ジュゼッペ・ガリバルディ
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ジュセッペ・ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi、1807年7月4日 - 1882年6月2日)はイタリア王国統一に貢献した軍事家。イタリア統一運動(リソルジメント)を推進。イタリア統一を進めるため、多くの軍事行動を個人的に率いた。ヨーロッパと南米での功績から“2つの世界の王”とも呼ばれる。カヴール、マッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」の1人。
1860年千人隊を組織してシチリアの反乱を援助し、両シチリア王国を滅ぼした。その後、征服地をサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上してイタリア統一に大きく貢献した。その後は政治家となることなく余生をカプレーラ島で送った(余談であるが、無私の英雄として、幕末・明治日本でも尊崇された)。
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[編集] 若き日の活躍
彼は1807年、フランスのニース(当時第一帝政下のフランス領)に生まれる。彼の両親はそこで海上貿易に携わっており、彼も常に海の上で育った。1832年には商船隊のキャプテンとなる。
1833年4月、彼の船はロシアの海港タガンログに10日間ほど停泊した。荷を降ろしている間、ガリバルディは街のストリートを歩き、そこに住む人々を訪ね、そして港の小さな宿で夜を過ごした。そんな宿の1つで、彼はイタリアからの政治亡命犯で青年イタリアのメンバーである、ジョヴァンニ・バッティスタ・クーネオと出会う。これを機に、彼は青年イタリアに参加し、彼の人生をオーストリアの支配をうける祖国イタリアの自由のために戦うことを誓った。
1833年11月、ガリバルディは自由な共和国の建国を目指す運動家、ジュゼッペ・マッツィーニとジェノヴァで会見する。ここで青年イタリアへの参加を認められ、同時に秘密結社カルボナリにも加わった。1834年、彼はピエモンテの共和制を求める反乱に参加したが失敗。フランスに亡命し、その後チュニジアへ出発した。
1836年、彼は南米への航海をした。そこで彼はブラジルの羊飼いの娘、アニータと出会い、恋に落ちる。1842年に結婚。 その後リオデジャネイロ、ウルグアイの独立戦争に義勇兵として参加し、そこでゲリラ戦術のスキルを身につける。彼は用兵術に長けており、彼自身カリスマ性があったことから、部下の信頼を勝ち取り、彼もまた自信をつけていった。後の南米の革命児、チェ・ゲバラも彼の戦術を学んだといわれる。
[編集] イタリアへの帰還
ガリバルディは、1848年の一連の革命騒動を聞きつけてイタリアへと帰国した。革命はイタリアにも波及し、マッツィーニの指導によって「ローマ共和国」が成立した。ナポレオン3世はこれを倒すために軍を送り、これに対抗するため、ガリバルディはローマ防衛の責任者となった。テヴェレ川西岸、ヴァチカンの南、ジャニコロ丘の戦いで、寄せ集めのローマ軍3万でフランス軍を撃退した彼は一気に指揮官として名を上げた。しかし、この勝利の後もフランス軍の包囲は続き、1849年6月30日には街は陥落した。オーストリアの官憲に狙われ、北へ逃亡することを余儀なくされ、残る共和国ヴェネツィアへと向かった。退却の途中、彼の同朋は逃亡、戦死、あるいは敵に捕まり、ついにラヴェンナの近くで妻のアニータも戦死した。ちなみに彼女は「イタリアのアマゾネス」と呼ばれた女傑で、常にガリバルディと共に前線で戦った。
海外へ亡命したガリバルディは、1850年にはニューヨークの市民となり、メウッチが経営するスタテン島のろうそく工場で労働者として働いた。その後、船を手に入れジュゼッペ・パーネを名乗り何度か太平洋への航海に出、ペルーではアンデスの革命のヒロインで革命家シモン・ボリバルの恋人、マヌエラ・サエンス(Manuela Sáenz、1797年 - 1856年)とも会った。
1854年にはイタリアに帰国する。1856年にはマニンの国民党に加盟する。1859年、サルデーニャ政府の策略により、対オーストリア戦争(第二次イタリア独立戦争)が勃発。ガリバルディは少将に任命され、“アルプス猟兵隊”という義勇軍を組織した。義勇兵の働きもあって、彼はヴァレーゼ、コモ、その他の地でオーストリア軍に勝利した。しかし、この戦争の結末は彼を大変落胆させる結果となる。彼の故郷であるニースが、プロンビエールの密約に基づいて参戦の見返りとしてフランスに割譲されたからである。
[編集] 1860年の進軍
1860年初頭、両シチリア王国のメッシーナ、パレルモで起きた反乱はガリバルディに活躍の機会を与えた。彼は約1000人の義勇兵を集め千人隊(または、皆に赤いシャツを着せたことから「赤シャツ隊」と呼ばれる)を結成。2隻の船に分乗しジェノヴァを出発した彼らは、5月11日シチリア島の最西端、マルサラに上陸した。
各地の反乱軍を取り込んで軍の規模を拡大させながら、5月13日にはカラタフィーミで敵軍を撃退した。彼はそこで自分がシチリアの支配者であることを宣言した。27日には、島の首都・パレルモへと進軍し包囲攻撃を開始した。彼が駐屯軍に対して反抗していた住民の支持を取り付けたことは、この戦いを有利に進めることのできた1つの原因といえよう。しかし街が陥落するよりも前、援軍の到着により街はほぼ壊滅状態となった。そのとき、イギリス海軍提督が介入し、またナポリ王国の艦隊が町を包囲むことによって停戦への流れとなった。
