藤井寺球場
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近鉄藤井寺球場 | |
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Kintetsu Fujiidera Baseball Stadium (Buffaloes Stadium) |
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施設統計 | |
所在地 | 大阪府藤井寺市春日丘3-1-1 |
開場 | 1928年5月25日 |
閉場 | 2005年1月31日 |
所有者 | 近鉄興業株式会社(当時) |
グラウンド | 内外野-人工芝(閉場時) 両翼91m 右・左中間110m 中堅120m |
照明 | 照明灯 - 6基 照度-バッテリー間:2,000ルクス、 内野:1,600ルクス、 外野:1,100ルクス |
設計者 | 錢高組 |
建設者 | 錢高組 |
使用チーム、大会 | |
近鉄バファローズ(1950年 - 2004年) | |
収容能力 | |
32,000(31,086?)人(閉場時) 内訳:特別席7,000人、内野席15,000人 外野席10,000人 |
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規模 | |
敷地面積:45,566m²、 グラウンド面積:12,839m² スタンド面積:9,520m² |
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フェンスの高さ | |
5m(フェンス2m、金網3m) |
藤井寺球場(ふじいでらきゅうじょう)は、大阪府藤井寺市に存在した野球場。正式名称は近鉄藤井寺球場。近畿日本鉄道(近鉄)の関連会社が保有・管理していた。2005年1月末をもって閉鎖され、建物は2006年8月に解体された。
目次 |
[編集] 歴史
1925年に大阪鉄道(大鉄、現・近畿日本鉄道)は、郊外の沿線・藤井寺に住宅地や、自然体験学習のための花卉園や果樹園を備えた「教材園」、相撲場などのスポーツ施設を備えた「藤井寺経営地」の計画を立案。1923年に阪神電鉄が建設した甲子園球場が全国中等学校野球大会の舞台として人気を博していたことから、この経営地に野球場を建設することとした。合資会社錢高組が施工し、1927年11月11日着工、1928年5月25日に完成した。当時の敷地面積は甲子園球場を凌ぐ59,000m²。総工費は70万円。大鉄傘のある内野席と芝生の外野席を合わせた収容人員は7万人とされた。
戦前は主にアマチュア野球に使用された。戦時中の1943年7月2日から行われた解体工事で大鉄傘は供出となり、球場は若人の錬成道場となった。
1949年の2リーグ分裂時に近鉄は新球団を結成し、翌年のリーグ開幕に向けて約8000万円をかけてスタンドやグラウンドを改修。1950年から近鉄パールス(のちの大阪近鉄バファローズ)の本拠地となった。
しかし照明設備がない藤井寺球場ではナイトゲームで開催する事ができなかったため、近鉄は平日の公式戦を専ら大阪球場(1950年~1957年)→日本生命球場(1958年~1983年)で開催。藤井寺は、野球協約に定める専用球場(=本拠地)であったが、長年にわたって一軍の週末・祝日のデーゲームや二軍の試合に使用される名目上のホームグラウンドであった。
近鉄が主に使用した日生球場は、大阪市内にあって交通の便がよいため、観客動員も見込むことができた。また、グラウンドと客席の距離が近いためファンの根強い人気もあった。しかし、社会人野球チームを持つ日本生命保険相互会社から賃借していた球場だったため、収容人員が少なく(約20,500人)、グラウンドは狭く、照明が他球場に比べて暗いなど、プロ野球興行に適しているとはいえなかった。このため、一時、プロ野球機構やパシフィックリーグプロ野球連盟が問題視し、愛知県や三重県などの近鉄沿線の中京地区への移転も検討されたが、中日ドラゴンズの独占権益侵害やファン分散になる恐れから断念せざるを得なかった。
しかし、近鉄にとって最も大きな問題は、藤井寺も日生も日本シリーズやオールスターの開催条件とされている「照明設備のある収容人数3万人以上の球場」という条件をクリアできないことであった。実際、近鉄がパリーグ初優勝した1979年、連覇した1980年の日本シリーズは、南海の本拠地である大阪球場を借りてシリーズに臨まざるを得なかった。そのため、藤井寺球場でナイターを行うことは近鉄の長年の課題だった。
それまで万年最下位だったチームが1969年~1972年にAクラスを維持した後の1973年2月、近鉄は球場の大規模な改修工事計画を発表した。その内容は土盛りだった外野席をスタンド化しスコアボードを改修するなど、藤井寺を本拠地にふさわしい球場とするものだったが、この計画の中にナイター設備の設置工事が含まれていた。これに対して、球場周辺の住宅地に住む住民が、工事が行われると観客の自動車乗り入れや応援による騒音などナイター公害が発生すると反発し、反対運動を起こした。同年7月に近鉄は工事に着工したが、反対住民は10月に大阪地方裁判所に工事差し止めの仮処分を申請。地裁がこれを認めたため、外野のスタンド化、スコアボードなどの改修工事は完了したものの、ナイター設備は外野の鉄塔部分が完成したところで中断され、そのまま約10年間工事がストップした。
