寺内タケシ
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寺内タケシ(てらうち たけし、本名:寺内武、1939年1月17日 - )は、日本のギタリスト。茨城県土浦市出身、関東学院大学工学部電気工学科卒。通称「エレキの神様」である。また、「テリー」の愛称でも親しまれている。座右の銘は「ギターは弾かなきゃ音が出ない」。
1962年に「寺内タケシとブルージーンズ」を結成。日本では絶対的なエレキギターの権威で、国内外のプロギタリストにもファンは多く、ジェフ・ベックやカルロス・サンタナ、リッチー・ブラックモアも寺内に憧れているという。また、現在1500校近い高校を回り、コンサートを開いている。ロシア、アメリカ、ブラジルなど世界でも公演を続けている。
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[編集] 幼少時代
父龍太郎は土浦市議会議長を務め、筑波研究学園都市の推進役として知られた映画館や電器屋など手広く手がけた実業家。母初茂は鶴岡流小唄と草紙庵流三味線の家元であった。 5歳のときよりギターを手にした寺内は、母の三味線を師匠として練習に励んでいたが、母の三味線に負けないような大きな音の出るギターを作りたい一心で電話機を改造して世界で初めてエレキギターを自作した(と主張するが、特許の申請と言うことは子供心では知るはずがなく公式には認められていない。その功績はビートルズでさえ自伝の中で「エレキ・ギターの発明者は、日本のテリー・テラウチ」と書いている)。このとき音を鳴らすのに空襲警報のスピーカーを使ったために近所の人が防空壕に避難してしまい、父親が憲兵に連行されてしまったという。このようなこともあり、寺内は9歳の時を皮切りに合計10度、父親に勘当されたことはファンの間では有名である。 しかし試行錯誤を重ねて作ったためボロボロで1年でダメになってしまったため今度はまたも子供心に「マイクで弦の振動を拾うんだから空洞の大きいボディーは必要ない」と悟り、またもや世界初のソリッドボディーギターを作った(正確には近所の職人に作らせた)。後のブルージーンズではこれまた自作のPAシステムをコンサートで使用していた。ちなみに母の三味線の技術は寺内が今になっても「母を超えたとは到底言えない」と言うほどであったという。
[編集] 高校・大学時代
小中学校で常に勉強の成績は最下位で、高校へ入っても成績は低空飛行だった(入った茨城県立土浦第三高等学校も、父が寺内を入学させるために設立したといわれる)。さらに、仲間を集めてバンドを結成していた頃で、両親の心配を買い、父親に「一度で良いから、一科目でいいから一番を取ってくれ。そしたら好きなギターを好きなだけやってもいい。」と懇願され、寺内は半年間必死で勉強をし、ついに期末テストで一位の成績を収めた。それで親は「お前はやれば出来るんだ。このままこの成績を保ってくれ。」と言ったが、寺内は「俺はやれば出来るんだから、やらない。」と言って勉強をやめてしまった。それでまた成績は落ちた。
一位を取るまでの寺内を当時の教師は「あいつはだめだ」などと馬鹿にしていたが、一度だけ一位を取ったら、コロッと意見を変え「あいつは本当はいい奴なんだ。」と言う様になった。そんなこともあり、寺内は大人への反感を強めていった。
高校時代は入学直後にマンドリン・クラブを創設し、その技術も群を抜いていて、1年から出場したNHK全国楽器コンテストで3連覇という快挙を成し遂げ、明治大学マンドリン部創設者の古賀政男から勧誘を受けるほどだった。寺内は「明治に入るほど頭脳は良くない」と正直に話したが、古賀の取り計らいで工学部に入学を果たした。しかし勉強しないことを知っていた父に1週間で退学させられてしまい、父親のコネで関東学院大学工学部電気科に入学した。
[編集] クレージー・ウエストからマウンテン・プレイボーイズまで
