エドガートン・ハーバート・ノーマン
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エドガートン・ハーバート・ノーマン (Edgerton Herbert Norman、1909年9月1日-1957年4月4日)は、カナダの外交官。歴史家で日本史研究家。
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[編集] 略歴
[編集] 日本生まれ
1909年に、在日カナダ人宣教師のダニエル・ノーマンの子として長野県の軽井沢で生まれる。その後カナダのトロントに移り、トロント大学ビクトリア・カレッジに入学。この頃より社会主義への傾倒を始める。
その後、1933年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学。歴史学を研究し1935年に卒業。その後ハーバード大学に入学し、日本史を研究しつつ学友で「社会主義者」を自称した都留重人などと親交を結ぶが、後にこのことが命取りとなる。
[編集] 外交官
1939年に同大学を卒業しカナダ外務省に入省、1940年には東京の公使館へ語学官として赴任。公務の傍ら、東京帝国大学の明治新聞雑誌文庫を頻繁に訪ね、近代日本史の研究を深めるとともに、羽仁五郎に師事して明治維新史を学ぶ。また、丸山真男らとも親交を深めるなど、充実した日々を送っていた。しかし1941年12月に日本とカナダ間で開戦した為に日本政府によって軟禁状態に置かれ、翌年交換船で帰国する。
第二次世界大戦後、アメリカからの要請によりカナダ外務省からGHQに出向し、連合国軍占領下の日本の民主化に携わるかたわら、学者としても、安藤昌益の思想の再評価につとめ、渡辺一夫、中野好夫、桑原武夫、加藤周一らと親密に交流した。1946年8月には駐日カナダ代表部主席に就任する。その後1951年9月にはサンフランシスコ対日講和会議のカナダ代表主席随員を務め、その後カナダ外務省本省に戻る。
[編集] 赤狩り
その後、第二次世界大戦後の冷戦下のアメリカで起きた赤狩り旋風の中で、共産主義者の疑いをかけられ、アメリカの圧力を受けたカナダ政府による審問を数回に渡って受ける。その様なアメリカからの圧力から逃れさせるべく、1953年には駐ニュージーランド高等弁務官に任命され、その後1956年には駐エジプト大使兼レバノン公使に栄転する。
[編集] 自殺
同年に起きたスエズ動乱勃発では、現地の平和維持と監視のための国際緊急軍導入に功績を残し高い評価を得たものの、都留重人を取り調べたFBI調査官によるアメリカ上院における証言によって共産主義者との疑いを再度かけられ、1957年4月4日にカイロで飛び降り自殺を遂げる。
最近では冷戦崩壊後におけるベノナなどの機密解除や、当時の関係者の記録などからソ連とつながりがあったという疑いが濃厚となっているが、カナダ政府はノーマンに関する機密情報を現在も公開していない。なお、カナダ外務省は2001年5月29日に、ノーマンの功績を称えて、東京都港区赤坂にある在日カナダ大使館の図書館を、「E・H・ノーマン図書館」と命名した。
[編集] 著書
- 日本における近代国家の成立
- クリオの顔
- 忘れられた思想家-安藤昌益のこと-
[編集] 参考文献
- 鳥居民 「近衛文麿「黙」して死す ― すりかえられた戦争責任」 2007年 草思社