藤川球児
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愛称 | |
国籍 | ![]() |
出身地 | 高知県高知市 |
出身校 | 高知商業高校 |
誕生日 | 1980年7月21日 |
身長 | 184 cm |
体重 | 83 kg |
血液型 | A |
守備位置 | 投手 |
打席 | 左 |
投球 | 右 |
背番号 | 22 |
年俸 | 1億7000万円(2007年度) |
デビュー年 | 1999年 |
キャリア | 1999年- |
所属球団 | 阪神タイガース |
前所属球団 | なし |
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藤川 球児(ふじかわ きゅうじ、1980年7月21日 - )は、阪神タイガースに所属するプロ野球選手(投手)。
目次 |
[編集] プロフィール
- 身長・体重:184cm、83kg
- 投打:右投左打(両打という見方もある。詳しくは後述)
- 血液型:A型
- 出身地:高知県高知市
- 球暦・入団経緯:高知市立高知商業高等学校 - 阪神(1999~)
- プロ入り年度・ドラフト順位:1998年・1位
- 英語表記:FUJIKAWA
- 背番号:22
- 守備位置:投手
- 推定年俸:1億7000万円(2007年度)
[編集] 背番号
国際大会
[編集] 来歴・人物
名前の由来は父親が草野球でノーヒットノーランを達成した翌日に生まれたからだ、と言われている。
1998年のドラフト会議で阪神タイガースから1位指名。野球センスの高さは評価されていたが、その内実は安全パイに近いもので、デビュー当初は、球速が130km/h台後半から140km/h台前半と現在の快速球とは程遠く、その上、幾度の故障に泣かされるなど本人も一時は引退も頭をよぎったと語る。その「地獄から這い上がった」苦労人故か、人格面でも高く評価されている。
2004年途中に中継ぎに転向、その翌年にはオープン戦の頃から「コースや球種がわかってても打てない」と多くの打者に言わしめるほどの最速155km/hの快速球とキレのある変化球で三振を奪い続け、稲尾和久らが持っていたシーズン最多登板記録(78試合)を超える史上初の年間80試合登板を果たした。開幕から長らく防御率0点台を維持し続けていたものの、疲労からかシーズン終盤に打ち込まれて失点を喫する試合が増えた。とはいえ年間トータルでも防御率1.36と驚異的な成績を残しようやくリリーフ投手として大成。藤川と同じ中継ぎのジェフ・ウィリアムス、抑えの久保田智之の三人の頭文字を合わせてJFKと呼ばれる存在となった。
星野仙一前監督をして「もし藤川がいなかったらと思うとゾッとする」と言わしめたほど、2005年のリーグ制覇に多大な貢献を果たした。交流戦で対決した福岡ソフトバンクホークス・王貞治監督も彼を指し、「阪神にはいつのまにあんな投手が出てきたんだ!」と驚愕した。その縁から2005年シーズンオフにWBC日本代表として王監督に招聘される。
2006年シーズンも中継ぎエースとして大きな期待が寄せられたが、前年の80試合登板による右腕の酷使を心配されていた。開幕当初は二段モーションの修正・WBCの影響などで若干不安定さは見られたものの、持ち味のストレートを武器に、最終的に防御率0.68、奪三振122の成績を残した。
またこの年の交流戦では20試合に登板、24イニングを無失点に抑え、特に5月28日の西武ライオンズ戦(インボイスSEIBUドーム)では西武の打者を6者連続空振り三振に仕留める華々しい活躍を見せた。
交流戦終了直後に指を骨折し登録を抹消された抑えの久保田智之の代わりに2006年6月25日の東京ヤクルトスワローズ戦(阪神甲子園球場)から抑えを務め奮闘するも、8月12日に首の寝違えにより登録抹消。8月末に1軍復帰も、2度の登板で右肩の張りを訴え8日間の休養を与えられる。9月9日の横浜ベイスターズ戦に復活登板を果たした。