この頃から米軍キャンプで演奏を行い、その技術はアメリカ人の兵士やバンドメンバー達を驚愕させた寺内は、ミッキー・カーチスとの出会いを機にアメリカ人と組んでいたバンドを抜けて、彼のバンドであったウエスタン・バンドのクレージー・ウエストに参加。しかし解散寸前で寺内加入後他のメンバー全員が脱退してしまったため、新メンバーを集めてバンドを復活させる。しかし札幌のジャズ喫茶での公演が決まった矢先にベースの岩倉忠が入院してしまったため、代わりのベーシストを採用、この男が碇矢長一、後のいかりや長介である。当時ロカビリーをやっていた碇矢をウエスタンに転身させたのは寺内であった。
公演が終わり碇矢と別れた寺内だが、後に米軍上瀬谷キャンプでジミー時田とマウンテン・プレイボーイズのベースとして活躍していた碇矢と再会、ジミー時田を紹介されて寺内はこのバンドに移籍した。しかし充実した時期を送っていたさなかに時田からクビを宣告される。しかしそれはこの頃ブームになっていたロカビリーに参入するために寺内をリーダーにした新しいバンドを作る意図があった事務所(東京ハワイアンズ)の作戦であった。そして寺内は、1962年8月、ほりまさゆきをボーカルにしたロカビリーバンド「寺内タケシとブルー・ジーンズ」を結成する。
寺内脱退後のクレージー・ウエストはその後「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」と改名。そしてマウンテン・プレイボーイズを脱退した碇矢が加入し、加藤茶、高木ブー、仲本工事、荒井注とメンバーが集まって以降は説明するまでもない。
[編集] ブルージーンズ結成
1962年の結成当時はロカビリー色の強かったブルージーンズだが、1963年1月のステージ転落事故を機にエレキバンド化を決意、メンバーを入れ替えた上に電器屋の息子としてのノウハウを生かして日本楽器(現ヤマハ)に自らの設計図を持ち込んで日本初のエレクトーンを開発させてしまい、ギターアンプ、エコーマシン、PAを充実させて日本初のエレキバンドとして完成させた。この頃に加入していたのがボーカルの内田裕也や、ザ・スパイダースから引き抜いたセカンドギターの加瀬邦彦である。
このときのとある演奏中に騒いでいた観客とステージ上の寺内、内田とが口論となったがそのとき「寺内さんの言ってることがわからないのか、もっと黙って聞けよ、他の観客が迷惑してるじゃないか!」と一喝したのが当時寺内の追っかけをしていた安岡力也であった。
1964年から翌年にかけてベンチャーズやアニマルズ、アストロノウツ、スプートニクスといった海外のバンドがこぞって来日、世界のエレキの凄さを見せつけようと意気込んで乗り込んできたがベンチャーズはともかく他のバンドはことごとくブルージーンズの演奏の凄さに完全に屈し白旗をあげて帰って行くという伝説を作り上げてしまった。更に1965年には日劇ウエスタンカーニバルの音響監督に就任してイベントをエレキ一色に変えた。このことなどから世界的にも寺内の演奏は知られるようになり、この年多忙により実現しなかったが「エド・サリバン・ショー」の出演依頼が舞い込み、さらにアメリカの音楽雑誌「ミュージック・ブレーカー」にチェット・アトキンス、レス・ポールと並んで「世界三大ギタリスト」に選ばれた。このことから自分のオリジナルモデルを持つ2人に対抗して寺内のオリジナルモデルも作られることになり、ヤマハからSG7'、通称ブルージーンズ・カスタムが発売された。ただし最初は開発途中のものを勝手にヤマハが発売したために寺内が激怒、このためこのギターはブルージーンズの名を冠していない。後年になってようやく完成されたブルージーンズモデルが完成した。このシリーズのギターは日本人の小さな手でも弾きやすいデザインになっており、モズライトと並んで日本のエレキファンの間では絶大な支持を集めている。この頃からや「津軽じょんがら節」に代表される民謡のカバーにも取り組んでいた。更に植木等の「遺憾に存じます」のバックバンドを務め、1965年の紅白歌合戦出場を果たしている。
しかし加瀬が脱退した1966年に殺人的ハードワークがたたって病に倒れてしまう。当初の診断では「結核性リンパ腺炎」で明日をも知れない命として緊急入院と衝撃的なニュースとして大々的に報じられたが後に誤診と判明、実際は過労であり音楽関係者を安心させた。
