ジョン・マッケンロー
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ジョン・マッケンロー |
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基本情報 |
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英語名 | John McEnroe |
フルネーム | John Patrick McEnroe |
国籍 | ![]() |
出身地 | ドイツ・ヴィースバーデン |
生年月日 | 1959年2月16日 |
身長 | 180cm |
体重 | 75kg |
利き手 | 左 |
バックハンド | 片手打ち |
ツアー経歴 |
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デビュー年 | 1976年 |
引退年 | 1992年 |
ツアー通算 | 146勝 |
シングルス | 76勝 |
ダブルス | 70勝 |
生涯通算成績 | 1391勝294敗 |
シングルス | 864勝194敗 |
ダブルス | 527勝100敗 |
4大大会最高成績 |
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全豪 | ベスト4(1983) |
全仏 | 準優勝(1984) |
全英 | 優勝(1981・83・84) |
全米 | 優勝(1979-81・84) |
優勝回数 | 7(全英3・全米4) |
キャリア自己最高ランキング |
|
シングルス | 1位 |
ダブルス | 1位 |
Template |
ジョン・マッケンロー(John McEnroe, 1959年2月16日 - )は、アメリカの男子プロテニス選手。父親の軍務地であったドイツ・ヴィースバーデンで生まれる。父親は著名な弁護士で、弟のパトリック・マッケンローはプロテニス選手。左利き。身長180cm、体重75kg。
マッケンローはATPツアーでシングルス76勝、ダブルス70勝を挙げ、シングルス・ダブルスとも世界ランキング1位になった数少ない選手のひとりである。4大大会では男子シングルス7勝・男子ダブルス9勝・混合ダブルス1勝を挙げた。ダブルスでは旧友ピーター・フレミングと組んで57個(うち4大大会7勝/同一ペアの優勝記録としては歴代2位)のタイトルを獲得した。
彼は試合中に審判の判定が気に入らないとすぐ暴言を発し、マナーが非常に悪いことから“悪童マッケンロー”と呼ばれた。
目次 |
[編集] 選手経歴
1976年から選手生活を始め、1977年、18歳でウィンブルドン選手権ベスト4に進出、準決勝で当時ランキングNo.1のジミー・コナーズに敗れるものの、注目を集める。 その後、スタンフォード大学に進学し、1978年、NCAAのタイトルを獲得すると、大学を中退してプロ入り。翌 1979年には早くも全米オープン決勝に進出し、ビタス・ゲルレイティスを 7-5, 6-3, 6-3 で破って、20歳の若さで四大大会初タイトルを獲得する。
1980年、ウィンブルドンで初の決勝進出を果たし、大会5連覇を目指すビョルン・ボルグに 6-1, 5-7, 3-6, 7-6, 6-8 で敗れたが、3時間55分に及ぶ大激戦はテニス史上に残る名勝負として今なお語り継がれている。とりわけ第4セットはボルグの7つのマッチポイントを凌ぎ、タイブレークを 18-16 という壮絶なスコアでものにして最終セットに持ち込んだが、最後は鉄人・ボルグの前に力尽きた。
しかし、同年の全米オープン決勝で同じボルグを 7-6, 6-1, 6-7, 5-7, 6-4 とフルセットの末に破ると、翌 1981年のウィンブルドンでは、再び決勝で相まみえたボルグを 4-6, 7-6, 7-6, 6-4 で破り、前年の雪辱を果たして初優勝、続く全米オープンでも2年連続決勝でボルグを破って、同大会3連覇を達成すると共に、ATPランキング1位の座をボルグから奪い取って、マッケンロー時代の幕開けを告げた。