公式プロフィールでは「右投げ左打ち」とされているが、2006年9月17日のナゴヤドームでの中日ドラゴンズ戦の9回表の打席では、岡田彰布監督に「(左打席に立って右肩を投手に向けるのは)危ないから」と指示され右打席に立っている(結果は見逃し三振)。とある試合では左打席から内野安打を放っている。このため本来は左打ちではなく両打ち(スイッチヒッター)という見方もある。
[編集] 藤川のストレート
藤川の最大の武器であるストレートは「火の玉ストレート」とも呼ばれ、その球速以上に、驚異的な球の伸びが特徴と言える。
ストレートはそもそも、リリースの際にボールにバックスピンをかける事により、重力と空気抵抗の影響が可能な限り抑えられ、なおかつ真っ直ぐな軌道を突き進むため、ある意味では直球は変化球の一種であると言える(直球を参照)。とはいえ初速と比べればどうしても終速は遅くなるし、リリースしてからミットに収まるまでの軌道に落差は生じる。バッターはこの高度の変化をストレートの球筋として経験的に認識している訳だが、藤川のストレートの球筋は、打者の認識しているそれと全く異なる“浮き上がるような伸びた球”となる。藤川の、特に明らかに高目へ外れたストレートを打者がボール2~3個分近く下を空振りするのは、こうした通常とは異なるストレートの軌道に起因している。
- 上記のように抜群の伸びを誇るストレートの握りは通常のように人差し指と中指の間を空けず、完全にくっつけた握り。通常の選手なら球速は出てもコントロールできない。しかし、藤川には独特の考えがあり、二つの指をくっつけることで安定感を保っていると言う。
- 入団当初の球速から10~15km/h以上という驚異的な球速アップを果たしたが、本人はその秘密を「大人の体になってきたから」とテレビのインタビューで語っている。
- 女房役の矢野輝弘は、「大げさに言うと魔球に近い。プロが真っ直ぐで空振り取れるというピッチャーはそうはいない」と語っている。
- 同僚の赤星憲広は、「どんなに豪速球でも、プロの打者に慣れられたら打ち込まれてしまうものだが、アイツ(藤川)は相当考えている。1球ごとに微妙に変化をかけて投げるから、あれだけの成績を維持出来ている」と語っている。
- 牛島和彦が横浜監督時代に「初速と終速の差が小さいためだろう、実際に計ってみたらどうか」と言った事がある。これを受けてかは不明だが、2006年7月25日付日刊スポーツ(大阪版)ではその調査結果を1面で掲載した。これによると、同年のオールスター第2戦でのクルーンと藤川のストレートを比較したところ、初速と終速の差は、クルーンが8~14km/h(概ね10km/h前後)に対し藤川が11~15km/h(概ね13km/h前後)と、クルーンの方が差が小さいことが判明した(日刊スポーツ独自のスピードガンによる計測。正確に計測できた球のみ)。したがって、よく巷で語られる「初速と終速の差が小さい」という話は当てはまらない事になる。ただ第2戦が行われたサンマリンスタジアム宮崎はシーズンで使われることはほとんどなく、今一つマウンドが合っていなかったという意見もある。また日刊の調べでは藤川とクルーンのリリースポイントを調べると、藤川の方が10cm前だった。藤川の身長が184cm、クルーンの身長が188cm、さらに外国人特有の手足の長さを考えるとこれは驚異的である。要因としては藤川の踏み出した足の位置にある。藤川はマウンドから7足目に足を置いている(ABCラジオでのアナウンサーの取材より)。
- さらにマスコミが調査を行うと藤川のストレートは他の投手に比べストレート回転数が多いことがわかった。通常の投手の1秒間の平均回転数は37回転、松坂で41回転、クルーンで43回転であるが藤川はそれらを上回る45回転である。回転軸の傾きも少ない(通常の投手は約30度、松坂、クルーンは10度であり藤川はそれらを上回る5度)。ストレートとは回転数が多ければ多いほど、回転軸が0度に近ければ近いほどボールにホップする力が加わるために藤川のストレートは他の投手のそれに比べ軌道が大きく異なるのである。
[編集] 略歴
- 少年野球チーム「小高坂ホワイトウルフ」時代は遊撃手だったが、監督が投手に転向させる。
