ウォルター・クロンカイト
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ウォルター・クロンカイト(Walter Cronkite、1916年11月4日 - )は、アメリカのジャーナリスト。アンカーマン。そのリベラルかつ愛国的な姿勢から、「アメリカの良心」と呼ばれた。
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[編集] プロフィール
[編集] ジャーナリズムの世界へ
中西部のミズーリ州で生まれ、テキサス州で育ったクロンカイトは、テキサス大学を卒業後に地方紙の記者としてジャーナリズムの世界に入る。その後オクラホマ州の地方ラジオ局の報道レポーターなどを経て、1937年にアメリカを代表する通信社の一つであるUP通信に入社する。
[編集] 従軍記者
1939年9月に勃発し、1941年12月の日本による真珠湾攻撃を機にアメリカも参戦した第二次世界大戦には、従軍記者としてフランスやドイツなどのヨーロッパ戦線を中心に取材し、終戦後にはナチス・ドイツ高官に対する戦争裁判であるニュルンベルク裁判も取材した。また、冷戦が始まりつつあった1947年からは、第二次世界大戦の連合国の友邦の一つであったソビエト連邦の首都、モスクワに特派員として駐在した。
[編集] CBS Evening News
1950年に、その後アメリカ3大テレビネットワークの一つとなるCBSに入社し、黎明期のテレビジャーナリズム界での活躍を開始した。1952年にはイギリスのエリザベス2世女王の戴冠式の中継を行った他、1963年9月2日から1981年3月6日にかけて、同社の看板番組であり、アメリカのテレビジャーナリズムの象徴とも言われたニュース番組である「CBS Evening News」のアンカーマンを務め、一躍アメリカを代表するジャーナリストのひとりとなった。エンディングの「―では、今日はこんなところです。」は名セリフとして知られる(筑紫哲也がこれに倣い、同じ言い回しを使っている。これに対し降板後を継いだダン・ラザーは「That's the part of world tonight.(今夜世界では、こんな事もありました)」という言い回しを使った)。
[編集] ケネディ暗殺
1963年11月21日に、テキサス州ダラスで遊説中に暗殺されたジョン・F・ケネディ大統領の暗殺を伝える速報番組の中で、悲しみの涙で言葉に詰まりながらも速報を伝えるクロンカイトの姿がアメリカ中に流された。以後、この時のクロンカイトの姿が、ケネディ大統領暗殺の悲劇に対するアメリカ人の感情を象徴するものとして引用されるようになった。
[編集] ベトナム戦争
ケネディ政権時代の1960年代前半よりアメリカが本格介入したベトナム戦争に対して、当初は客観的な立場からの報道を続けていたものの、南ベトナム解放民族戦線による南ベトナムへの攻撃「テト攻勢」が行われた直後の1968年2月に、「私はベトナム戦争に反対である。アメリカ軍に名誉ある撤退を求める」と発言し、アメリカの世論に大きな衝撃を与えた。この発言に対し、当時のリンドン・ジョンソン政権の補佐官は、「クロンカイト(の支持)を失うということは、アメリカそのものを失うということ(If we've lost Cronkite, we've lost America)」と嘆いたという。実際、その後保守派の多くもベトナム戦争の継続に懐疑的になり、その結果ジョンソン大統領は2期目の大統領選への出馬を取りやめた。
[編集] 「きよしこの夜」
同じ頃、ベトナム反戦派のミュージシャンであるサイモン&ガーファンクルの楽曲「きよしこの夜」で、クリスマスを祝うサイモン&ガーファンクルの歌声の背後に、当時全米で起きた悲惨な出来事のニュースを読み上げるニュースキャスターの声が流れているが、これはクロンカイトの声である。またニュースの内容は音声コラージュではなく、録音前の2~3ヶ月間に起きた悲惨なニュースをポール・サイモンが集めて原稿にし、クロンカイトに依頼して朗読してもらったものであった。
[編集] 引退
1980年2月14日に同番組からの降板を発表し、翌1981年の3月6日に降板した。その後同番組のアンカーマンはダン・ラザーに引き継がれたが、CBSやCNNなどの特派員や執筆活動を通じて、ジャーナリストとしての活動を継続している。また、ジャーナリスト養成学校で教鞭を取り、後進の育成にあたっている。