藤山一郎
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藤山 一郎(ふじやまいちろう、1911年(明治44年)4月8日 - 1993年(平成5年)8月21日)は、日本の国民的歌手・声楽家・作曲家・指揮者。東京都日本橋蛎殻町出身。本名は増永丈夫(ますながたけお)。本名ではクラシック音楽の声楽家として活動。愛称はピンちゃん。モスリン問屋「近江屋」の三男に生まれ、東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)に学び、クラシック音楽の正統派歌唱から大衆的なポピュラー音楽まで幅広い分野で活躍した。『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『青い山脈』など多数のヒット作をもち、太平洋戦争戦前戦後を通じ、日本のポピュラー音楽を代表する歌手である。
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[編集] 少年時代
藤山は日本橋長谷川町(現在の中央区日本橋堀留町)に店を出していたモスリン問屋「近江屋」の5人兄弟の末っ子として生まれた。父は増永信三郎、母はゆう。一番上が長女の恒子、二番目が長男の正夫、つづいて次男の文夫、次女八千代、そして三男丈夫であった。父信三郎と姉八千代は丈夫を良く浅草に連れていった。この時、雑誌の物売りや粗悪品を売るテキ屋、アメ屋の売り子などの歯切れの良い口上や売り文句を聴いていたことが、後に歌手・藤山一郎の言葉は明瞭で歯切れが良いと言われる要因となった。
のちに東華幼稚園に入園したが、その腕白ぶりから大塚の女子師範学校(現・お茶の水女子大学)付属幼稚園に1年で転入させられる。この時、お茶の水には作曲家・山田源一郎の甥である山田義男のもとに嫁いでいた姉の恒子が住んでいて、姉との関係で、当時山田源一郎が設立していた日本女子音楽学校(現・日本音楽学校)に毎日のように通い、山田に教えを受け音楽教養の基礎を身に付けていった。
その後慶應義塾幼稚舎に入学。この時女子音楽学校に通っていたことにより、幼稚舎で教鞭をとっていた江沢清太郎の推薦で童謡歌手に選ばれており、『はんどん、何して遊ぼ』『春の野、山の祭り』『はねばし』などの童謡レコードを吹き込んでいる。また同じく慶應義塾普通部で教鞭をとっていた弘田龍太郎に師事、後に東音の1年生のとき『慶應幼稚舎の歌』『普通部の歌』を吹き込んだ。また、変声期の頃には歌を控えヴァイオリンを東音の大塚淳に師事した。幼稚舎時代の同級生に文学者の野口冨士男、代議士・山本条太郎の息子武太郎、画家の岡本太郎らがいる。ちなみに、普通部卒業の時の成績は、音楽に熱中するあまり52人中51番という惨憺たるものであった。ビリの52番は岡本太郎であった。
慶應普通部時代には次のようなエピソードがある。1927年(昭和2年)、慶應の応援歌『若き血』がつくられたとき、普通部に在学中の藤山(増永丈夫)が学生の歌唱指導をした。慶應の講堂で中学生の藤山が歌い、後から大学生が歌ってようやく覚えた。普通部でも藤山が教室を回って指導した。上級生でも歌えない者は容赦なくしごいた。早慶戦では慶應が早稲田をやぶった。明治神宮野球場では『若き血』の大合唱。興奮の坩堝となった。だが、その後災難が藤山にふりかかった。普通部の5年生に呼び出され、後輩のくせにと、殴られた。鼻っ柱に一発きて、そのまま地面に倒れた。鼻血がでて、これが本当の若き血。藤山は生前この話をよく嬉しそうに話していたという。藤山の普通部時代の青春の一ページである。
[編集] 音楽学校時代
慶應義塾普通部卒業後上野の東京音楽学校(現・東京藝術大学)に入学。声楽を船橋栄吉、梁田貞、ヴーハーペーニッヒ、音楽理論をクラウス・プリングスハイムに師事。バリトンの声楽家として嘱望された。同級生にはピアノに豊増昇、永井進、水谷達夫、声楽には長門美保ら後の日本のクラシック界を背負った逸材がいた。そのなかでも増永丈夫の才能は群を抜いていた。だが、生家モスリン問屋・近江屋が関東大震災(1923年(大正12年)の被害、昭和金融恐慌(1927年(昭和2年))による十五銀行の破産、昭和恐慌(1930年(昭和5年))の煽りをうけ倒産寸前に追い込まれ、当時の金で3万8千円の借金を背負ってしまう。