[編集] バニーズ誕生、第2期ブルージーンズ結成から現在
しばらくは療養生活を送っていたがエレキを捨てることは出来ず、渡辺プロとの確執や自分のプロダクションを持ちたいという思いからブルージーンズを脱退し事務所と円満に決別、音楽プロダクション「寺内企画」を立ち上げ、輿石秀之らを迎えてインストと歌を両立させたGSバンド「寺内タケシとバニーズ」を結成する。このころに生まれたのが後述の「運命」に代表されるクラシックのカバーである。
しかし音楽性に行き違いが生じるようになりバニーズを脱退、GSと一線を画し、エレキの新しい可能性を追求するエレキ・コンボ、第二期ブルージーンズを結成する。しかし第1期ブルージーンズが空中分解して田川譲司をリーダーにしたムード歌謡グループに変貌していながらも未だにその名前を使っていたため商標問題に発展、しかし「ブルージーンズ=エレキ=寺内タケシ」の三位一体論を支持する世論に押されてブルージーンズの名前を取り戻し、栄光のブルージーンズ復活が実現した。
1970年にはメンバーをGS次代を担った若手に一新して第3期に突入する。以降はメンバーチェンジを繰り返し寺内以外のメンバーの平均年齢を若く保ちつつ、音響面や楽器面など年々進化を続けながら現在に至る。
[編集] エレキ禁止令への対抗と社会的貢献
第一期ブルージーンズ結成後しばらくして、エレキギターのバンドは不良少年の温床だという声が多くなってきた。世間のエレキへの抵抗感が強まるにつれ、寺内達の活動は困難になる。また、各教育現場でのエレキギターの使用禁止も行われ、高校生から寺内に悲愴な手紙が届くようになった。それを受けて、寺内は各地の高校を渡り歩き、そこの校長と話をしてエレキの良さを認めてもらおうとしたが、ほとんどは門前払いで、話を聞いてくれたのは100校中3校だけだった。
落ち込む寺内は、原点回帰のため故郷の茨城に帰った。そして母校の土浦三高を訪ねると、校長は寺内を温かく迎え入れ、エレキの良さを理解し、寺内はブルージーンズと共に母校で演奏した。これが現在1500校を超えようとしている「ハイスクールコンサート」の第1校目であった。
そのさなかの1967年に「レッツゴー運命」(ベートーヴェンの「運命」のリメイク。1967年11月30日発行のレコード・マンスリーのシングルチャートで5位を記録)で第9回日本レコード大賞編曲賞を受賞すると、それまでエレキに反対していた人たちは、口々にエレキのすばらしさを語るようになった。そして寺内がなぜそれまでエレキに反対したかと聞くと理由を答えられず謝罪することしかできなかったという。
1976年にはソ連に住んでいて寺内の大ファンだという白血病に苦しんでいる8才の少女に生演奏を聴かせるために3千万円の赤字と寺内企画の倒産を覚悟で8月ブルージーンズのソ連ツアーを決行した。この最中、9月6日に起こったミグ25事件にもひるまず、52日間に及んだこのツアーで観客42万人を動員、大成功に終わった。後に1981年(45日間、観客130万人)、1984年(43日間、観客57万人)にもソ連ツアーを行っている。この功績が認められ1981年12月22日には日本国際連合協会から感謝状と国際連合が発行したピースメダル(ちなみに国連平和賞ではない。当時のマスコミが、ピースメダルと国連平和賞を混同して報道したため、誤解される原因となった)、84年には文化功労賞と音楽功労賞をそれぞれ授与された。なお、この年にはブラジル、アルゼンチンでもツアーを行っている。
1981年には四年後に開かれたつくば万博のグランドプロデューサーに就任、万博の基本構想から会場のレイアウト、テーマ・ソングの作曲、万博に参加する予定の国でのコンサート・ツアー、常磐高速道路・一般道路の整備、宿泊施設、鉄道から会場周辺の上下水道の整備、VIPの接遇、跡地の再利用など多岐に渡る仕事を全て無報酬でこなした(これに際して千葉県知事から月200万円の報酬を提示されたが断ったという。)
