オランダの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オランダの歴史は北ヨーロッパのネーデルラント(オランダ)王国の域内で展開した歴史である。オランダは日本語での特殊な用語であるので、以下の本文では主にネーデルラントの語を用いることにする。
目次 |
[編集] 前史
古代のネーデルラント(低地地方)はライン川下流以南がローマ帝国領、以北はフランク人やフリジア(フリースラント)人などが住むゲルマン系諸族の土地であった。やがてフランク人がローマ領内に浸透してフランク王国を樹立、ネーデルラントはフランク王国の一部となった。この頃にキリスト教化が進展した。9世紀ヴァイキングの襲撃でカロリング朝が解体するなかで、ホーラント伯、ゼーラント伯、エノー伯、ヘルデルラント伯などが自立し、やがて神聖ローマ帝国の宗主権下に入った。15世紀になるとブルゴーニュ公フィリップ善良公がこれらの伯領を手に入れ、ネーデルラント一帯はブルゴーニュ公国の一部となる。この頃のネーデルラントは毛織物生産により経済的先進地となり、ヘント(ガン)、アントウェルペン(アントワープ)などの富裕な都市を生みだしている。しかし1477年シャルル大胆公が急に戦死すると、一人娘のマリーはオーストリア大公マクシミリアンと結婚し、ネーデルラント地域はハプスブルク家の所領となった。
神聖ローマ皇帝カール5世はネーデルラント17州すべての主権者として専制政治を行い、カール5世退位後にハプスブルク領がオーストリア・ハプスブルク家とスペイン・ハプスブルク家に分割されると、ネーデルラントはスペインの支配下に入った。当時、ネーデルラントではプロテスタントのカルヴァン派などが広まっていたが、カトリックのスペイン王フェリペ2世は厳しい異端審問を実施してプロテスタントを弾圧した。このためネーデルラント諸州は1568年有力貴族オラニエ公ウィレム(ヴィレム1世)を先頭にスペインに対する大反乱を起こした。オランダ独立戦争(八十年戦争)の開始である。南部ネーデルラントはスペインの軍門に屈したが、北部7州は1579年にユトレヒト同盟を結成して結束を固めた。この同盟が基礎となってネーデルラント連邦共和国が成立する。
[編集] ネーデルラント連邦共和国
共和国が成立してもスペインとの戦争は終わらなかった。ネーデルラント諸州は1602年、連合東インド会社(オランダ東インド会社)を設立してアジアに進出し、ポルトガルから香料貿易を奪取して、世界の海に覇権を称えた。このため貿易の富がアムステルダムに流入して、17世紀の共和国は黄金時代を迎えることとなる(オランダ海上帝国)。1609年にはスペインとの12年停戦協定が結ばれ、1621年に停戦が終わると、独立戦争はヨーロッパ全体を巻き込んだ三十年戦争にもつれ込んだ。1648年、三十年戦争を終結させたウェストファリア条約の一部であるミュンスター条約でスペインはネーデルラント連邦共和国の独立を正式に承認し、80年にわたる独立戦争は終結した。
オランダ東インド会社は、アジアだけでなく南北アメリカにも植民地を築いた。しかし各地の植民地でイギリス東インド会社と衝突し、ついには3次にわたる英蘭戦争となり、次第にイギリスより劣勢に立つことになった。
1672年、イングランドがオランダに宣戦布告し(第三次英蘭戦争)、つづいてフランス王国も宣戦を布告した(オランダ戦争)。この国家的危機のため、1672年は「災厄の年」と呼ばれる。オラニエ派と共和派の対立も深まり、ついには1653年以来共和制の指導者であったヨハン・デ・ウィット兄弟が倒され、ウィレム3世がオランダ統領(総督)職に就いた。
1688年、イングランドで名誉革命が起こると、ウィレム3世は妻メアリー2世とともにイギリスの共同統治者(ウィリアム3世)となり、イギリスとネーデルラントは1702年までの20年余、ともに同じ元首を頂くことになった。18世紀始めに勃発したスペイン継承戦争ではネーデルラントはフランス・スペインを相手にイギリスとともに戦った。しかし18世紀末葉になるとフランスの啓蒙思想が共和国にも流入し、統領職を代々世襲するオラニエ=ナッサウ家に対する反感が高まった。
[編集] フランスの支配
フランス革命が起こると、フランス革命軍は1793年にネーデルラント一帯を占領し、地元の革命派にバタヴィア共和国を樹立させたが、ナポレオンが皇帝に即位すると、1806年に弟ルイ・ボナパルトを国王とするホラント王国に移行した。しかしルイはネーデルラント人の利益を優先してナポレオンの命令を聞かなかったので、ナポレオンは1810年に王国を廃止してフランス帝国の直轄領とし、総督ルブランがアムステルダムに駐在した。この混乱のなかで東インド会社は解散し、東インド植民地(インドネシア)はフランスと敵対するイギリスが一時占領(1811年~1816年)した。この影響は遠く離れた日本の出島まで及び、オランダ国旗を掲げ(この時期、オランダ国旗を掲げている場所は、世界中で長崎の出島とアフリカ西海岸のエルミナ要塞しかなかった)オランダ船を装ったイギリス船フェートン号による侵犯事件も起こった(フェートン号事件)。
[編集] ネーデルラント王国
1813年ナポレオン帝国が崩壊すると、イギリスに亡命していたオラニエ=ナッサウ家の一族が帰国し、ウィレム1世が即位して南部ネーデルラント(ベルギーなど)を含むネーデルラント連合王国を樹立した。これが現在まで続くネーデルラント王国(オランダ王国)の始まりである。しかしベルギーは1830年に分離独立した。1890年ウィレム3世が死去すると、王位を継承したウィルヘルミナ女王が幼少のため母后エンマが摂政となった。ウィルヘルミナ女王は1898年に18歳で親政を開始し、女王の統治時代は50年にわたって続くことになる。
第一次世界大戦ではネーデルラント王国は中立を維持したが、第二次世界大戦では中立宣言にもかかわらずナチス・ドイツに占領された。このためウィルヘルミナ女王の政府はイギリスに亡命している。また1941年に太平洋戦争が勃発すると、東インド植民地(インドネシア)は日本軍に占領され、軍人だけでなく在留民間人も収容所に入れられた。1945年の日本降伏後、オランダ軍はこれらの日本軍人をBC級戦犯として逮捕、拷問・処刑を行った(連合国中で最も多い226人の日本人を処刑、数千人を無期・有期刑で服役させた)。中には無実の人も含まれてあり、オランダの単なる報復行為の側面もあった。
日本降伏後、スカルノら現地の独立派は独立を宣言し、オランダはインドネシアの独立を認めることなく再征服を目指したことによりインドネシア独立戦争(1945年~1949年)が発生したが、結局インドネシアの独立を承認せざるを得なくなった。本国では1948年にウィルヘルミナ女王が退位してユリアナ女王が即位し、1980年にはユリアナ女王の譲位を受けて現ベアトリクス女王が即位している。
[編集] 外部リンク
- A Coincise History of the Netherlands(オランダ外務省、英語)
- オランダ史資料館