この生家の借金返済の為、学校の規律に反して在学中にコロムビアから芸名・藤山一郎でレコードを吹込む。最初、「厳頭の感」を残して日光の華厳の滝に身を投げた一高生に因んで藤村操という名前を考えたが、ゲンが悪いと言われ、友人「永藤秀雄」(上野のパン屋「永藤」の息子)の名前を逆にして「藤永」としたが、本名増永と「永」の字がかさなるので「永」を「山」に直した。「フジヤマ」なら日本一で行こうと、「一郎」と続けた。藤山一郎の誕生だった。歌手・藤山一郎のデビュー曲になるはずだった『北太平洋横断飛行マーチ』は、肝心の横断飛行がテスト飛行中に事故を起こして墜落。レコードはお蔵入りとなり発売中止になっている。だが、古賀政男の『キャンプ小唄』でデビュー。その後も『下関小唄』『愛人よ、われに帰れ』『平右衛門』『函館行進曲』などを吹き込み、アルバイト料を稼ぐが、歌自体はあまり流行らなかった。とはいえ、謎の歌手藤山一郎はしだいに話題となり注目されるようになった。
「上野」期待のクラシック音楽学校生・増永丈夫の人生が作曲家古賀政男の一連のヒット曲と出会うと一変した。『キャンプ小唄』『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『影を慕いて』が爆発的な人気を呼び、一躍藤山一郎の名は有名になる。ホールの隅々まで響かせるメッツァヴォーチェをマイクロフォンに効果的にのせるクルーン唱法で古賀メロディーの魅力を伝えた。声楽技術の正統な解釈の所産だった。その一方で、張りのある美声で声量豊かに古賀メロディーの青春を高らかに歌いあげた。だが、これによって、藤山一郎という歌手が声楽本科に在籍する増永丈夫であることが学校当局に知られてしまった。学校の校則に反してレコードを吹込んでいたことが問題となり、1ヶ月の停学処分となる。その1ヶ月は事実上音楽学校の冬休みの期間であり、藤山の成績や借財返済という吹込み理由などを考慮した温情ある計らいであった。
最終学年(1932年(昭和7年))のとき、東京音楽学校奏楽堂で上演された学校オペラ『デアー・ヤーザーガー』(クルト・ワイル作曲)の主役(テナーの少年役)を好演し(東京音楽学校は「風紀」を理由に舞台上演のオペラを禁止していたが、この上演のみ例外で舞台上演された)、日比谷公会堂でクラウス・プリングスハイムの指揮で『ローエングリン』を独唱。外国人歌手と伍してのバリトン独唱は豊かな将来性を示した。テノールの美しさをもつ音色と低音域の安定度は音楽学校が増永丈夫をなぜ退校処分にできなかったのか、周囲を納得させるのに十分だった。まさに「上野最大の傑作」だった。
停学後、レコード吹込みを一切やめ学業に励んだ。この時、ビクターが毎月100円の支給をした。1933年(昭和8年)3月、卒業演奏ではパリアッチのアリアを独唱し、音楽学校を首席卒業した。同年ビクター専属となる。
[編集] ビクター専属時代
ビクターに入社した藤山は、クラシック(バリトン・増永丈夫)と流行歌(テノール・藤山一郎)の二刀流をスタートさせる。当時ビクターには赤盤歌手の藤原義江や関屋敏子、東京音楽学校の先輩である四家文子、徳山璉らがいて、本格的なクラシックは本名の増永丈夫、大衆音楽は藤山一郎で歌うのに都合のよい音楽環境があった。
ビクター入社第一作は『赤い花』(ハバネラタンゴ)。だが、レコード発売は『僕の青春(はる)』が早く好評だった。まるで、踊りだしたくなるような青春賛歌だった。ビクター時代の藤山は中山晋平作品に名唱盤が多い。『燃える御神火』ではクルーン唱法が高く評価された。『浅草の唄』は藤山の澄んだ響きが生かされ、近代と江戸情緒が融合した浅草の心象風景が表現されている。また、橋本国彦作品の『チェリオ』も都会のスマートなセンスが盛り込まれヒットした。ビクター時代の藤山はジャズへの熱い情熱をもっていた。『おおドンナ・クララ』『公園で』『踊り踊らず』『いとしの今宵』『誰ゆえに』『希望の船路』など、歌唱力に恵まれた藤山一郎の格調高い唱法はジャズ・ソングに新鮮な魅力をあたえた。『メリーウイドー・ワルツ』などオペレッタを歌ったり、内外の歌曲、欧米の名曲や民謡を歌うなど、流行歌以外でも幅広く活動した。『蒼い月』『谷間の小屋』『永遠の誓い』『草笛』『旅愁』『古戦場の秋』『荒城の月』『浜辺の歌』クラシックの格調をもった大衆音楽家としてのスタンスをとった。また、ビクター専属アーティストの徳山璉、四家文子らと『流浪の民』『故郷の廃家』『緑の黒髪』『夢のふるさと』などの四重唱や「なつかしのメロディー」「世界民謡の旅」などのアルバムに素晴らしい歌唱芸術をのこした。これは後にNHK専属になったときの藤山の活動の原点になったと言える。
