さいたまんぞう
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
さいた まんぞう(1948年12月9日 - )は、岡山県久米郡柵原町(現美咲町)出身の歌手・タレント。本名は牛房 公夫(ごぼう きみお)。
「なぜか埼玉」など、埼玉県をモチーフにした奇妙な味のあるコミックソングで一躍有名となった。ただし本人は上記の通り岡山県出身で、埼玉には本来何のゆかりのない人物である。現在は目立った芸能活動は行っておらず、特に歌手活動は休眠状態であるが、散発的にラジオやテレビに出演している。
芸能活動以外では1979年(昭和54年)から21年間明治神宮外苑審判協会に属する野球審判を務めた実績があり、現在でも草野球の審判を引き受けるなど活動を続けている。 所属事務所はニューライフ企画。同じ事務所に「演歌チャンチャカチャン」の平野雅昭、「おやじの海」の村木賢吉がいる。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 上京まで
1948年(昭和23年)12月9日、岡山県久米郡柵原町の牛房家に生まれる。当初は歌とは全く無縁で、小学校高学年の頃から野球に強い興味を持っていた。中学時代は野球部に所属、高校でも野球をと岡山市の名門校・関西高等学校を現在のスポーツ推薦の形で受験したが、下宿させてくれるよう頼みに行った親戚に「野球じゃ飯は食えん」と猛反対され、やむなく同高への進学をあきらめ津山基督教図書館高等学校へと進学した。その後、人気歌手の西郷輝彦のサクセスストーリーを雑誌で読んで、いたく感銘を受け芸能界を志すことになる。
[編集] 歌手デビュー
高校卒業後の1967年(昭和42年)4月に上京、アマチュアバンドに入りドラムスを担当するようになる。だが実際には俳優・浜畑賢吉の付き人を務めた以外には芸能活動への道が見出せず、職を転々とする毎日が続いていた。そんな彼に転機が訪れたのが1980年(昭和55年)年末に仲間内でつくったコミックソング「なぜか埼玉」であった。 元はバンドの先輩が「演歌のこぶしがつけられないやつに歌わせる」と言ってつくった曲で、その結果、彼に白羽の矢が立ってしまったのである。 そのような経緯のため本人は嫌々歌ったが、バンドの方では「さいたまんぞう」と芸名を命名、この曲と「埼玉いろはづくし」なる曲(木魚、ベース、ギターのシンプルすぎる伴奏に合わせ、「さいたまさいたま、いぃ~」(その後は「ろ」、「は」、「に」が違うだけ)と歌うナンセンス感と脱力感が満点の曲)をカップリングして自主制作盤をつくり、県内各所で宣伝を行う力の入れようであった。
この時点では県内ローカルの曲でしかなかったが、翌年1981年(昭和56年)2月に人気深夜ラジオ番組『タモリのオールナイトニッポン』で紹介されたことにより一変、「埼玉」というご当地ソングとあまり縁のない土地の歌だったこともあり、物珍しさから全国で話題となった。 この結果、4月にフォーライフ・レコード(現フォーライフ・ミュージックエンタテインメント)から前述の自主制作盤が商業盤として発売されるに至った。そして、「なぜか埼玉」は8万枚を売り上げるヒットになった。
これ以降、彼は歌手「さいたまんぞう」として活動を続けることになる。
[編集] 「なぜか埼玉」以降の低迷期
「なぜか埼玉」で話題を博した さいた は、同年12月にやはりコミックソングの「埼玉オリンピック音頭」「なぜか埼玉海がない」を出す。 しかし、元々一発屋ネタ的要素の強い曲でデビューしたこともあってか人気が続かず、この後 さいた の歌手としての活動は低迷する。 レコード会社もクラウン、キングレコード、東芝EMIなどと転々とし、安定しない時代が続いた。 この低迷期に出されたレコードはわずか3枚、曲数にしても4曲と微々たるものであった。
だが、1987年(昭和62年)に川島恵とのデュエットで出した「東京カントリーナイト」が、意外な結果をもたらすことになる。
[編集] 「歌う駅員さん」からタレントへ
元々のきっかけは、TBSの情報番組『そこが知りたい』(関東ローカル)の一企画「通勤線途中下車の旅」において京浜東北線を特集するからと、「なぜか埼玉」で一躍有名となった さいた に「首からラジカセをぶら下げて『なぜか埼玉』を歌ってほしい」とオファーがあったことに始まる。 この企画は流れてしまったが、この打ち合わせの際にマネージャーが持参した「東京カントリーナイト」が番組スタッフに好評で、番組エンディングでの使用が決定。 しかも折りに触れて駅員の扮装をして首からラジカセをぶら下げ、「東京カントリーナイト」を通勤路線をネタに替え歌にして歌ってもらいたいとの話にもなった。この趣向は不定期出演ながら「歌う駅員さん」として大好評となり、1996年(平成8年)まで出演回数28回を数えた(翌年には「ああ東京カントリーナイト」の題名で一部CD化されている)。
また、これに連動してテレビのリポーターやラジオ出演などの仕事が舞い込み、さいたの活動は歌手からタレントへとシフトしていく。現在の さいた はほぼ完全にタレントで、一時の勢いは衰えたものの時折ブラウン管に顔を見せ、またリポーターの経験などを生かして、結婚披露宴の司会を務めるなど営業活動も行っている。一時期ラジオ番組『吉田照美のやる気MANMAN!』に いちリスナーとしてしょっちゅうFAXを送っていた。
ちなみに歌手としての活動は前述の「ああ東京カントリーナイト」を除くと、1994年(平成6年)発売の「はくつる号は故郷へ」「小雨降る夜」が現在最後となっている。なお、2002年(平成14年)には自らの曲全曲を集めたCD「生存証明」を発売している。CDアルバム「生存証明」の収録曲には代表曲「なぜか埼玉」のユーロビート バージョンも収められている。(ただし曲調は、最近のパラパラ系ユーロビートではなく1980年代後半に人気のあったミドルテンポ哀愁系ユーロビートに近い)
[編集] 代表曲
- 「なぜか埼玉」(1981年)
- 「東京カントリーナイト」(1987年、川島恵とのデュエット)
- 「ああ東京カントリーナイト(JR編・私鉄編)」(1997年)