グレナダ侵攻
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グレナダ侵攻(グレナダしんこう)とは、1983年10月25日、カリブ海に浮かぶ小さな島国グレナダでクーデターが起きた際、アメリカ軍およびカリブ海諸国軍が侵攻した事件である。
[編集] 概要
イギリスの植民地であったグレナダは1975年に独立した。当時、首相だったエリック・ゲーリーとその一族は組織化したギャングによる敵対派への厳しい対応で知られており、外国資本と癒着し独裁を強め失業と貧困が広がり深刻化していった。
これに対し福祉や教育や自由の共同努力を掲げる「ニュー・ジュエル運動」を中心としたクーデターが1979年に起こり、これによりゲーリー政権は軍・秘密警察と共に崩壊した。そして、新たにモーリス・ビショップが首相に就任し、ビショップ首相は人民革命政府を樹立した。ビショップ首相らの人民革命政府は商工会議所など国内各所層の幅広い支持を受け医療や教育や観光事業の近代化に着手していった。非同盟・中立を掲げアメリカが経済封鎖をしているキューバとも友好を築き、キューバとの関係が強化していった。しかし、アメリカはこうしたビショップ政権を敵視していた。1981年に就任したレーガン米大統領は「強いアメリカ」を自負し、就任直後からグレナダ侵攻を想定した軍事演習をプエルトリコのビエケス島で行うなど圧迫を強めていった。
1983年10月に政権内でクーデターが起こり、ビショップ首相らが処刑され、革命軍事評議会が設立されるとアメリカはこの混乱に乗じ、ソ連・キューバによるグレナダへの共産主義の影響を止めるため、武力介入を決断した。在グレナダアメリカ人の安全確保を理由にし、セントクリストファー・ネイビス、アンティグア・バーブーダ、ドミニカ国、セントルシア、セントビンセント・グレナディーン諸島、バルバドスといったグレナダ侵攻を支持したグレナダ付近のカリブ海6カ国にも共同出兵している。グレナダにレンジャー部隊、特殊部隊、海兵隊など6,000人以上の部隊を送り戦闘の末に政府を打倒した。この作戦は『アージェント・フュリー(Urgent Fury 押さえきれぬ怒り)作戦 』と命名された。
アメリカ軍にとって本格的な武力侵攻はベトナム戦争以来であったが、この侵攻作戦の成功によって自信を回復した。しかし翌年にレバノン内戦の介入に失敗し、在任中に大規模な軍事的な活動は行えなかった。
[編集] その他
- 映画『ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場』(クリント・イーストウッド監督、主演)で触れられている。
[編集] 関連項目
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