ドン・マネー
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ドン・マネー(またはダン・マネー)(Donald Wayne Money 1947年6月7日 - )は1965年~1983年までプレーしていた米国メジャーリーグの内野手で、1984年の春だけ日本のプロ野球チーム・近鉄でプレーしていた内野手でもある。
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[編集] 来歴・人物
米国ワシントンD.C.の生まれ。1965年ドラフト外でピッツバーグ・パイレーツに入団したがメジャー昇格を果たせないまま1968年フィラデルフィア・フィリーズへ移籍。ここで初めてメジャーに昇格し1969年に遊撃手としてレギュラー確保。翌1970年に三塁手にコンバートされ以降定着。(※ 1977年は二塁手。)1973年にミルウォーキー・ブルワーズに移籍すると一流の活躍を見せ1973年~1974年にかけて88試合・261守備機会無失策の新記録を樹立し1974年と1976年~1978年にメジャーリーグのオールスターゲームに出場した。
1983年限りで現役を引退。ニュージャージー州の農場でのんびり暮らそうとしていた所に近鉄バファローズからオファーがあり入団。入団してからは期待通りの活躍を見せていたが住居・球場・球団設備への不満から5月に帰国。プロ野球生活にピリオドを打った。(詳細は後述)
現在は上記の農場で悠々自適と伝えられている。
[編集] 前代未聞…でも同情されたマネーの退団
マネーは1983年オフを以って引退するつもりでいたものの、近鉄から2年契約の約2億2000万円、兵庫県神戸市内に住居を提供するなど、破格の契約条件を提示されると「ぜひ日本でプレーしたい」と引退を翻意して契約。開幕以降、期待通りの活躍を見せながら、上記の理由から5月に帰国し退団した。普通なら日本の野球ファンは「余りにも身勝手な行動ではないか」と批判を浴びせるところだろう。だが当時はそういった批判はあまり上がらず、むしろ同情する声が多く聞かれたほどだ。それはマネーが入団以降、近鉄球団の対応のまずさに翻弄され続けたという悲しい事情があったからである。
マネーは契約の折、近鉄球団の担当者から「うちのチームは野球をプレーする環境に適している」と説明を受けていた。またマネー自身もアメリカのテレビ番組で、満員の後楽園球場で行われている読売ジャイアンツ(巨人)戦の模様を見て「日本でも、メジャーと概ね同じ環境で試合ができる」と期待を持って来日した。ところがいざ入団してみると、その期待はすぐに失望に変わってしまった。本拠地の藤井寺球場、準本拠地の日本生命球場は老朽化が著しかった上に改修も充分に行われていなかった。場内の設備はというと、ダッグアウト裏のロッカーは狭い上に汚く、シャワールームには古ぼけたシャワーが2本あるだけで、しかも大の苦手であったゴキブリやドブネズミがぞろぞろ出てきたという。また当時のパ・リーグは観客が少なく、来日前にイメージしていたプレー環境とは大きく乖離していた。当然、憤懣やるかたない心境だったであろう。とはいえ「このままプレーせずに帰国してしまうと、日米双方で批判されることになるだろうから」と、つとめて我慢することを心がけた。
ところが、事は球場の施設だけでは済まなかった。球団側から「神戸に用意した住居周辺は人口が少なく、しかも外国人が多く住む地区なので周辺住民は全員英語が話せる。今回は特別に新築の家を用意する」と聞かされていたその住居は、市内の住宅密集地に建つ築10数年の中古住宅だった。近所には居住する外国人も僅かで、英語を話せる地元住民も数えるほどしかおらず、おまけにここにもゴキブリがいるとあっては、「絶好の住環境」と聞いて一緒に来日した妻子までもが、友人や話し相手もいない状況下でホームシックに見舞われるのも当然だった。更には通勤手段も来日1年目ということで自家用車の所有を許可されず、自宅と球場の間は専ら電車通勤。タクシーでの通勤も認められてはいたものの、それも本塁打か打点を挙げた試合の帰路に限られるという条件付きのもので、その他の生活面の待遇も余りにも不遇なものであった。
こうした低待遇に遂に業を煮やしたマネーは4月下旬「金は全額返すから、アメリカに帰らせてほしい」と退団を表明するに至った。だがこうした冷遇に遭っていたにもかかわらず、退団会見では「球団に責任は全くない。全て、この環境に慣れることができなかった私の責任だ」と、あくまでも殊勝に語った。更にマネーを慕って共に近鉄に入団したリチャード・デュラン(1957年7月24日 - )も、後を追うように退団を発表した。
当時、マネーとデュランに関しては「球場が汚いから辞めた」という部分ばかりが誇張され「日本の環境に慣れることができなかったマネーらが悪い」と曲解するような報道も一部あった。しかし、上記のような近鉄球団の体たらくぶりが伝えられると、逆に彼らに対して同情する論調へと変わっていった。また、この一件を機にコミッショナー事務局から各球団に「外国人はプライドにも注意せよ」という通達が出されたが、マネーらの退団は近鉄の認識不足による「人災」ともいえよう。
余談だが、その後1988年にロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)が、メジャーで4回首位打者を獲得した経験を有するベテラン選手ビル・マドロックを獲得した際、当時の本拠地川崎球場の一塁側ダッグアウト裏を改修し、彼専用のロッカールームを用意した。このような手厚い待遇の背景には、このマネーらの一件があったともいわれている(因みにマドロック専用ロッカーを設けた一方、他の選手が使用するロッカールームは全く改修されなかったそうである)。
[編集] メジャーリーグでの通算成績
- 1965年~1967年までピッツバーグ・パイレーツ(※ メジャー昇格はなし)
- 1968年~1972年までフィラデルフィア・フィリーズ
- 1973年~1983年引退までミルウォーキー・ブルワーズ