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アフガニスタン侵攻 (1979)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

Disambiguationこの項目ではソビエト社会主義共和国連邦のアフガニスタン侵攻について説明しています。アメリカ合衆国のアフガニスタン侵攻についてはアフガニスタン侵攻 (2001)をご覧ください。

アフガニスタン侵攻アフガニスタンしんこう)は、ソビエト連邦アフガニスタンに成立した共産主義政権を支える為に、軍をアフガニスタンへ進めて占領した事件。ソ連・アフガン戦争と呼んだ場合、アフガニスタンの反政府組織や義勇兵とソ連軍の間で発生した戦争を指す。1979年のソ連軍出兵から1989年の完全撤収まで10年に渡った。

アフガニスタンの地図

目次

[編集] 概要

実際の戦闘は1979年12月24日に始まったと一般的に考えられている。最終的にソビエト軍は1988年5月15日から1989年2月2日の間にアフガニスタンから撤退した。ソビエト連邦は全ての軍隊は1989年2月15日にアフガニスタンから退去したと公式に発表した。

多くの人は、この戦争は主権国家への正当な理由のない侵略行為だと見なしている。1982年11月29日国連総会でソビエト連邦の軍隊はアフガニスタンから撤退すべきだとする国連決議 37/37 が採択された。しかしながら、一方では、ソビエト連邦を支持した人もおり、この戦争は貧しい同盟国を救助しに行った行為、あるいはイスラム原理主義テロリズムを封じ込める為の攻撃としている。

この戦争において、CIAは、ソビエト連邦に対する抵抗運動を引き起こすために、10年以上にわたって21億ドルを費やした。ムジャーヒディーンと呼ばれたこの抵抗運動の兵士たちの中には、20以上のイスラム諸国から来た20万人の義勇兵が含まれていた。サウジアラビア出身のオサマ・ビンラディンもそれに加わった一人である。

[編集] 要因

ソ連政府はアフガニスタンに軍事介入することについては当初、国際関係上の影響を考慮して非常に慎重であった。それにも関わらず行動を起こした動機については様々な政治的な要因がある。

大きな要因として、まず当時アフガニスタン大統領であったアミーンは独裁的な政治を行って、独自の外交政策を展開したことが挙げられる。米国の情報機関と関わり、共産主義では否定されるはずの宗教聖職者との関係を強化した。これはソ連政府にはアフガニスタンの西側への転向の兆候と見られることとなった。アフガニスタンが転向することにより、ソ連の中央アジアにおける勢力圏を米国とイスラム主義勢力から防衛し、共産圏諸国へのソ連の国家的威信を維持する必要性が生じた。このことにより、ソ連政府は短期間での決着する軍事作戦を策定し、被害を最小限にとどめながらもアミーン政権を崩壊させることを狙って実行に移した。

また米国の軍事支援の影響もあった。当時の米国政府はパキスタンを経由して非軍事的物資と活動資金を地方の武装勢力に提供していた。しかしこれら支援は秘密裏に進めるように努めており、ソ連との対立姿勢を明確にすることは当時進行していた米ソデタントの動きからも不利益と判断された。ソ連政府は武装勢力の台頭やイスラム国家建国の動きに対して強い警戒感を持っており、これらの武力化の恐れがある政治的な動きを制御する必要性に直面していた。

もう一つの要因としてイスラム主義の動きから発生したイランでのイラン革命が挙げられる。革命でモハンマド・レザー・パフラヴィー国王政府が倒され、ホメイニを中心とする新政府が樹立された。このことはソ連にとって脅威であった。なぜならアフガニスタンでイスラム主義革命が起こればソビエト連邦を構成する中央アジアカフカスの諸ソビエト社会主義共和国にも革命が飛び火する危険性があったからである。事実、アフガニスタンではイスラムが根付いており、またイスラム主義の声も上がっており、イランは中央アジア・カフカスと歴史的・文化的繋がりが深く、イスラム革命後のイランには、北のソビエト連邦や東のアフガニスタンに革命を拡大するための宗教的、政治的、経済的な動機が十分にあった。これらの意見は、当時のソビエト連邦の指導者レオニード・ブレジネフが、ソビエト連邦は(おそらく連邦内のソビエト社会主義共和国を含め)危険にさらされている同じ社会主義国を救援する権利を持つと宣言した公文書“ブレジネフ・ドクトリン”によって裏付けられている。

[編集] ソ連軍の戦略

まずソ連政府はアミン大統領のソ連軍派遣の要請を受けたのを利用して派遣部隊をアフガニスタンに進入させ、アミン大統領の拘束殺害をまず目的として宮殿への襲撃作戦が立案され、特殊部隊を投入して実行された。その後は親ソ的な新政権を樹立させてアフガニスタンを早急に安定化させ、部隊を長くとも半年程度で撤退することを計画していた。しかしその後反政府勢力の台頭や活動の活発化などによって治安が急速に悪化し、新政権の強い要望によってソ連軍はアフガニスタンに足止めされることとなってしまった。そのため、治安作戦とアフガニスタン政府軍の訓練を推し進め、撤退後のアフガニスタンが安定するように努めた。

