ジョン・ハワード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョン・ウィンストン・ハワード(John Winston Howard, 1939年7月26日 - )はオーストラリアの政治家。第25代オーストラリア首相。彼はロバート・メンジーズに続いて二番目に長い任期を務める首相である。
彼は1995年1月に自由党の党首に就任した。2004年10月9日に行われた総選挙は彼に四度目の任期を与え、最近のオーストラリアにおける最も成功した政治家となった。
[編集] 生い立ち
ジョン・ハワードはシドニー郊外のアールウッドで生まれ育ち、アールウッド公立学校へ通った。彼はイギリスの政治家ウィンストン・チャーチルにちなんでウィンストン, Winstonのミドルネームを付けられた。父ライエル・ハワードと父方の祖父Walter Howardは両方とも第一次世界大戦でFirst AIF, First Australian Imperial Force(オーストラリア帝国軍)の退役軍人だった。
ジョン・ハワードは青年期聴覚障害によるわずかな言語障害を持ち、この点でウィンストンチャーチルと同じである。
一家はガソリンスタンドと機械工場をアールウッドの郊外, Dulwich Hillで経営した。父ライエルはジョンがティーンエイジャーの時に死去し、妻と三人の息子が残された。ジョンはカンタベリー・ボーイズ・ハイスクールに通い、シドニー大学に進学し法律を学んだ。 1957年に自由党に参加する。
ジョンは1971年に自由党の同僚ジャネット・パーカーと結婚し、三人の子供をもうけた。ジャネットはハワードが首相在職中控えめであったが、それは彼の健康問題から取られたスタンスで、実際には彼女はハワードの有力なアドバイザーと評価される。
1974年の連邦議会総選挙で、シドニー北西郊外のベネロング区から立候補し当選する。1985年に自由党の党首となるが、1989年に退任、後1995年に再び自由党の党首に就任する。1996年の連邦議会総選挙で、与党の労働党を破り、自由党が政権の座に着き首相に就任。
[編集] 首相として
一期目においては、歳出の削減やポートアーサー事件に関連して銃規制などを行った。1998年の選挙においては、自由党と国民党の連合を率いて臨んだ。この選挙の関心は、新間接税の導入と白豪主義政党・ワンネーション党 (One Nation Party) の動向であった。自由党と国民党の連合はこの選挙に勝利し、二期目の任期に入った。
二期目においてはGSTと呼ばれる新税の導入を行い、東ティモール問題に積極的に関与した。2001年8月に発生したアフガニスタン難民問題では、背景の複雑な事情もあり、受入れに反対している。その後、移民政策を厳格にしている。2001年に政権の座についた、米国のジョージ・ウォーカー・ブッシュ大統領とはもっとも近しい間柄で、京都議定書脱退に踏み切った際には、一早くそれを支持した。また、同じ年に就任し、親米・新自由主義政策を共有する日本の小泉純一郎前首相とも関係を深め、靖国神社参拝にも一定の理解を示している。
2001年11月に行われた選挙で、自由党陣営は勝利し、ハワードは三期目の首相の任についた。2003年のイラク戦争においては、アメリカ軍・イギリス軍に協力するために、イラクに部隊を派遣している。
2004年10月9日の連邦議会総選挙では、イラクに派遣している部隊の撤退が争点となったが、自由党は労働党に圧勝し、オーストラリア建国史上初となる四期目の首相の座に着いた。 テレビタレント兼環境保護運動家スティーブ・アーウィンの追悼式にも参加した。
[編集] 外部リンク
- John Howard - Australia's Prime Ministers / National Archives of Australia
- Prime Minister of Australia | John Howard - official website
- John Howard Lies - Website listing alleged lies told by John Howard
|
|
|