グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)
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グスタフ・アドルフ(Gustav II Adolf, 1594年12月9日 - 1632年11月6日)はヴァーサ朝第6代、スウェーデン最盛期の国王(在位1611年 - 1632年)。通称「北方の獅子」(獅子王)。三十年戦争の主要メンバーの一人。スウェーデン王カール9世の息子。娘は後のスウェーデン女王クリスティーナ。彼の時代から、およそ1世紀間を、「バルト帝国時代」と呼称されている。
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[編集] 即位まで
グスタフは幼時から、新教主義を基調とした恵まれた教育を受けて育った。語学にも長け、ラテン語・ドイツ語・オランダ語・フランス語・イタリア語を自国語の如く話し、そのほかにもスペイン語・英語・スコットランド語・ポーランド語・ロシア語を理解したという。
グスタフは早くも9歳で公務に就き、15歳の時、病気の父に代わって議会(身分制議会)で堂々たる演説をした。王太子の時にロシア帝国の内戦(大動乱)に介入。ロシア皇帝位放棄の代償にカレリアなどを獲得した(1618年、ストルボバの和約)。スウェーデンの大国時代は、このあたりから取られることも多い。
[編集] グスタフのバルト海制覇
1611年、父の死により17歳で即位したが、そのときスウェーデンは、バルト海の制海権をめぐってロシア帝国・ポーランド・デンマークと交戦中であった。デンマークには苦戦を強いられたが、ロシアをバルト海から締め出すことに成功し、ようやく戴冠式を挙行した(1617年)。その後、ドイツの有力貴族であるブランデンブルク侯の娘と結婚した。これはドイツ進出を狙った政略結婚であったため、妻は情緒不安定で、グスタフの悩みの種となった。
グスタフは次に、ポーランドとの戦争に全力を挙げ、スウェーデンを同盟者としたがっていたフランス王国の調停もあって、スウェーデンに有利な休戦条約を成立させた。ポーランドからリーフランド・メーメル・ダンツィヒ平原を獲得したので、スウェーデンのバルト海制覇がほぼ実現した。
[編集] 三十年戦争への介入と戦死
彼の次の戦略は、ドイツで起こった新旧諸侯間の三十年戦争で、新教諸侯を支援することであった。神聖ローマ皇帝を中心とするカトリック勢力を弱めることによって、北ドイツのスウェーデン領を安定させようとしたのである。グスタフは1630年ドイツに侵入し、オーデル川中・下流域を占領した。
次の目標は、皇帝軍に占拠されていた新教都市マグデブルグの救援であった。しかし、新教侯国のザクセンとブランデンブルクが、スウェーデンの強大化に不安を持ち、グスタフ軍の領内通過を拒否したため、マグデブルグは皇帝軍の手に落ち、徹底的に略奪された(マクデブルクの強奪)。同市の運命は新教諸侯を驚かし、ブランデンブルクとザクセンはスウェーデンと同盟し、同年9月、ブライテンフェルトの戦いで皇帝軍を打ち破った。この戦いは三十年戦争の転換点となった。グスタフ軍は、この後もレヒ川の戦いなどで皇帝軍を追い詰めて行った。
皇帝はいったん罷免した名将ヴァレンシュタインを呼び戻し、大軍を動員してグスタフ軍の応戦に当たらせた。両軍は1632年、リュッツェンで激突した(リュッツェンの戦い)。戦闘は当初、スウェーデン軍が優勢であったが、強度の近視だったグスタフは霧の中で味方の軍からはぐれてしまい、戦闘には勝利しながらも殺害された。王を失ったスウェーデン軍は、多くの軍団に分かれて転戦し、武装集団として各地で略奪を働いたため(この点は皇帝軍も同様だったが)、ドイツは荒廃の極みに達した。しかし王の築いたスウェーデン軍は、ホルン、トルステンソン、バネール、ウランゲルら優れた将軍を輩出し、三十年戦争を乗り切って行くのである。
[編集] グスタフの評価とその後のスウェーデン
グスタフは対外戦争を続ける一方で、国内の司法・行政制度を整え、商工業を奨励し、教育の振興にも努めた。大製鉄所が建設され、武器工場も近代化されたため、武器を外国に輸出するまでになった。
彼は国内に絶対王政を確立し、スウェーデンを強国にした英王であったが、国家としても王個人としてもその絶頂期に、突如この世を去ったのである。グスタフの死後、スウェーデンは一時の勢力を消失し、三十年戦争における主導権を失った。この事が、グスタフの存在がスウェーデン、ヨーロッパに与えたインパクトが強かったかを証明しているとも言える。国内においても様々な近代的な改革を断行した事から名君と呼んでも差支えがないだろう。また、軍事においても彼は、革命者であった。オランダの軍事革命を取り入れ、スウェーデンの軍事を前王とは一変させたのである。この結果は、三十年戦争で本領を発揮し、戦争そのものに革命を起こしたのである。これらの改革によって、グスタフ・アドルフの時代、スウェーデンは一気に強国へと躍り出たのである。
そして、グスタフの重臣で宰相でもあったオクセンシェルナが幼くして王となった娘のクリスティーナの摂政となり、スウェーデンの国政を握り、フランスを同盟に引き入れ戦争に直接介入させるなど、最終的に三十年戦争を勝利に導くのである。こうしてグスタフの築き上げた国家は、北方の覇権を確立し、バルト帝国が誕生したのである。後年、フランス皇帝ナポレオン1世は、グスタフ・アドルフを七人の英雄の内の一人と称えた。
[編集] グスタフのゴート主義
グスタフ・アドルフが三十年戦争に介入した理由として挙げられているのが、「古ゴート主義」である。一般的には、ドイツのプロテスタント守護の為の侵攻と言われているが、グスタフの理想は、はるかにそれを上回るものであった。グスタフが着目したのは、前世紀から提唱された「ゴート起源説」である。スウェーデン・ヴァーサ家は、ゲルマン民族の大移動でヨーロッパを席巻したゴート人の末裔であると言う伝承である。ゴート人は、ヨーロッパ、アジア、アフリカの三大陸を支配したと言う。この伝承は、スウェーデンでは古来より伝えられ、スウェーデンの建国神話と結びついている。グスタフもこの説を信奉し、自らもそれに倣い、ヨーロッパの支配を目論むのである。最終的には、神聖ローマ帝国の帝冠も視野に入れていたと言われている。これはスウェーデン普遍主義と呼ばれ、ハプスブルク家が目論む普遍主義に対抗するものであった。
グスタフは、1632年に戦死し、宰相オクセンシェルナがその政策を引き継いだ。オクセンシェルナは、グスタフの娘クリスティーナ女王にスウェーデン普遍主義の理想を重ね合わせたが、しかし女王は、その理想よりもキリスト教徒の和解と統一の理想を掲げ、古ゴート主義は、三十年戦争終結と共に終焉した。
グスタフは、スウェーデン普遍主義に則り、「スヴェーア人、ゴート人、ヴァンダル人の王」(Suecorm, Gothorum, et Vandalorum regen)を自称し、さらにフィンランド大公を兼任した。なおこの称号は、娘のクリスティーナ女王にも引き継がれた。
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