ56系からの改造によって製作された特別車両である。気動車によるジョイフルトレインの先駆であり、その後国鉄民営化後の1990年代にかけて改造・新造取り混ぜて輩出された多くのイベント気動車の範ともなった。
愛称は「アルファコンチネンタルエクスプレス」であったが、長くて呼びにくいため、「アルコン」と略して呼ばれることが多かった。金色の斬新なリゾート列車として、鉄道ファンではない一般の人々にも広く親しまれた。
[編集] 開発の経緯
1981年の石勝線開業を期に、北海道内の列車網は従来の函館中心(対本州連絡)を脱し、千歳空港での航空機との連携を軸にした札幌中心の体系が構築されるようになった。一方で道内のローカル線における赤字体質は慢性化し、国鉄再建法のもと、1983年の白糠線を皮切りに、道内各地において赤字ローカル線の廃止が始まる。加えて道路網の整備もあり、1950年代の準急列車に起源を持つローカル急行列車は、この時期までに著しく退潮した。
1960年代の最盛期には、最大15両という驚異的な長大編成を組んで急行列車に用いられ、一時は特急列車の代走車両にも充当されたキハ56系であったが、1970年代以降、主要幹線の急行列車が軒並み特急列車に格上げされたことで、1980年代初頭には既に二線級の車両となっていた。また従来キハ56系の牙城であった宗谷本線系統の急行列車でも、56系の陳腐化対策として1985年、昼行列車「宗谷」「天北」をディーゼル機関車牽引の14系客車に置き換えるという奇策が採られた。普通車に冷房がなく、車内がボックスシートで、台車も金属バネのキハ56系は、もはや時代遅れの車両だったのである。1985年の時点で、キハ56系は既にその本来の役割を失ったと言える。
この頃、石勝線沿線には当時のスキーブームを背景として2つの大型リゾートホテル(ホテルアルファリゾート・トマムとサホロリゾート)が作られた。道路事情の不便さもあり、両ホテルは千歳空港からのスキー客輸送を石勝線に頼っていた。が、国鉄の運行する臨時列車は古びたキハ56系が主力で、「リゾート」の雰囲気とはほど遠く、ホテル、利用客の双方から不満があった。
そこでホテル側は国鉄に特別車両の開発を申し入れた。ホテルが列車を借り切り、営業収入を保証するという好条件であった。前代未聞のケースで、従来の国鉄の体質では受け容れ難い申し入れであったが、民営化を前にした増収政策への方針転換もあり、国鉄とホテルの提携によって、リゾート列車用の特別車の開発が行われることになった。
[編集] 改造の過程
コスト上の理由により、完全新製ではなく、当時余剰車が生じつつあったキハ56系の改造で特別車を製作することになった。
既にこのころ、本州の国鉄線では客車を改造した洋風列車が出現しており、それらはグリーン車扱いであった。しかしグリーン車扱いでは料金が高くなり過ぎるため、この北海道用リゾート車両は普通車扱いとされた。
車齢20年近い急行形気動車をベースにした斬新な車両開発は、苗穂工場に委ねられた。長い歴史を持ち、車両技術に優れる同工場であるが、デザインや色彩のセンスを問われるかつて例のない改造であり、関係者は非常な苦労を重ねたという。この改造では、リゾートホテル側の関係者も多くの提言を行っている。改造費用の総額は当時で1億2,000万円に達した。
車両愛称の「アルファコンチネンタル」とは、製作に関わった二つのホテルの名称を合成したものである。
当初の編成は3両、両端の車両は展望車両とし、座席はリクライニングシート化、全車冷房搭載とした。スキー客に配慮し、各車に大型荷物置き場を用意したのも周到である。内装はホテルのラウンジを思わせる高級感あるもので、種車のキハ56を想像することは難しい。
塗色はホテルのイメージカラーでもあるつや消しのダークブラウン(傍目には金色と見えるので、当時流行していた某アニメのファンに「百式」と呼ばれたりもした)と、鉄道車両では例のないものであったが、落ち着いた色調は利用者から好評であった。
[編集] キハ59形(1、2)
キハ56形201、209をベースに改造された「アルファコンチネンタルエクスプレス」先頭車である。