- 1997年(平成9年) 高知商の右翼手兼控え投手として兄の順一捕手と兄弟バッテリーで夏の甲子園に出場。一回戦では旭川大高に6-3で勝利するが、二回戦で川口知哉投手(元オリックス・バファローズ)擁する平安高校に0-5で敗れた。当時は寺本四郎投手(千葉ロッテマリーンズ)、土居龍太郎(千葉ロッテマリーンズ)とともに高知三羽烏と呼ばれていた。
- 1998年(平成10年) ドラフト1位で阪神タイガースに入団。背番号は30。
- 2000年(平成12年) 初の1軍登録。
- 2001年(平成13年) 成績不振の為か、オフに背番号を92番(きゅうじ)に変更(手放した背番号『30』は2003年から、後のJFKトリオの一人久保田智之が引き継いだ)。
- 2002年(平成14年)9月11日 対ヤクルトスワローズ戦で先発し、8回1失点でプロ入り初勝利。
- 2004年(平成16年) オフに背番号を22番へ変更。※これまで阪神の22番は田淵幸一・木戸克彦・関川浩一等が付けており、「捕手の番号」というイメージが強かった。ちなみに藤川本人は「佐々木さん(佐々木主浩)と高津さん(高津臣吾)と同じ背番号で光栄です」と語っている。
- 2005年(平成17年) セットアッパーとして大活躍。6月の月間MVP(投手部門)、最優秀中継ぎ投手のタイトルを受賞(ホールドポイント53点)。また、オールスターゲームのファン投票・中継ぎ投手部門で1位となり、初出場を決めた。9月29日、79試合目の登板で稲尾和久、菊地原毅の持つプロ野球日本最多登板記録を更新した。また同日に阪神は甲子園で読売ジャイアンツを下し、リーグ制覇を果たした。10月2日には史上初の年間80試合登板を記録。2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表選出(その時の背番号は『24』であったが、これは千葉ロッテマリーンズの里崎智也が同じ『22』を付けていて、先輩である里崎に譲った為である)。
- 2006年(平成18年)7月4日 横浜戦(京セラドーム大阪)で2003年に当時西武の豊田清(現読売ジャイアンツ)が記録した日本記録の34試合連続無失点記録を35試合に更新し、7月12日の広島戦(甲子園)で38試合で記録が途切れたものの暫定的に歴代1位となった。7月11日には、小山正明が持つ球団記録である47イニング連続無失点記録を更新。7月12日の広島戦(甲子園)で暴投による失点で記録は途切れた。47回2/3イニング連続無失点は単独歴代5位とされていたが、記録マニアからの指摘で一リーグ時代の見過ごされていた記録が明らかになり、歴代7位となった。ただ、上位の記録は47年以上前の記録であり、唯一のリリーフ投手での記録でもあるため、規格外の投手であることが記録面からもうかがい知れる。
[編集] 年度別成績(2006年シーズン終了時)
年度 | 登板 | 完了 | 当初 | 勝利 | 敗戦 | S | 勝率 | 打者 | 投球回 | 安打 | 本塁打 | 四球 | 死球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2000 | 19 | 10 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | 113 | 22 2/3 | 25 | 1 | 18 | 4 | 25 | 15 | 12 | 4.76 |
2002 | 12 | 0 | 12 | 1 | 5 | 0 | .167 | 285 | 68 | 56 | 6 | 30 | 2 | 64 | 33 | 28 | 3.71 |
2003 | 17 | 4 | 2 | 1 | 1 | 0 | .500 | 126 | 29 1/3 | 28 | 4 | 12 | 1 | 19 | 12 | 11 | 3.38 |
2004 | 26 | 4 | 0 | 2 | 0 | 0 | 1.000 | 129 | 31 | 26 | 3 | 11 | 2 | 35 | 10 | 9 | 2.61 |
2005 | 80 | 7 | 0 | 7 | 1 | 1 | .875 | 349 | 92 1/3 | 57 | 5 | 20 | 1 | 139 | 20 | 14 | 1.36 |