エレキが世間に認められるようになると、本格的にハイスクールコンサートをはじめとする活動を積極的に行うようになり、1978年に第20回日本レコード大賞企画賞、2000年にはハイスクールコンサート1000校達成の功績に対しスポニチ文化芸術大賞、同年5月には中曽根文部大臣(当時)から感謝状が授与された。その折、S字結腸ガンで入院し、手術を控えていた2002年2月18日にブルージーンズのボーカルをつとめる長男章が覚醒剤取締法で逮捕され、寺内は大きなショックを受ける。2月17日の退院(この時医師は「再発の可能性は500%無い」と太鼓判を押したという)直後の3月3日に痛む身体に鞭を打って緊急謝罪会見を開き「厳しく法の裁きを受けて、刑に服し、きれいになって社会復帰してもらいたい」とコメントした。
そして4月11日、神奈川県民ホールにて「不死鳥テリー!蘇る!コンサート」をブルージーンズを従えて敢行、完全復活を果たし、以後現在まで依然と変わらぬ精力的な活動を行っている。
2004年12月、エレキギターへの優れた演奏と青少年への情操教育への貢献が認められ、文化庁より長官表彰を受けた。2005年6月には衆議院第一別館において、国会議員をはじめ関係者を集め「ハイスクールコンサート国会報告会」を開催した。
2006年11月、中学生対象のコンサートも始めるが、12月にうっ血性心不全と肺炎のため入院し2007年1月17日にカテーテル導入手術を受け1月22日に退院し、10日後にはまた演奏活動に復帰している。さらにこのとき持病だった不整脈もついでに治療したため、呼吸が改善されてギターのタッチもさらによくなったという。心臓も「15歳から20代の心臓」とお墨付きをもらったそうである(参照)。
[編集] 事業家として
寺内は事業家としての一面も持っている。横浜市内に大手ゼネコンと共同で10階建てのマンションを多数建造し、基本的な設計、ラフ図面は自らこなし、母校の関東学院大学の土木工学と土木建築の講座も持っている。
また、1995年1月17日に起こった阪神淡路大震災(奇しくも寺内の誕生日であった)でパニックになった現場で救助活動が送れた反省を踏まえ、反省からパニック現場への誘導を適切にしたいという、市町村関係者の声を元にトヨタテクノクラフトと共同で災害対策車「非常災害用音響本部車」を開発、寺内が電器屋の息子のノウハウをここでも生かして設計を担当、さらに開発費用として2億5千万円を投資した。この車は2年後の1997年5月に完成した。余談だが開発最中、行川アイランドでの屋外コンサート終了後に音響実験を行ったところ周りに民家がないはずなのにあまりの音の大きさに住民が驚いて殺到する事態となってしまった。この時、当の寺内は愛車のベンツでどこまで音が届いているかを確かめに遠くまで出ていたが意気揚々と戻ってきたところ住民から大目玉を食らった。しかし寺内はその場で平謝りを繰り返しながらも遠くにしっかり音が届いたことに満足していたという。
[編集] 代表曲
オリジナル曲
- ユア・ベイビー(リバプールサウンド時代到来を予期して加瀬邦彦が作曲したボーカル曲、後にザ・ワイルドワンズもカバー)
- ブルー・ジーンNo.1(加瀬邦彦作曲のオリジナル)
- テリーのテーマ
- テストドライバー
- 涙のギター
- 空飛ぶギター
- フィードバックギター
- 羅生門
- 青春へのメッセージ(ボーカル曲)
クラシックのカバー
- 運命(ベートーベン「交響曲第5番」)
- 未完成(シューベルト「交響曲第7番」)
- 熊蜂の飛行(リムスキー=コルサコフ)
- ハンガリア舞曲(ブラームス)
- ペルシャの市場にて(アルバート・ケテルビー)
- 剣の舞(アラム・ハチャトゥリアン)
- ツィゴイネルワイゼン(サラサーテ)
日本民謡のカバー
その他
- キャラバン
- パイプライン
- ダイヤモンド・ヘッド
- エル・クンバン・チェロ
[編集] 著書
- 「死ぬ気でやってみろ!」
- 「我は無なり、我は有なり」
- 「寺内タケシの手作り課外教育」
- 「海を越えて愛」
- 「バカやってるかい」
- 「テケテケ伝」
- 「断腸の思い」等