キハ56形200番台は、車齢が新しいうえ冷房搭載準備車で改造しやすかったため種車に選ばれた。もっとも、通常型のユニットクーラーを搭載したのは連結面寄りのみである。
運転台寄りの四分の一は車体構体を切断して、本来の床面から最大600mm高められたハイデッカー構造となり、前頭部は大きく傾斜した前面窓を介して前面展望が可能となった。この部分はハイデッカー部直後に置かれた集中型クーラーで冷房され、暖房も電気暖房となっている。
運転台は低い位置に置いて眺望の障害とならないよう考慮され、前照灯は屋根上と窓下(尾灯と並列)に控えめにレイアウトされている。大型の連結器カバー(落成時は非装着。「フラノエクスプレス」登場後に装着)がアクセントとなっていた。
コストや工作の制約から、前面とハイデッカー部のガラスは平面ガラスで構成されたが、そのような制約を微塵も感じさせない秀逸なデザインであった。
[編集] キハ29形(1)
キロ26形201をベースに改造された「アルファコンチネンタルエクスプレス」中間車である。
キロ26形はもともと冷房化されていたが、それに加えて自車用冷房電源エンジンを搭載していた。しかし、「アルコン」は編成全体を冷房化するので、隣接するキハ59形にも冷房電源を供給する必要が生じた。そのため、電源エンジンは自車専用の4DQ-11Pを取り外し、3両に給電可能な4VKに換装(北海道での使用は本車両が初めてであった)している。
「アルコン」は1985年12月から貸切列車として石勝線での運行を開始し、非常な好評を得た。車内には供食用のカウンターも設置され、ホテルから派遣されたスタッフがサービスを行ったのも斬新であった。
車両不足のため、一時はキロ26形202を塗装のみアルコン仕様として増結に用いたほどであった。しかしリクライニングシートのグリーン車であっても「リゾート列車」らしからぬ設備に当たった乗客からは不評で、本格的な車両増備が求められた。これに伴い、キハ59形101が製作される。
[編集] キハ59形100番台(101)
1986年に「アルコン」の中間車として増備された。キハ56形212を苗穂工場で改造したものである。旅客設備については従来の「アルコン」各車を踏襲した。
ベース車両は出力確保の見地もあり、2エンジンのキハ56形が選ばれた。ここで問題になるのは搭載された冷房装置の電源であった。キハ29形の電源供給量は3両分で、4両目の分まではカバーできず、一方自車床下は走行用エンジンで埋まって、冷房用電源装置を積むことが出来ない。やむを得ず床上にエンジン室を設け、グリーン車からの廃車発生品であるディーゼル発電機4DQ-11P(電源供給量は自車1両分)を搭載している。運転台は撤去のうえ切妻に整形され、完全な中間車となった。
[編集] 「アルコン」のその後
「アルコン」は秀逸なデザインと設備の良さから広く注目を集め、バブル期前後のリゾートブームを背景に、団体貸切列車や臨時特急・急行列車として道内各地で運行された。発足当初のJR北海道におけるイメージリーダーとしての役割は計り知れない。
特にその前頭形状は完成度が高く、東日本旅客鉄道(JR東日本)のキハ58系改造車「アルカディア」、西日本旅客鉄道(JR西日本)のキハ65形改造車「ゆぅトピア」にも踏襲された。
「アルコン」の好成績から、北海道では続けて特急形のキハ80系改造、そして後にはキハ183系の完全新造車というかたちで多数のリゾート気動車が製作されるに至る。また本州以南のJR各社でも、「アルコン」の流れを汲むジョイフルトレインが急行形気動車をベースとした改造で数多く製作された。バブル景気に伴う旅客需要増加という背景はあったにしても、これらの列車が生み出されるきっかけとなったのが「アルコン」であることは間違いない。
人気列車であった「アルコン」であるが、後続の新型車が登場してくると問題点が明らかになってきた。「アルコン」は急行形気動車の改造車であり、最高速度が95km/hに制限され、高速化する特急主流のダイヤに適応しにくくなった。また金属バネ台車であるため、特急形に比して乗り心地が劣った。このように性能面で時流に対応できず、また改造後10年近くを経過して老朽化も進行しつつあったことから、1995年に引退イベントを行い、同年廃車された。