1982年は、ウィンブルドンは決勝でコナーズ、全米オープンは準決勝で新たに台頭してきた最大のライバル・イワン・レンドルに共に破れて、四大タイトル無冠に終わり、またレンドルを0勝4敗・前年から6連敗と苦手にする等、若干苦戦はしたが、年間ランキング1位は死守する。1983年以降は充実期を迎え、同年のウィンブルドン、1984年はウィンブルドン、全米オープンの2冠を獲得、両年とも年間ランキング1位をキープし、名実共にトッププレーヤーとしてテニス界に君臨する。
特に絶頂期 1984年は、プレースタイル的に苦手な全仏オープンこそレンドルに破れて準優勝に終わったものの、優勝した全米オープンではそのレンドル、ウィンブルドンでは前々年に苦杯を嘗めたコナーズに対して、共に決勝でストレート勝ちの圧勝。ツアーを通じてもレンドルに6勝1敗、コナーズに6勝0敗と、当時のランキング2位、3位である2人を全く寄せ付けず、最終的に全14の大会に出場して12大会で優勝、デビスカップでの1敗を合わせても、年間わずかに3敗という圧倒的な戦績を残した。(この年の彼の年間勝率 .965 という記録は、同様に圧倒的な強さを誇った2005年のロジャー・フェデラーでさえ破れなかった驚異的な記録である)
しかし、1985年に入ると、全仏オープンは準決勝でクレー巧者・マッツ・ビランデルに屈した後、ウィンブルドンは準々決勝で伏兵のビッグサーバー・ケビン・カレンに足下をすくわれ、唯一決勝に進出した全米オープンもレンドルに前年の雪辱を許し、再び無冠に終わっただけでなく、ランキング1位もレンドルに奪われると、以後、1986年・1987年は背中の故障などもあって出場試合数が激減。出場した試合でも低迷が続き、ボリス・ベッカーなどの新勢力の台頭もあって、突如、マッケンロー時代は終焉を迎える。
1988年、前年の出場停止処分に端を発した長期休養から、復活を期して4月のジャパン・オープンを復帰戦として選択すると、有明コロシアムで行われた決勝では、新勢力のもう一人の代表・ステファン・エドバーグを 6-2, 6-2 で破って優勝した。(準々決勝では若き松岡修造とも対戦&勝利) 5月の全仏オープンは4回戦で、80年代後半は絶対的な強さを誇ったレンドルに善戦・惜敗だったが、続くウィンブルドン、全米オープン、共に2回戦で格下の選手に惨敗。以後、ツアーでの優勝は散発的にあったものの、4大大会シングルスは1989年、1992年のウィンブルドン、1990年全米オープンのベスト4が最高と、再び以前の輝きを取り戻すことは叶わなかった。
一方、ダブルスでは、その後も活躍を続け、オーストラリアのマーク・ウッドフォードとペアを組んだ1989年の1989年全米オープンで優勝する。引退を表明した1992年にも、ドイツのミヒャエル・シュティヒと組んで8年ぶりにウィンブルドンで優勝を飾った後、デビスカップでもピート・サンプラスとペアを組んで、決勝のスイス戦では2セットダウンから逆転勝ちして優勝を決めるなど、最後の活躍を見せている。特にシュティヒとペアを組んでジム・グラブ&リッチー・レネバーグ組(ともにアメリカ)を 5-7, 7-6, 3-6, 7-6, 19-17 で破った決勝の試合時間「5時間1分」は、ウィンブルドン男子ダブルス決勝の史上最長時間記録である。
1992年に33歳で現役を引退した後は、テレビ解説者として活躍する一方、ボルグ等と共にシニアツアーに参加し、来日も果たしている。また1999年のウィンブルドンでは、すでに引退を表明していたシュテフィ・グラフとペアを組んで混合ダブルスに出場した他、2006年には突如ダブルスでツアー復帰を宣言し、ヨナス・ビョークマンとペアを組んだサンノゼ・SAPオープンで優勝を飾っている。マッケンロー47歳、ビョークマン33歳ペアの優勝は、記録的にも特筆に値する。
マッケンローは日本でも高い人気を誇ったが、これは彼の活躍した時期が衛星放送などの普及により、海外のテニスの試合を生中継で見る機会が増えた時期と重なっていることが大きいと思われる。1999年に国際テニス殿堂入り。