2006 | 63 | 24 | 0 | 5 | 0 | 17 | 1.000 | 306 | 79 1/3 | 46 | 3 | 22 | 0 | 122 | 6 | 6 | 0.68 |
通算 | 217 | 49 | 14 | 16 | 7 | 18 | .696 | 1308 | 322 2/3 | 238 | 22 | 113 | 10 | 404 | 96 | 80 | 2.23 |
[編集] 記録
- 80試合登板(シーズン最多登板日本記録(2005年))
- 47回2/3連続無失点(阪神タイガースの球団記録)
- 38試合連続無失点(セ・リーグ記録、パ・リーグの記録が不明なため暫定の日本記録となる)
[編集] タイトル
- 2回(2005年~06年)
- 1回(2005年)
[編集] エピソード
[編集] 逆境に立たされた中から…
- 2004年オフ、藤川は肩の故障で二軍生活を送っていた。デビュー当初から故障に泣かされ続け、それまでの成績の低迷から最悪引退も考えられた頃、藤川は、現役時代その剛速球で知られた山口高志二軍投手コーチ(当時)に「なぁ、球児…、右足ちゃうか?」と声を掛けられた。山口曰く藤川の投球フォームは藤川自身ボールを低く投げる際に右足を曲げすぎ、自分自身が低くなってしまう欠点があり、それを是正すれば飛躍が望めるとアドバイスする。そのアドバイスは葛西稔二軍投手コーチの指導の下で実践に移され、藤川自身も肩の故障で投げられない状態の中で下半身のトレーニングを徹底させる等、デビュー当初から言われ続けた華奢さが別人のように変化するなど、後の大ブレイクの下地が作られて行き、そしてシーズン途中で同じ高知商の先輩である中西清起一軍投手コーチの助言で中継ぎに転向する事になる。
[編集] 清原発言
- 2005年4月21日の対巨人戦(東京ドーム)で、清原和博と対戦し満塁フルカウントで決め球のフォークボールで三振に討ち取ったが、「勝負どころで迷ったらストレート」が暗黙のルールだったパ・リーグ育ちの清原は「2対10の二死満塁、カウント2-3でフォーク?信じられんわ。ケツの穴、小さいな。チ○コついとるのか!!」と、激怒した(3人のランナーは先発・井川慶が残したものであり、中継ぎの藤川としては何としても無失点で切り抜けなければ、試合の流れが巨人に傾きかねない状況であったため、清原の発言は不適当だと岡田彰布監督、星野仙一SD、中西太、野村克也らは「清原はプロとして失格」と批判している)。
- その後、6月25日の試合(阪神甲子園球場)で再び清原と対戦した藤川は、今度はストレートで三振を奪った。この一件が「清原が本気にさせてしまった男」「力で清原を牛耳った投手」として、藤川を全国区の人気に押し上げた。清原もこれには脱帽し、「完敗。ナイスボールが来ました」と藤川のストレートを絶賛した。藤川は勝負に勝ったことに対して「たまたまです」と返した。後に藤川は「あの発言でストレートをもっと磨かないといけないと思いました。清原さんは僕にアドバイスしてくれたんだと思っています」と語り、大人の対応だと巨人ファンからも評価された。そして現在、藤川のストレートはまるで浮き上がるかのような球界屈指のノビを見せるに至っている。
- 翌年7月23日のオールスター第2戦(サンマリンスタジアム宮崎)では、オリックスに移籍した清原との注目の対決が再び実現。捕手古田敦也と黄金バッテリーを形成し全球直球で勝負。見事空振り三振に打ち取り、清原に「まいった、火の玉や」と言わしめた。
[編集] 球児の涙
- 2006年のペナントレースは、7月に入るとほぼ中日と阪神の一騎打ちという状況ができあがった。しかし、オールスターゲームが終わった7月下旬以降、阪神はなかなか勝ち星が得られず、一方で中日は堅実に勝ち星を積み重ねていたため、8月下旬には9ゲーム差まで差を広げられた。この間、中日との首位攻防3連戦で全敗するなどしたため、ファンからの選手らへの罵声が、ニュース等の報道だけでなく野球のTV中継でも聞こえるほどであった。