[編集] 戦術

アフガニスタンから帰還するソ連軍(1988年)
アフガニスタンから帰還するソ連軍(1988年)

ソ連軍は下記のような戦術を用いてアフガニスタンでの戦闘を行った。

  • ソ連第40軍(10万人以上の地上部隊で構成)の展開。空の支援、兵站部門、内務省(MVD)の部隊、それから他の種々雑多な部隊を含めると、総勢でおよそ17万5千人になったと複数の観測者によって計算されている。この数字は当時のソビエト連邦が保有するカテゴリー1(第一線級)の師団のほぼ20%に相当した。
  • 前線の裏側ではソビエト連邦によって化学兵器が広域にわたって使用されていた。このことは(ソ連の軍事雑誌が伝えるところによると)ソ連軍のための訓練だとみなされていた。
  • 2000万個以上の対人地雷がソ連軍によってばらまかれた。これらの対人地雷のいくつかは子供に拾わせるためにペンや人形やきらきら光るアクセサリーの形をしており、”お人形さん爆弾”として知られていた。
  • ソ連軍の戦闘教義はもともと山岳戦を想定していなかったため、戦闘では苦戦を強いられることが多かった。ヘリコプターで機動する治安作戦、掃討作戦がアフガニスタン全土で多く実施されたが、目覚しい戦果はあがらなかった。

[編集] 経過

どの出来事を戦争の始まりと考えるかによってさまざまな日付が戦争の開始日として挙げられている。

アフガニスタンでは、1978年4月27日共産主義政党アフガニスタン人民民主党(PDDA)による革命が起こり、首都カブールにおける政権を確立して国号をアフガニスタン民主共和国(DRA)に改めた。しかし、民主共和国に対して国内の保守派・イスラム派・反共産主義派勢力が続々と蜂起し、民主共和国政権は全土のほとんどの支配力を失う。

これに対してソ連は1979年10月に軍隊の動員を開始し、12月に政府に対する攻撃を援護するため、戦闘部隊の空輸という決定的な出来事が起きた。年表でアフガニスタン侵攻全期間に起きた重要な出来事の一覧を表示する。