ガリバルディはめざましい勝利と、世界的な名声、イタリア中の賛美とを一度に手に入れた。6週間後には島の東、メッシーナへと進軍。7月末には敵対勢力に残されたのは1つの砦のみとなった。
シチリア島での進軍を終え、彼らはナポリ艦隊の勢力下であるメッシーナ海峡を渡った。彼の進軍は地元のレジスタンスに歓迎され、9月7日にはナポリの首都へと入城することができた。しかし彼は、ナポリを支配するブルボン家の王、フランチェスコ2世の身柄は保証した。なぜなら、シチリア軍のほとんどは依然として王党派であり、シチリアからナポリにかけて各地で吸収したガリバルディの義勇軍も25000人に膨れ上がっていたため、彼らの意向を無視できなかったからである。10月1日~2日にかけて、ヴォルトゥルノでの主要な戦いが勃発したが、戦闘の大部分はヴィットーリオ・エマヌエーレ2世指揮下のサルデーニャ軍に任された。
ガリバルディはサルデーニャの首相カヴールに対し深い嫌悪感を抱いていた。彼はカヴールの実用主義的、現実主義的政策を信用しなかったし、ニースをフランスに割譲させた彼の外交政策に対して個人的な恨みすら抱いていた。しかし一方で、かれはサルデーニャによるイタリア統一に魅かれはじめていた。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世との有名な会談(「テアーノの握手」として有名、1860年10月26日)では、ガリバルディはエマヌエーレ2世に対し、イタリアの王として挨拶し、握手した。そしておもむろに全軍に対して「ここにイタリア国王がおられるのだ!」と叫んだ。彼は次の日には一言「陛下、あなたに従います」とだけ言葉を残し、軍の職を辞した。彼が占領した地域は全てエマヌエーレ2世に献上され、イタリア統一は大きな軍事的衝突を回避する形で成就した(余談ではあるが、ここでガリバルディがエマヌエーレ2世と敵対する道を選んでいれば、日本の戊辰戦争のような内乱に発展し、イタリア統一は大きく遅れていた可能性がある)。11月7日には、彼の働きに対するどんな見返りも断りつつ、カプレーラ島へと退いた。
[編集] ローマへの進軍
このようなガリバルディの革命事業は、決して満足のいくものではなかった。“アルプス山脈からアドリア海までの完全な自由”という彼のモットーからみればまだローマとヴェネツィアが未回収であった。マッツィーニとて新たな支配的な政府に不満であったから、新共和国に対する揺さぶりを続けた。ガリバルディも王の怠惰に不満があり、冷遇に苛立ってもいた。彼が教皇領の奪回を意図したのはこのときである。
教皇領の奪回は、世界中のカトリック教徒から不審の目で見られており、ナポレオン3世もフランス軍をローマに駐留させることによって、教皇領のイタリアからの独立を保証していた。1862年6月、ガリバルディはジェノヴァを出航し、教皇領奪回のための義勇兵を求めパレルモに上陸した。熱狂的にイタリアの完全統一を望む者たちはすぐに彼の義勇軍に加わり、イタリア本土に向かうべくメッシーナへと向かった。到着したときには、彼は2000の兵を率いていたが、駐留軍は王の指示を忠実に守って彼らの通過を禁止した。そのため彼らは南に転進し、カターニアから出航した。ガリバルディはここで「勝者としてローマに入場するか、あるいはその壁の前に倒れるかのどちらかだ」と宣言したという。8月14日にはメーリトに上陸し、一時カラブリアの山々を占領した(アスプロモンテの戦い)。
イタリア政府は、この行動を支援することはもとより、承認さえもしなかった。チャルディーニ将軍は義勇軍に対しパッラヴィチーノ大佐の師団を派遣し、両軍は8月28日に対峙した。王国軍の1人が発砲し、立て続けに一斉射撃が義勇軍を襲った。ガリバルディが義勇兵たちに反撃を禁止したことから戦闘はすぐに終結し、負傷したガリバルディを含む多くの義勇兵が捕虜となった。
政府の汽船で連行された彼は、名誉ある囚人として収監され、退屈と、傷を治すための手術を強要された。彼の軍事行動は失敗に終わった。しかし彼の人気は衰えることは無かった。傷が治り健康が回復すると、カプレーラ島に帰ることも許された。
[編集] 最後の戦い
1866年、ガリバルディはまたも立ち上がった。ただしこのときはイタリア政府の全面的な支援があった。普墺戦争が勃発し、オーストリアからヴェネツィアを奪回すべく、イタリアもプロイセンの同盟国として参戦したからである(第三次イタリア独立戦争)。ガリバルディは再び“アルプス猟兵隊”を招集する(このときは40000人もの大軍だった)。彼らを引き連れチロルへと進軍した彼らは、ベッツェッカにおいてオーストリア軍を撃破した。一方、イタリア王国正規軍は6月24日にクストーザの戦いに敗れるなど苦戦を強いられていたが、北部戦線におけるプロイセン軍の攻勢によって戦勝国となり、終戦後にはヴェネツィアを奪回することに成功した。
1870年、普仏戦争が勃発すると、仏軍はローマから撤退した。これに乗じたイタリア軍はガリバルディの支援無しにローマを中心とした教皇領の奪回に成功し、ここにイタリアの統一は完成する。この戦時中、フランス第二帝政は崩壊し、ガリバルディは新たに成立したフランス第三共和制の支援として、プロイセン軍に対する義勇兵を率いて戦った。
晩年はカプレーラ島にて過ごし、彼は臨終の際、ベッドをエメラルド色とサファイア色の海の見える場所へと移すように頼んだという。
[編集] その他
南北戦争勃発に際し、北軍から2度、司令官を勧められている。