- 藤川自身は、8月12日に首の寝違えにより登録を抹消されていた。復帰後初のマウンドとなった8月27日の巨人戦では8回から登場して勝利投手となり、久々のお立ち台でマスコミや心無い野次に対して、この日の試合は勝ちはしたが、思わず悔し涙を流した(ただし、藤川本人はこの涙の理由について『週刊ベースボール』の取材の中で「目標を個人成績にする選手がいたなどの優勝を諦めたような雰囲気がチーム内に漂っていた」という本音を述べた)。しかし、そこからチームは破竹の勢いで勝利を重ね、この試合から中日の優勝が決まるまでの29試合を23勝5敗1分という驚異的な成績で勝ち進んだ。優勝には惜しくも結びつかなかったが、クールな落合監督をして、「球史に残る追い上げ」と言わしめるほど、逃げる中日を大いに苦しめた。この涙は「球児の涙」としてファンの間で語られている。
[編集] その他
- 中学時代に溺れている人を助けて表彰されたことがある。このことは日本テレビの「九死に一生スペシャル」に取り上げられた。
- 高知市立城北中学校に在籍していた中学時代、女優の広末涼子と同級生であった。そのため、1998年のドラフト会議で阪神タイガースから1位指名された際、「広末の同級生」としても話題となる。
- 所謂松坂世代の一人で、2000年に高校時代から交際していた現在の夫人と入籍し松坂世代のプロ野球選手で最初の既婚選手となる。
- 彼のグローブには、2005年のテーマである『本塁打厳禁』の刺繍がされている。これは2004年シーズン終盤に金本知憲が打点王争いをしている時にタイロン・ウッズ(当時横浜)にホームランを打たれてしまったことが元になっているという(結局その年の打点王は金本)。また、2003年4月11日の読売ジャイアンツ戦初戦に7-4、9回裏ツーアウト、ツーストライクから登板し、後藤孝志にスリーランホームランの同点弾を浴びる。皮肉にもこの試合が阪神ナインの奮起を促し、この年の阪神優勝のきっかけを与える事になった(これが『本塁打厳禁』の刺繍に繋がったとの報道があるが、それは間違いである)。
- 05年からは自らが使用するグローブに目標などをフレーズにして刺繍している(05年は『本塁打厳禁』06年は『細心而剛胆』07年は『気力一瞬』)。
- 2005年のオープン戦(高知市野球場)で応援に来ていた自分の子供が迷子になり、試合中にアナウンスされアイシング中に迎えに行ったことがある。
- 甲子園球場における登場BGMはリンドバーグの「every little thing every precious thing」。夫人と結婚する前からの思い出の曲。この曲が流れるとスタンドの阪神ファンはメガホンを曲に合わせて左右に振り、その光景はとてもきれいである。サンテレビ野球解説者の中田良弘氏は「(他の選手はアップテンポな曲を選ぶ中)藤川投手はかわいらしい曲を選びますね」と試合中にコメントした。この曲は2006年から、藤川と同世代のソフトバンクの杉内俊哉も使用している。なお2007年には、藤川と同郷のスーパーバンド(2006年にも安藤優也のテーマソングに採用)の「笑顔のゆくえ」と互用することになった。
- 最多登板記録を樹立した2005年オフの契約更改では提示された年俸に不満を持ち、「先発で勝った計算ならば21個勝ってます」「中継ぎ投手を放棄して先発で頑張るしかないです」「週に一度しか投げない人とは違うんですよ!」「(球団の提示額は)稲尾さんの記録にも失礼」「稲尾さんは比べる対象だと思ってない 」などの言葉を残した。
- パ・リーグの選手からは交流戦で最も対戦したい投手に上げられ、松坂大輔も藤川のフォームには大きな関心を示している。2006年の交流戦ではパ・リーグの打者に対して一切の得点を与えなかった。また矢野輝弘捕手は「伝説のストレートを受けている」と語っている。
