国鉄キハニ5000形気動車
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国鉄キハニ5000形気動車(こくてつキハニ5000がたきどうしゃ)は、鉄道省が1929年に12両を製造した機械式ガソリン動車である。
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[編集] 概要
1929年に閑散線区での単行運転用を目的として、汽車製造(キハニ5000~5004)、日本車輌製造(キハニ5005~5009)と新潟鐵工所(キハニ5010・5011)の3社で合計12両が製造された。機関出力不足、車体重量増、軸受が平軸受であったことの3点の理由から十分な性能を発揮することができなかった。
[編集] 車体
同時代の31系電車およびオハ31系客車などに準じた設計で、鋲接構造の10m級半鋼製車体を備える。
窓配置はd3D(1)2D(1)(D:客用扉、d:乗務員扉、(1):戸袋窓)で、客室部は中央の客用扉を挟んで各3枚の客用窓部に各2組、対面式配置の固定式クロスシートがシートピッチ1300mm[1]で設置されており、定員は43名、片側車端部のD(1)部分が荷重1tの荷物室とされていた。
車体各部の基本設計は当時の省制式客車や電車のそれに準じており、車体幅も2800mmと大型であった。残された明細図からは、台枠構造を当時私鉄向け気動車を多く製作していた日本車輌の2軸レールカーのものを踏襲した構造[2]としたほか、車体外板の厚さを1.6mmとする(当時の電車は2.6mm厚)、側構体の厚さを客車より若干薄い92.5mmとするなど軽量化設計へ一応の配慮はされているものの、通常の客車の強度を確保したり、客車と同一の標準部品を使用したため、十分なものとはならなかったことが窺い知れる。連結器についても客車代用としての使用も考慮されたのか、省制式の並形自動連結器がそのまま装着されていたが、基本自連では最も軽量な座付自連[3]としており、ここでも一応軽量化への配慮はあった。なお、座席のシートピッチや外板厚の寸法はその後のキハ41000以降の気動車の標準となった。
自重は公称15.5tとされたが、当時鉄道省運輸局車両課が雑誌に公表した実測値は19tであり、機関出力に比して非常に重い車両であったことがわかる。
前面は非貫通式の3枚窓構成であり、幕板部中央にLP42形前照灯を設置し、更にその上部にエンジン用ラジエーターパネルが取り付けてあった。なお、暖房はこのラジエーターの熱を転用した温水暖房が採用されており、コックの切り替えで暖房使用が可能であった。
塗装は製造当時はぶどう色に赤色の等級帯で、その後は気動車の標準色として新たに制定された黄褐色と紺色の2色塗り分けとなった。
[編集] 主要機器
[編集] エンジン・変速機・逆転機
エンジンは海軍向け内火艇用を改設計の上で転用したもので、量産品である程度性能も安定していたと伝えられる、池貝製作所[4]製縦型4サイクル4気筒、シリンダ直径110mm、ストローク140mm、排気量5.32リットル、連続定格出力43PS(回転数1200rpm時)、最大出力48PS(回転数1500rpm時)の小型ガソリン機関(型番不詳)が採用された。
変速機は変速3段+直結1段(ギヤ比 1速:4.657 2速:2.822 3速:1.651 4速:1.000 逆転機:4.5489)の機械式で、当初クラッチは乾式の円錐クラッチが採用されたが、試運転でクラッチ滑りが多発したため、多板式のものに交換された。これらは逆転機と共に専用品が設計された。また、変速機に後進位置がないのが特徴であり、以後の鉄道省の機械式気動車にも踏襲された[5]。