[編集] プレースタイル
機を見てネットに出てボレー等でポイントを決めるネットプレーヤー。サービスゲームではサーブと同時にネットダッシュするサービス&ボレーを基軸とする。(セカンドサーブ時はベースラインにとどまる場合もあり) リターンゲームでも、ストローク戦からネットダッシュするか、場合によってはリターンと同時にネットダッシュするリターン&ネットも見せる。
ほとんど相手に背中を向けた極端なクローズドスタンスから放たれるサーブは強力で、特にアドバンテージコートから左利き特有のバックハンド・サイドに切れていくスライスサーブは、両手打ちバックハンドの為に比較的リーチの狭かったライバル・ビョルン・ボルグとの対戦時は大きな武器となった。またボルグとは対照的に、ガットをぎりぎりまで緩く張ったラケットから絶妙なタッチで繰り出されるボレーは変幻自在で、野獣(Animal)・コナーズ、氷の男(Ice Borg : Iceberg(氷山)の変形)・ボルグに対して、芸術家(Artist)・マッケンローなどと評された。
プレースタイル的にはネットプレーヤーであるが、ストロークも決して苦手ではなく、全盛期は各時代・最強のストローカーであるコナーズ、ボルグ、レンドルを、ストロークの打合いで翻弄することも多かった為、オールラウンダーと評される場合もある。
彼のストロークの特徴をあらわすキーワードはライジングで、人によっては 『マッケンローのストロークはハーフボレーの延長だ』 などと評するほど、フォア、バック共に、ほとんどのストロークをバウンドの上がり際(=ライジング)で処理した。これは70年代末期、ボルグの高く跳ね上がるトップスピンに対して、多くのネットプレーヤーがベースライン後方に押し下げられ、ネットプレーを封じられていたことに対抗する為、生まれたと思われる。
ベースラインから下がらずに高い打点で処理することで、より早いタイミングで、しかも角度を付けて返球することが容易となる為、結果的に速い展開で相手を振り回すことが可能となる。相手からすると 「ボール自体は速くないのに、すぐボールが返ってくる」「強打しても軽くかわされ、ちょっとでもストロークが浅くなると左右に振り回されて、気が付くとネットに出てきてボレーを決められる」 という状態になる。
ボルグのマッケンロー評に 『彼はコートのあらゆるところから、あらゆるスピンのボールを打つことが出来る』 とあるように、単純にボールの威力で相手を粉砕するのではなく、コート中に様々な球種を散らし、相手を翻弄して、最後はネットプレーで決めるのが彼のプレースタイルであり、その意味では同じライジングでも、高い打点からエースを狙ってハードヒットする現代のライジング打法とは趣を異にする。
また、あまり目立たないが、ネットプレーヤーとしては異例にパッシングショットも得意とし、フォア&バック共に、ストレート、ショートクロスと自在に打ち分け、同じスタイルの相手と対戦する際には非常に有効であった。しかし、絶対的な体力に裏打ちされた粘りのストロークが要求されるクレーコートはやはり苦手とし、絶頂期1984年でもあと一歩のところで全仏オープン・タイトルには届かなかった。
全体として、ネットプレー、ストローク共に、非常にアグレッシブ(攻撃的)なプレーを行うが、決して勢いにまかせてエース狙いのハードヒットを繰り返すタイプではなく、(彼のトレードマークでもあった)審判の判定に激昂し悪態をつくような場面の後でも、プレー自体は常にクレバーで、彼以前の “悪童” イリ・ナスターゼやコナーズ、彼の後を継いだ(?)ゴラン・イワニセビッチなどのように、そのままプレーが乱れて敗れてしまう場面は稀であった。炎のような闘争心と冷静なプレーの両立を可能とした類い希な資質が、彼を歴史に残る偉大なプレーヤーにしたとも言える。
また時代的に彼は、ちょうどウッド(木製)ラケットとカーボン、グラスファイバー等、新世代ハイテク・ラケットとの交替時期に活躍した選手でもある。1つ年下のライバル・レンドルに泥沼の7連敗を喫していた1983年初頭、それまでのウッドラケットMAXPLYから、カーボン製MAX200Gにラケットを替えたことと相前後して、レンドルとの対戦成績も逆転し、その後の全盛期を迎えた。