[編集] 年表

カブールのソ連軍総司令部(1987年)
カブールのソ連軍総司令部(1987年)
1978年
1979年

1979年の戦死者:86人

  • 2月15日 - アメリカ大使アドルフ・ダッブスが暴徒により誘拐され、アミーン首相によって救出が試みられている間に殺害された。アメリカは彼の死を導くことになった銃撃戦を引き起こしたとしてソビエト連邦を非難した。
  • 3月 - ソビエト連邦がアフガニスタンに対する強力な軍事的支援を開始。その一つとして500人の軍事顧問が援助のために到着した。彼らが家族を伴ってきたことは長期にわたり関与することを意味した。
  • 3月10日 - ヘラートアフガニスタン人部隊が暴動を起こし、350人のソビエト市民が殺された。3月20日までに暴動は鎮圧されたが、これにより多くの人命が失われた。
  • 3月 - ソビエトの顧問団はアフガニスタン政府の技術者からバグラム空軍基地の運営を引継ぎ始めた。外交上の公文書や機関紙プラウダの記事ではアフガニスタンを“社会主義国家群の一員”と呼び始めた。ソビエト連邦は今やアフガニスタンをブレジネフ・ドクトリンに属するものと見なしているということを示唆するものとして理解された。
  • 8月 - ソビエト陸軍の司令官イヴァン・パブロスキー将軍が50人以上の将校を伴ってアフガニスタンに到着。
  • 9月1日 - タラキー議長がキューバハバナで開かれた非同盟諸国の会議に出席。
  • 9月11日 - タラキーがカーブルに帰国。
  • 9月12日 - アミーンの圧力により、タラキーが「健康上の理由」により政府と党の一切の職務を辞職。
  • 9月14日 - 大統領宮殿においてアミーン暗殺未遂。タラキーによって命令されたものだとみられる。
  • 9月16日 - アミーン首相が、政府と党におけるタラキーの職を継承。
  • 9月18日 - タラキー寄りの政府の役人や軍の将校の一部の集団が抵抗したが、アミンに忠実な他の者たちによって殺された。タラキーはこの戦闘の最中に殺されたと推測される。
  • 10月 - パブロスキー将軍と参謀たちはアフガニスタンを離れた。ソビエト連邦は南の複数のソビエト社会主義共和国でカテゴリー2の師団の動員を開始した。
  • 10月10日 - カブール・タイムズが、タラキーが病気のために死亡したことを報じた。他の新聞の報道は、銃撃戦の最中に絞殺または処刑によって死亡したのではないかと示唆したが、それを証明できる者はいなかった。
  • 11月7日 - ロシア革命記念日を祝うカブール・タイムズ誌は、”偉大な10月革命の継続”におけるアフガニスタンの役割についての記事を書いた。この報告を見た多くの人は、人民民主党がアフガニスタンに関するブレジネフ・ドクトリンを受け入れたと見なした。
  • 11月28日 - ソビエト連邦の内務大臣の代理として、ヴィクトール・パプチン中将が”相互協力と利害関係上の問題点”に関する会合に出席するためにカーブルに到着した。中将は侵攻の調整役を引き受けるKGBのトップであったと推測される。
  • 12月 - タシュケントを拠点とする重武装したソ連の空挺大隊のいくつかがバグラム空軍基地に配置された。
  • 12月17日 - アフガニスタンの情報機関の長であるアサドゥッラー・アミーン(アミーンの甥か)暗殺未遂。重傷を負ったアサドゥッラーは、タシュケントで治療を受けるために国を離れた。
  • 12月18日 - バグラムに配置された空挺部隊はサラン峠を見張るために移動した。これはタシュケントを本拠地とする第357自動車化狙撃師団が国境を越えてやってくるのを支援するためのものであった。
  • 12月21日 - 増強されたソビエト空挺連隊がバグラムに空輸された。
  • 12月22日 - アフガニスタンに駐留するソビエト軍の顧問団はアフガニスタン人の部隊に戦車や他の重要な装備についてのメンテナンスのサイクルを経験させるように勧めた。カーブルの外側に通じる遠距離通信網は首都を孤立させるために切断された。アミーンは大統領府を侵攻があった場合により守りやすい場所にあるダールルアマーン宮殿に移した。
  • 12月24日 - ソビエト連邦の3個師団規模の部隊がカーブルとその周辺地域の飛行場をすべて制圧した。スペツナズ特殊部隊がカーブルの通信網の支配権を掌握し、都市内のすべての通信を統制した。
  • 12月26日 - さらなるソビエト連邦の連隊や師団規模の部隊がアフガニスタン国境に向かって南下を始めた。
  • 12月27日 - ソビエトの内務顧問たちはアフガニスタン政府の役人たちのためのパーティーをインターコンチネンタルホテルで開いたが、そこに来た役人たちは全員逮捕された。ソビエトの軍事顧問たちはアフガニスタン人の軍事顧問たちのためのパーティーを開いたが、そこに来たアフガニスタン人の軍事顧問たちは全員投獄された。ソビエト連邦の3個大隊がアミーンのいる宮殿を攻撃し、アミーンを殺害した。
  • 12月28日 - さらにソ連の3つの自動車化狙撃師団がソビエト連邦南部の4つの予備師団に支援されてアフガニスタン国境を越えた。
  • 12月29日 - タラキーらのハルク派と別路線であったために東欧で亡命生活を送っていた人民民主党パルチャム派のリーダーであるバーブラーク・カールマルが、アフガニスタン民主共和国の大統領、首相、人民民主党の書記長に就任した。この日までに5万人以上のソビエト軍がアフガニスタンを占領した。
1980年

1980年の戦死者:1,484人

  • 1月 - ソ連第40軍、アフガンの重要都市を占領。
  • 2月20日 - カーブルで大規模な反政府行動が発生。ソ連指導部は、当初の計画になかった反乱鎮圧へのソ連軍の投入に同意。
  • 2月 - 1979年夏に反乱軍に寝返っていたアフガン山岳歩兵連隊を攻撃するために、クナル作戦開始。軍事的には成功したが、同地に権力を確立することはできなかった。
  • - 第1次パンジシール作戦。
  • - 第2次パンジシール作戦。
  • 11月 - カーブルの隣接州で、ウダール (Удар 打撃) 作戦開始。
1981年

1981年の戦死者:1,298人

  • 1月 - アフガニスタンで全国民皆兵法成立。20歳以上の国民は兵役義務を負った。
  • 4月 - 第3次パンジシール作戦。
  • 6月18日 - トラボラ峡谷でムジャーヒディーンの大規模な基地が発見され、ソ連軍第66自動車化狙撃旅団とアフガン軍第11師団が攻撃開始。大量の武器と弾薬が鹵獲されたが、ムジャーヒディーン部隊は逃走に成功。
1982年