先頭車は廃車後も長期にわたり、苗穂工場内に留置されていた。キハ59形1両は2002年に競売され、最終的に千歳市の牧場経営者が落札した。現在は石勝線の線路にほど近い千歳市内の牧場に保管されている。反対側の先頭車は前面部が切断されてカットボディーとなって苗穂工場に残されている。
- 引用HP
[編集] 「ミッドナイト」用改造車
函館-札幌間夜行快速列車「ミッドナイト」号用として、キハ27形200番台車6両を1988年に改造したグループである。
函館~札幌間には、国鉄末期まで函館本線小樽経由の夜行普通列車が運転されていたが、郵便・荷物列車との併結列車であったため、1986年11月ダイヤ改正における郵便・荷物列車全廃と同時に廃止された。しかし、その後もこの区間のエコノミーな移動手段への需要は残されており、1984年から北都交通による夜行バス「オーロラ号」が運転されて好成績を収めていた。
民営化によって発足したJR北海道は、この状況に危機感を抱き、対策として1988年3月の津軽海峡線開業に伴うダイヤ改正で、函館~札幌間に全車指定席の夜行快速列車「ミッドナイト」を新設した。この列車は、従来から函館~札幌間に設定されていた夜行臨時急行「すずらん」のダイヤに沿うかたちで設定されたもので、途中室蘭本線・千歳線経由で、全区間を約7時間程度で走破した。
従来の急行形車両の設備(固定クロスシート)では、リクライニングシート装備のバスに対抗できないため、設備を改善した特別車両を投入することになった。運行路線が勾配の少ない室蘭・千歳線であるという事情もあって、エンジン1基搭載のキハ27形のみで構成されている。
キハ27形501、502は、キハ27形210、217の改造車で、座席間隔を広げ、バケットタイプのリクライニングシートを装備した「ドリームカー」である(シートはキロ182形の座席3列化にともなう発生品の再用である)。後部デッキ寄りにはミニサロンと自動販売機を設置している。
キハ27形551~554は、キハ27形201、202、207、208の各車の改造車で、車内の座席を撤去してカーペット敷きとした「カーペットカー」である。運転台寄りの区画は女性専用区画となり、運転台側のドアとデッキはふさがれて更衣室に改造された。
この改造に際しては、全車がバス用のサブエンジン直結冷房装置を搭載して冷房化されている。
「ミッドナイト」は、通常カーペットカーとドリームカーで2両ないし3両編成を組んで運行された。普通乗車券と指定席料金のみで乗車でき、特にカーペットカーは横になって移動できることから利用者の人気を得た。しかしながら、台車が金属バネ台車のままのためカーペットカーの居住性は今ひとつであったともいう(横になった乗客は、走行中、硬い床から伝わる突き上げ振動に耐えなければならなかった)。
老朽化の進行に伴い、2000年には「ミッドナイト」の車両がキハ183系気動車に置き換えられたことで、2001年までに廃車となった。この内キハ27 551,552が岐阜県の奥飛騨温泉のホテルでカラオケルームとして再利用されている。
[編集] その他の保存車輌
- キハ27 11 小樽鉄道記念館
- キハ27 23 三笠鉄道記念館
- キハ27 36 北見市個人所有
- キハ27 53,106 月形町にて利用
- キハ27 55,117,118 メモリアルシップ八甲田丸前にて休憩所として利用
- キハ27 109 旧上興部駅
- キロ26 104 三笠鉄道記念館
- キロ26 107 小樽鉄道記念館
- キハ56 16 三笠鉄道記念館
- キハ56 23 小樽鉄道記念館
なお最後まで在籍していたキハ56のうち、202・204・211号車の3両は廃車後も五稜郭駅に隣接する五稜郭車両所に保管されていたが、2006年11月に211を残して解体された。
- 日本国有鉄道(鉄道省)の気動車 ■Template ■ノート
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