[編集] エピソード
- マッケンローは当初、ウッドのラケットを使用していた。彼がグラファイト製ラケット「DUNLOP MAX 200G」に切り替えたのは、弟のパトリック・マッケンローに勧められたため。彼はこのラケットを非常に気に入り、1984年のツアーから使用、全盛期を迎える。それ以後、現役を引退する1992年までこのラケットを使い続けた。
- マッケンローの“悪童”ぶりが度を過ぎた試合の最たる例として、1990年全豪オープン4回戦での珍事があった。この時マッケンローはミカエル・ペルンフォルス(スウェーデン)との対戦中に審判への暴言をやめなかったため、第4セットの途中(スコア:6-1, 4-6, 7-5, 2-4 / すなわち、マッケンローがセットカウント 2-1 とリード中)で主審から「失格」を言い渡された。これに観客は憤り、試合会場を立ち去ってしまった。
- マッケンローは日本での知名度が高く、企業のイメージ宣伝や漫才師のギャグネタなどに起用されることもあった。現役引退後の1995年11月には「明石家さんまのスポーツするぞ!大放送」に出演し、明石家さんまとともに「さんま vs. マッケンロー」というエキシビション・マッチを行ったこともある。
- 2004年7月4日からアメリカ・CNBCでトークショー「マッケンロー」のホストを務めたが、視聴率が0%の回が続き、わずか3ヶ月で終了した。
[編集] 4大大会優勝
- 全仏オープン 混合ダブルス:1勝(1977年) [男子シングルス準優勝1度:1984年]
- ウィンブルドン 男子シングルス:3勝(1981年、1983年&1984年)/男子ダブルス:5勝(1979年、1981年、1983年&1984年、1992年) [男子シングルス準優勝2度:1980年、1982年]
- 全米オープン 男子シングルス:4勝(1979年-1981年、1984年)/男子ダブルス:4勝(1979年、1981年、1983年、1989年) [男子シングルス準優勝1度:1985年]
年 | 大会 | 対戦相手 | 試合結果 |
---|---|---|---|
1979年 | 全米オープン | ![]() |
7-5, 6-3, 6-3 |
1980年 | 全米オープン | ![]() |
7-6, 6-1, 6-7, 5-7, 6-4 |
1981年 | ウィンブルドン | ![]() |
4-6, 7-6, 7-6, 6-4 |
1981年 | 全米オープン | ![]() |
4-6, 6-2, 6-4, 6-3 |
1983年 | ウィンブルドン | ![]() |
6-2, 6-2, 6-2 |
1984年 | ウィンブルドン | ![]() |
6-1, 6-1, 6-2 |
1984年 | 全米オープン | ![]() |
6-3, 6-4, 6-1 |
[編集] 4大大会男子シングルス優勝記録
- 1位:14勝 ピート・サンプラス(アメリカ)
- 2位:12勝 ロイ・エマーソン(オーストラリア)
- 3位タイ:11勝 ロッド・レーバー(オーストラリア)、ビョルン・ボルグ(スウェーデン)
- 5位タイ:10勝 ビル・チルデン(アメリカ)、* ロジャー・フェデラー(スイス)
- 7位タイ:8勝 フレッド・ペリー(イギリス)、ケン・ローズウォール(オーストラリア)、ジミー・コナーズ(アメリカ)、イワン・レンドル(チェコスロバキア)、アンドレ・アガシ(アメリカ)
- 12位タイ:7勝 ルネ・ラコステ(フランス)、アンリ・コシェ(フランス)、ジョン・ニューカム(オーストラリア)、ジョン・マッケンロー(アメリカ)、マッツ・ビランデル(スウェーデン)
- *は現役選手。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- ジョン・マッケンロー - ATPツアーのプロフィール(英語)
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