- 2006年7月21日のサンヨーオールスターゲーム第1戦(神宮球場)では、カブレラに対してオールストレート宣言。ストレートの得意なカブレラにボールを触れさせず、空振り三つを奪う。続く小笠原道大にも直球一本で勝負した。こちらはファールで粘ったが最終的に空振りにきってとった。藤川の渾身のストレートに対しリーグでも最強と謳われる、カブレラ・小笠原の両打者が全力のフルスイングで応えたこの対戦は オールスター史上屈指の名勝負 としてファンの感動を呼んだ。ちなみにこのとき、球速の日本記録保持者である横浜ベイスターズのマーク・クルーン投手は藤川の速球について「彼のストレートはインビジブル(見えない)だ」と語っている。この事についてカブレラは、「オレ様が本調子ならばうてた!!」と言い訳していた。さらに登板前に藤川は「野球漫画のような世界を創りたい」と話しており、正に野球漫画に出てくるような真っ向勝負を演じてみせたのであった。
- 藤川本人は、中継ぎが出来なくなったらいずれ先発に転向して沢村賞を取りたいと言っている。また、06年シーズン後半はクローザーを務めたが本人はクローザーよりもセットアッパーを本当はやりたいと語っていた。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 阪神タイガース公式サイト - 球団公式によるプロフィール
- 藤川球児オフィシャルウェブサイト
00 秀太 | 0 中村豊 | 1 鳥谷敬 | 2 野口寿浩 | 3 関本健太郎 | 4 アンディ・シーツ | 5 濱中治 | 6 金本知憲 | 7 今岡誠 | 8 浅井良 | 9 藤本敦士 | 12 三東洋 | 13 中村泰広 | 14 能見篤史 | 15 太陽 | 16 安藤優也 | 17 金村大裕 | 18 杉山直久 | 19 筒井和也 | 20 正田樹 | 21 岩田稔 | 22 藤川球児 | 24 桧山進次郎 | 25 渡辺亮 | 26 江草仁貴 | 27 岡崎太一 | 28 福原忍 | 29 小嶋達也 | 30 久保田智之 | 31 林威助 | 32 前田忠節 | 33 葛城育郎 | 34 橋本健太郎 | 35 坂克彦 | 36 ライアン・ボーグルソン | 37 野原将志 | 38 橋本良平 | 39 矢野輝弘 | 40 桟原将司 | 41 上園啓史 | 42 下柳剛 | 43 上坂太一郎 | 44 藤原通 | 45 清水誉 | 46 鶴直人 | 47 吉野誠 | 48 相木崇 | 49 若竹竜士 | 50 高橋光信 | 51 桜井広大 | 52 赤松真人 | 53 赤星憲広 | 54 ジェフ・ウィリアムス | 55 喜田剛 | 56 田村領平 | 57 大橋雅法 | 58 高橋勇丞 | 59 ダーウィン・クビアン | 60 小宮山慎二 | 61 辻本賢人 | 62 玉置隆 | 63 大城祐二 | 64 庄田隆弘 | 65 水落暢明 | 66 大和 | 67 伊代野貴照 | 68 横山龍之介 | 92 エステバン・ジャン | 99 狩野恵輔
80 監督 岡田彰布 | 91 島野育夫 | 84 久保康生 | 76 吉竹春樹 | 71 中西清起 | 87 正田耕三 | 85 広澤克実 | 86 和田豊 | 83 嶋田宗彦 | 81 吉田康夫 | 90 続木敏之 | 78 二軍監督 平田勝男 | 88 立石充男 | 70 星野伸之 | 82 葛西稔 | 73 町田公二郎 | 89 山脇光治 | 72 平塚克洋 | 97 加藤安雄 | 74 伊藤敦規 | 75 遠山奬志 | 79 筒井壮 |
1 岩村明憲 | 2 小笠原道大 | 3 松中信彦 | 5 和田一浩 | 6 多村仁 | 7 西岡剛 | 8 今江敏晃 | 9 金城龍彦 | 10 宮本慎也 | 11 清水直行 | 12 藤田宗一 | 15 久保田智之 | 17 福留孝介 | 18 松坂大輔 | 19 上原浩治 | 20 薮田安彦 | 21 和田毅 | 22 里崎智也 | 23 青木宣親 | 24 藤川球児 | 25 新井貴浩 | 27 谷繁元信 | 31 渡辺俊介 | 40 大塚晶則 | 41 小林宏之 | 47 杉内俊哉 | 51 イチロー | 52 川﨑宗則 | 59 相川亮二 | 61 石井弘寿/馬原孝浩 |
89 監督 王貞治 | 84 武田一浩 | 85 辻発彦 | 86 鹿取義隆 | 87 大島康徳 | 88 弘田澄男 |
カテゴリ: 日本の野球選手 | 阪神タイガース及びその前身球団の選手 | 高知県出身の人物 | 1980年生