また、本名の増永丈夫では、ベートーヴェンの『第九』、ヴェルディの『レクイエム』を日比谷公会堂で独唱するなど声楽家としても期待どおりの活躍をみせた。1933年(昭和8年)9月NHKラジオ放送で増永丈夫でアイルランド民謡を独唱。同年10月、日比谷公会堂で「藤山一郎・増永丈夫の会」を催す。クラシックと流行歌・ジャズ、ミュージカルと多彩なステージを演奏する、マイクロフォンなしの独唱(ピアノ伴奏)とマイクロフォン前提のクルーン唱法(ビクター管弦楽団)を同一空間で共有した。バリトン本来の美しさ、テノールの音色は流行歌の世界をより魅力的なものした。
ビクター最後の吹込みがコンチネンタルタンゴの『夜風』。ビクター時代の藤山はタンゴにも意欲的に取り組んだ。藤山の声量豊かなテナーと確実な歌唱による名唱盤である「恋の花束」「ばらの面影」など、藤山一郎の歌唱がこのタンゴのスタンダードナンバーをより魅力的なものにしている。タンゴに始まり、タンゴで終わった藤山一郎のビクターの青春だった。
[編集] テイチク専属時代
1936年(昭和11年)ビクターとの契期満了を迎え、古賀政男との縁でテイチクに入社。母親が株で失敗し、増えた借財返済のために再び古賀とコンビを組む。このときテイチクは藤山に多額の移籍金を支払っている。入社第一作目の『東京ラプソディー』(古賀政男・作曲)が大ヒット。このようなフォックストロットの軽快な曲は豊かな声量と正確無比の歌唱技術を誇る藤山の独壇場だった。レコードは35万枚売れ、B面の『東京娘』とあわせて2万1千円の印税を受け取り実家の借金を返済した。そして、藤山一郎の歌唱による『東京ラプソディー』によって古賀メロディーの黄金時代が確立した。また、伏水修監督のPCL映画『東京ラプソディ』にも出演し、歌手ながらも好演してみせた。その後も『青い背広で』『男の純情』『青春日記』などヒットを続け、昭和モダンを高らかに歌う藤山一郎の黄金時代を迎える。テイチクでヒット作品に恵まれると、声楽家・増永丈夫としての活動も始まった。NHKラジオに増永丈夫で出演。『蒼い月』『谷間の小屋』などを独唱する。美しいテノールの音色を誇るバリトン歌手増永丈夫の真髄を見せた。
[編集] コロムビア専属~終戦を迎えて
1939年(昭和14年)にテイチクとの契期満了を迎えると再び古賀政男との縁でコロムビアと契約する。和製タンゴの傑作『上海夜曲』、異国情緒豊かな『懐かしのボレロ』、銀座の郷愁が歌われた『なつかしの歌声』、山田耕筰作品の『燃ゆる大空』などがヒットした。山田耕筰の歌曲では『この道』を美しいバリトンで吹込んでいる。また1939年、「オール日本新人演奏会10周年記念演奏会」(日比谷公会堂)でヴェルディーのアリアをバリトン独唱し、1940年(昭和15年)グルリット指揮のベートーヴェンの『第九』をバリトン独唱し声楽家増永丈夫として堂々の声楽家ぶりをしめした。本来なら、一度はヨーロッパにと思っていたが、第二次世界大戦勃発のため断念した。
太平洋戦争が激化すると、前々から激戦地に赴き慰問演奏をしたいという希望があり、1943年(昭和18年)読売新聞社の企画で南方慰問団を結成、二度南方に赴き、幾度の死線を突破して音楽活動を続けた。1945年(昭和20年)、インドネシアで終戦を迎え、インドネシア解放軍、イギリス軍の捕虜となる。この抑留体験が大衆音楽家藤山一郎の人生を決意させた。1946年(昭和21年)、航空母艦「葛城」に乗船して復員。
帰国後、コロムビア専属藤山一郎としてスタート。ハバネラタンゴの『銀座セレナーデ』『ふるさとの馬車』が巷に流れた。1947年(昭和22年)、ラジオ歌謡『三日月娘』がヒット。そして、藤山は東宝映画『音楽五人男』に出演し、その主題歌である『夢淡き東京』『白鳥の歌』をヒットさせた。『夢淡き東京』は廃墟となった東京の街に潤いをあたえた。映画でも歌われた『バラ咲く小径』は藤山の名唱の一つ。また奈良光枝とのデュエットで戦後の息吹を伝えた『青い山脈』が大ヒットした。格調高い溌剌とした躍動感溢れる藤山一郎の歌唱は新たな時代を告げていた。同年には、永井隆の随想を元に、平和への祈りを込めた『長崎の鐘』が藤山一郎の歌唱によってヒットし、多くの人々に感銘をあたえた。
