トニーニョ・セレーゾ
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トニーニョ・セレーゾ(Antônio Carlos Cerezo、1955年4月21日 - )は、ブラジル出身の元同国代表サッカー選手(MF)、元鹿島アントラーズ監督。
身長 183cm, 体重 78kg, 利き足は右だが、利き手は左、ポジション:ボランチ。80年代ブラジル代表ではジーコ、ソクラテス、ファルカンと「黄金の中盤(黄金のカルテット)」を中盤で形成しゴールを量産。数々のタイトルをもたらした。
クラブでは全盛期にイタリアセリエAに渡り、ASローマでUEFAチャンピオンズカップ準優勝、コパ・イタリアで二度の優勝、さらにサンプドリアに移り、チーム初のスクデットをもたらすなど、中心選手として大活躍した。さらに92年に母国ブラジルへ帰るとサンパウロFCに所属、トヨタカップ連覇に貢献するなど、年齢を感じさせないプレーで魅了し続けた。
2000年より鹿島アントラーズの監督に就任。選手の個性を生かす柔軟な作戦で高い評価を得て、長期政権を築く。就任1年目にJリーグ初の年間三冠(Jリーグ年間王者に加え、ナビスコカップ・天皇杯を制する)に輝くなど在任中に合計5冠を獲得した。2005年シーズン終了後勇退。6シーズンという長期政権をしいた。
2006年からは、母国ブラジルの古豪・グアラニFCの監督に就任したが、チームの2部降格、フロントとの衝突もあってわずか2ヶ月で辞任。5月にはサンフレッチェ広島の監督候補に名前が挙がったが、金銭的に折り合いがつかず断念。日本では名将のイメージがあるが、母国ブラジルでは短期間で解任されることが多い。
2007年2月にサウジアラビアのアル・ヒラルの監督に就任した。
目次 |
[編集] エピソード
- 現役時代から蓄えている口ひげがトレードマーク。鹿島監督時代、敵サポーターからは「ヒゲ!」という愛称で呼ばれていた。2005年シーズン終盤では、勇退発表後の試合で敵サポーターから惜別の意味を込め、異例の「ヒゲ」コールが起こった。
- 鹿島では背番号42番(42が自身のラッキーナンバーか?)のプラクティスシャツを練習時や夏季の試合時に着用していた。練習時にミニゲームの選手の数が足りないと、監督という身でありながら喜んで参加することでも知られ、歳を取った今でもなお、鹿島の選手の誰よりもサッカーが上手かったという。
- 週刊サッカーダイジェスト内の人気コーナースーパーさぶっ!劇場では、「むけたー!」という一言を発するパロディキャラで登場している。第一回キャラクター投票では堂々の4位(週刊サッカーダイジェスト調べ)であり、隠れた人気者である。
[編集] チーム所属歴
- 1972 ~1972 アトレチコ・ミネイロ(ブラジル)
- 1973 ~1973 ナシオナル・モンテビデオ(ウルグアイ)
- 1974.1~1983.4 アトレチコ・ミネイロ(ブラジル)
- 1983.5~1986.5 ASローマ(イタリア)
- 1986.6~1992.6 サンプドリア(イタリア)
- 1992.9~1993.12 サンパウロFC(ブラジル)
- 1994.2~1994.12 クルゼイロEC(ブラジル)
- 1995.4~1995.6 パウリスタFC(ブラジル)
- 1995.7~1995.12 サンパウロFC(ブラジル)
- 1996.1~1996.6 アトレチコ・ミネイロ(ブラジル)
- 1996.6~1996.12 アメリカ・ミネイロ(ブラジル)
[編集] 監督歴
- 1999.1~1999.4 アトレチコ・ミネイロ(ブラジル)
- 1999.5~1999.12 ECヴィトーリア(ブラジル)
- 2000.1~2005.12 鹿島アントラーズ(日本)
- 2006.3~2006.5 グアラニFC(ブラジル)
- 2007.2~ アル・ヒラル(サウジアラビア)
[編集] 代表歴
- 1978年 ワールドカップ・アルゼンチン大会
- 1982年 ワールドカップ・スペイン大会
[編集] 受賞歴
- 1993年 トヨタカップ最優秀選手賞
- 2000年 Jリーグ優勝監督賞
- 2001年 Jリーグ優勝監督賞
[編集] 外部リンク
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