これらの機関・変速機・逆転機は全て専用の台枠に搭載され、この台枠は一端を車体台枠にコイルバネでつり下げ、もう一端を駆動軸で軸受を介して支持する、電車の釣り掛け駆動と同種の構成となっていた。つまり、機関出力はユニバーサルジョイントの類を介さずに駆動軸に伝達される構成で、この設計には機関台枠一式の荷重の約半分が駆動軸にかかるため、当時の2軸車で一般的であった機関台枠を前後の軸に載せる方式よりもバネ下重量が小さくなっていた。なお、これらの方式は、当時はエンジンの防振技術が不十分であったため、車体に機関を積むと車体に振動が伝わってしまい乗り心地が悪くなってしまうため考案されたもので、軸バネを介すことで機関の振動を伝わりにくくするものであった。なお、機関を床下に吊り下げてユニバーサルジョイントを用いる方式が2軸車に採用されたのは1930年の大阪電気軌道長谷線レカ1~3(日本車輌製)が最初であるが、しばらくはどちらも一長一短であったらしく、車軸に機関を載せる方式も並行して製造され続けた。
[編集] 台車
軸バネとして重ね板バネを用いた2軸単台車で、車輪径は860mm、軸距は4500mm、車軸は10T長軸であったが、なぜ長軸が採用されたのかは不明のままである。また、軸受が当時の私鉄気動車では一般的であったコロ軸受ではなく平軸受であったが、これはコロ軸受と比較して起動抵抗が約7倍、走行抵抗も約1.5倍以上であり性能面での悪影響はかなり大きかった。
[編集] ブレーキ
ブレーキは小型車であるため、手用ブレーキの他、入れ替え弁を使用する簡易な空気ブレーキが搭載された。
[編集] 運用状況
当初東京鉄道局に3両、名古屋鉄道局に5両、仙台鉄道局に2両、札幌鉄道局に2両が配置され、その後転配を繰り返してそれぞれ区間運転や閑散線区での運用に充てられた。
- 当初の投入予定線区:久留里線、太多線・越美南線、塩釜線、室蘭線
- 営業運転線区:東海道本線の大垣-美濃赤坂-(西濃鉄道)市橋間、北陸本線の長浜-彦根間、播但線の姫路-寺前間、小松島線の小松島-阿波川島間、室蘭本線の室蘭-東室蘭間、東北本線の長町-塩釜間、姫新線の姫路-播磨新宮間、山陰本線の正明市-仙崎間など
重量過大を承知で耐久性を重視した設計が幸いしたのか、性能は低かったが、初期に発生したクラッチ滑走を除けば故障は比較的少なく、またその後のキハ41000形などと異なり連結器や車体の強度が高かったことが幸いして、燃料統制後は機関を下ろしてそのまま客車化し、キハニ5000~5002、5006、5007、5009~5011がハニ5000形5000~5007、キハニ5003~5005がヤ5010形5010~5012となった。なおキハニ5008はこれより前の1933年に事故廃車となっている。
戦後、ヤ5010は改番して事業用車のエ810となり、この内1両(キハニ5005→ヤ5012→エ812、室蘭客貨車区)が廃車後、倉庫となっていたものを1980年に原番号であるキハニ5005として復元[6]され、苗穂工場で保存されている。
[編集] 参考資料
- 湯口徹『内燃動車発達史(上・下)』(ネコ・パブリッシング)
- 鉄道史料保存会『戦前私鉄向 内燃動車詳細図集』(鉄道史料保存会)
- 湯口徹「鉄道省制式内燃動車素人試(私)論」『鉄道史料 第114号』(鉄道史料保存会)
- 岡田誠一『キハ41000とその一族(上)』(ネコ・パブリッシング)
[編集] 脚注
- ^ オハ31系客車と同寸法、スハ32系客車からは1455mmに拡大された。
- ^ 側梁を長土台受と兼用させて、軸箱守は横桁間に渡した補助梁に取付ける構造。
- ^ 重量は約500kg、日本車輌製の簡易連結器では170kg。
- ^ 現・株式会社池貝、株式会社池貝ディーゼル
- ^ 私鉄気動車では後進位置があるため、逆転レバーは片側(逆転機側)の運転台にしかないのが通例である
- ^ 復元のできない機関部は外形だけのレプリカを製作して搭載したが、車体については使用ネジ(当時はマイナスネジしかなかった)の考証などを含め徹底的な復元が実施された。
[編集] 関連項目
- 日本の気動車史
- 日本国有鉄道(鉄道省)の気動車 ■Template ■ノート
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