しかし、大活躍の中、1949年(昭和24年)に捕虜生活や仕事の疲れがたたり肝臓膿瘍という奇病を患う。病気は治るのだが、この時「いつ倒れるかわからない」という不安を覚え、1950年(昭和25年)池袋の川越街道に「ミッキー・モータース」という洗車・整備・給油の店を副業としてオープンさせている。その後NHKのバラエティ『愉快な仲間』に森繁久弥と共に出演し、回復をアピールしている。
こうして再び歌手としての活動に入った藤山は長崎公演の折、病床に臥していた永井隆のもとを訪れ、『長崎の鐘』を歌った。この時「新しき朝の光のさしそむる荒野にひびけ長崎の鐘」という短歌を贈られ、家宝として大切にしている。そして、藤山自身、自ら曲を付けて古関裕而の曲の後に入れて歌っている。また、巣鴨プリズンでA級戦犯の人々の前でも歌っており、荒木貞夫、畑俊六、木戸幸一らの感謝状を頂戴している。
戦後の藤山は古関裕而、服部良一メロディーのヒット曲に恵まれたが、佳曲が多い。また高木東六作曲の『あこがれのタンゴ』、クラシックのホーム歌曲『なつかしき愛の唄』『ドナウ河の漣』、器楽曲に詩をつけた『夢のひととき』(シューベルト)『春の花束』(チャイコフスキーの弦楽四重奏曲第1番第2楽章の主題に詩をつけたもの)、さらに『淡いともしび灯』『心の叫び』などのポピュラー曲など、流行歌のみならず幅広いジャンルを歌唱した。
[編集] NHK専属になって
藤山自身の言葉からわかるように、「コロムビアで私一人の出演料で新人歌手なら3人は養成できる。私がNHKに移ることで将来活躍できる新人に道を譲るのも悪い事ではない。また、自身の音楽生活をNHKで充実させる事が出来る」、また、「最近の歌謡曲はパチンコ・ソングが多い」とも考え、1954年(昭和29年)、NHKの専属となる。その後はNHKの番組に出演して、クラシック作品、独唱曲、日本歌曲、ポピュラーミュージック、ホームソングの普及に貢献する傍ら、各会社のコーラス部の指導や、社歌・寮歌・校歌・隊歌の作曲活動、NHKや民放の懐メロ番組に出演するなど幅広い活動を行った。
また、『ラジオ体操の歌』[1]の作曲やNHK紅白歌合戦では第1回から8回まで歌手として、第9回以降は東京放送管弦楽団のオーケストラ指揮者として連続出場、番組フィナーレでは『蛍の光』を指揮して大晦日の顔としても知られた。
卓越した歌唱力・美しい音色・響きもさることながら、豊かな声量と正確無比な歌唱は正格歌手の評価を受け、希望・励ましという「陽」の存在を流行歌の世界に知らしめ、1992年(平成4年)5月28日に国民栄誉賞を受賞した(テレビや雑誌などで死後受賞と報道されることがあるが、授与式に出席している)。なお、スポーツ選手を除く国民栄誉賞受賞者の中では唯一存命中の受賞である。
社団法人日本歌手協会二代目会長、日赤特別有功章、社会教育功労章、NHK放送文化賞、緑十字交通栄誉章、レコード大賞特別賞、勲三等瑞宝章、紫綬褒章などを受ける。1993年(平成5年)、急性心不全のため死去。死後従四位に叙せられる。流行歌のみならず日本音楽界に果たした功績は大きい。
後輩歌手では伊藤久男、近江俊郎、岡本敦郎、布施明、尾崎紀世彦、由紀さおり、芹洋子、倍賞千恵子、アイ・ジョージなどを評価していた。理由は「ただクルーンするだけでなく、シングも出来る両刀使いだから」だそうだ[要出典]。
また、社会奉仕活動にも取り組み歌手としては珍しくロータリークラブに入っていた。死後、遺品等が遺族からNHKに寄贈され、NHK放送博物館に「藤山一郎作曲ルーム」が設置され展示されている。
[編集] 代表曲
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[編集] 自伝
- 『歌声よひびけ南の空に』光人社 ISBN 4-769820283
[編集] 評伝
- 『藤山一郎とその時代』新潮社 ISBN 4104179019
- 『藤山一郎 歌唱の精神』春秋社 ISBN 4393934350 C0073
国民栄誉賞 |
王貞治 | 古賀政男 | 長谷川一夫 | 植村直己 |
山下泰裕 | 衣笠祥雄 | 美空ひばり | 千代の富士貢 |
藤山一郎 | 長谷川町子 | 服部良一 | 渥美清 |
吉田正 | 黒澤明 | 高橋尚子 |
カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 日本の歌手 | 1911年生 | 1993年没