1982年の戦死者:1,948人

  • 4月 - ニームルーズ州で作戦。
  • 5月18日 - 第5次パンジシール作戦開始。約1万2千人が投入され、今回の作戦で初めて大規模なヘリ強襲(3日間で3千人が降着)が行われた。マスードの捕捉に失敗。
  • 8月 - 第6次パンジシール作戦。
  • 12月 - パンジシール渓谷に支配を確立できなかったため、アフガン政府軍は渓谷から撤退。
1983年

1983年の戦死者:1,446人

1983年、戦闘行動はアフガン全土に拡大。

1984年

1984年の戦死者:2,343人

  • 1月 - スティンガーを装備するムジャーヒディーンにより孤立させられたウルグンに対して、ウルグン作戦開始。
  • 4月21日 - 第7次パンジシール作戦開始。ソ連軍1万1千人、アフガン軍2,600人、航空機200機、ヘリ190機を投入。マスードの捕捉に失敗。
  • 8月31日 - ムジャーヒディーン、カブール空港を襲撃。

1984年からカーブル市内でも、ムジャーヒディーンのテロ攻撃が頻発するようになった。

1985年

1985年の戦死者:1,868人

1985年中、第8次、第9次パンジシール作戦が行われたが、マスードを捕らえることに失敗。

1986年

1986年の戦死者:1,333人

1987年

1987年の戦死者:1,215人

  • 11月23日 - ムジャーヒディーンの暫定政権が誕生する危険性があったホースト地区に対して、マギストラリ (Магистраль 幹線)作戦開始。第108、第201自動車化狙撃師団、第103空挺師団、第56独立空挺旅団、第345独立空挺連隊、アフガン軍5個歩兵師団、1個戦車旅団を投入。12月30日にホーストに進出。
1988年

1988年の戦死者:759人

  • 4月15日 - アフガニスタン、パキスタン、ソ連、アメリカの4カ国が、「アフガニスタンに関係する事態の調停のための相互関係に関する協定」に署名(5月15日発効)。ソ連軍の半数が1988年8月15日までに撤退し、それより9ヶ月以内に全部隊の撤退が完了することが決定される。
1989年

1989年の戦死者:53人

[編集] 影響

兵士のモニュメント(ウクライナ、キエフ)
兵士のモニュメント(ウクライナキエフ

ソ連軍はゲリラに対して決定的な勝利を得られないまま1989年に全面撤収するが、ソ連による戦術の結末は次のようなものであった。

[編集] ソ連

  • ソビエト連邦側では1万5千人が死亡し、7万5千人が負傷した。
  • ロシア人の費用は1986年のドルで計算して一年におよそ200億ドルかかっており、ソ連の財政を圧迫した。
  • ソ連は占領経費の増大によって冷戦の継続が不可能となり、ペレストロイカによって路線を大幅に転換する。
  • 冷戦終結と改革開放によって、アフガン撤退からわずか3年足らずでソ連崩壊に至る。
  • アフガニスタンから帰還した兵士たちが、麻薬依存症に陥って社会復帰ができないことが社会問題化した。

[編集] アフガン

  • 戦闘員(ムジャーヒディーンや政府関係者)はおよそ9万人が死亡し、9万人が負傷した。市民の死傷者を含めると、総人口の10%、男性人口の13.5%が死亡し、全体では150万人が死亡したと推定されている。
  • およそ600万人の難民が周辺諸国に追いやられた。
  • アフガニスタンは国の価値の約1/3から1/2にあたるおよそ500億ドルの損害を被った。
  • 1万5千ある村落のうち、5千の村落は徹底的に破壊されるか、または農地や井戸や道路といった経済的な基盤をすべて破壊されることで経済的に立ち行かなくなった。
  • 農業生産量は50%にまで減少し、家畜の50%が失われた。
  • 舗装された道路の70%は破壊された。
  • 大量の兵器が放棄され、後の内戦に使われて大きな被害をもたらした。
  • 傭兵の高部正樹も参加していた。
  • 空手家の田中光四郎氏も参加していた。

[編集] ソ連撤退後の戦闘

ジャララバードの戦い

ソ連軍の撤退後の1989年3月~7月、ムジャーヒディーン各派はジャラーラーバードに総攻撃を行った。連日の猛攻にもかかわらずムジャーヒディーン側は敗北し1万人が戦死したといわれる。敗因はムジャーヒディーン各派の間で意思の疎通がとれておらず、統一した指揮系統ができていなかったことがあげられる。これに対しソ連流の訓練を受けた政府軍は善戦しムジャーヒディーン側を敗退させた。またソ連も空輸により政府軍を支援した。政権交代は時期尚早と考えた米国CIAパキスタン軍情報部がムジャーヒディーン側が勝利することがないよう内部工作を行っていたという説もある。この戦闘には後に米国同時多発テロに関与していたと思われるオサマ・ビンラディンも参加していた。この政府軍の勝利により共産政権は1992年まで延命することになる(アフガニスタン内戦も参照)。

[編集] 関連項目

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