その間、近鉄と反対住民側は仲介や調停などを重ねたがいずれも不調に終わったため、1981年3月に近鉄は大阪地方裁判所に工事差し止めへの異議申し立てを行った。地裁は1983年9月26日、外野スタンド最上段に防音壁を設置すること(3塁側からの写真のライト後方部分にあるのがそれ)、鳴り物入りの応援を禁止することなどを条件としてナイター設備の設置を認めたため、近鉄は同年11月21日に工事を再開。1984年4月6日にナイター設備が完成し、名実ともに本拠地となった。翌1985年には外野グラウンドが人工芝となり、初のオールスターゲームも開催された(1996年には内野にも人工芝を敷設)。
1984年、鈴木啓示投手の300勝達成や1989年のリーグ優勝など名勝負を繰り広げたが、1997年に大阪ドームが完成したのに伴い、再び準本拠地に降格。練習場及び二軍の本拠地球場となり、その後も年間数試合一軍の公式戦が行われたが、1999年10月の近鉄-千葉ロッテ最終戦を以って、パ公式戦の開催を終了した(専用球場としての指定も1999年で取り消された。ただし、二軍の最終戦は、2004年9月30日にウエスタンリーグ優勝決定戦として行われた近鉄-中日【写真あり】)。
2004年、近鉄は球界再編問題の当事者となり、その流れから8月には、近鉄は2005年春を目途に、藤井寺球場の閉鎖を検討していることを明らかにした。近鉄は近年にも、練習場及び二軍本拠地の機能を泉佐野市のりんくうタウンに移転する構想を発表するなど、藤井寺球場周辺の再開発に対して強い関心を持っていた。
そして近鉄本社は、合併球団オリックス・バファローズの発足により野球場を持つ必要性が薄れたこと(二軍=サーパス=の本拠地及び合宿所は兵庫県神戸市にある旧オリックス・ブルーウェーブのものを継続使用するため)、施設が著しく老朽化していることなどを理由に、2005年1月末を以って近鉄側が主催する閉鎖イベント等は行われないまま藤井寺球場は閉鎖となった。
なお選手会によるストライキが行われた日、同球場で近鉄選手によるサイン会が実施され(アキレス腱断裂でリハビリをしていた吉岡雄二を含め、礒部や外国人を除くほぼ全ての主力選手が参加)、老朽化で一軍戦終了後は解放されることがなくなっていた外野スタンドで行われた。
晩年は2軍戦や高校野球の大阪大会などがメインとなったが、前述の通り、大阪近鉄バファローズの(2軍としての)公式戦は2004年9月30日のウェスタンリーグ優勝決定戦であった。これは当初それより前に開催される予定であったが、近鉄とオリックスとの合併問題でプロ野球選手会による行われたストライキの影響で実施が伸びた為である(藤井寺で行われたのは前期に近鉄が優勝したおかげである)。1軍戦は既に終了していたので、近鉄としてのNPB公式戦最後の試合は大阪ドームではなく、かつての本拠地だった藤井寺球場となった。なお勝ち上がれば当然、宮崎で行われたファーム選手権に出られたわけだが、残念ながら中日に敗れたため、それは果たせなかった。球場には別れを惜しむ近鉄ファンが大勢つめかけた。
大阪近鉄バファローズとしての同球場の最後の使用は2004年11月6日の秋季練習であった(この2日後、オリックスと楽天による分配ドラフトが実施される)。
藤井寺球場におけるプロ野球関連での最後の使用は、2004年11月13日からの東北楽天ゴールデンイーグルスの球団としての初練習であった。これは配下選手が関西に住む旧近鉄と旧オリックスの選手が中心だったからである。ちなみにユニフォームはまだ決まっておらず、真っ白の仮ユニフォームを着ての練習で「まるで高校野球みたいだ」と評された。
2005年8月4日、近鉄は球場敷地のうち約33,000m²を四天王寺学園に売却すると明らかにした。静かな環境を守りたいという地元の意向に配慮して決めたもので、四天王寺学園の小学校が建設されるほか大阪府羽曳野市内にある生涯学習センターが移設される予定となっている。
なお、2005年6月4日、5日に、藤井寺市や市民らの主催によって、藤井寺球場で「藤井寺市民フェスタ」を開催、鈴木啓示らOB選手の講演や運動会などを行った。7万1千人の参加者を集め、これが実質的な閉鎖イベントとなった。
[編集] 日本シリーズの開催
藤井寺で日本シリーズが開催されたのは1989年。この年のシリーズ相手は巨人。藤井寺で開催された第1戦、2戦は近鉄が勢いに乗って連勝。敵地東京ドームでの第3戦にも勝利して3連勝とし、初の日本一に王手をかけた。しかし、その後巨人に4連敗。第7戦に勝利した敵将藤田監督が藤井寺球場で胴上げされた。これが藤井寺で開催された最初で最後の日本シリーズだった。
[編集] アマチュア野球での使用
藤井寺球場は、戦前・戦後を通じてアマチュア野球の舞台でもあった。戦前には、関西六大学のリーグ戦や早大と関大との定期戦、学童野球などに使用された。1931年からは、全国中等学校優勝野球大会(後の全国高等学校野球選手権大会)の大阪府予選の会場の一つとなり、2004年まで使用された。とくに1998年からは、それまでの決勝戦会場だった日本生命球場が閉鎖されたため、藤井寺球場で決勝戦が行われた。余談だがこの試合は、当時大阪ドームの近鉄1軍戦でもTVで放映されることが少なかった中、関西ローカルとは言え、NHKと朝日放送の2局が生中継をしていた。
また、1956年から1980年には、全国高等学校軟式野球選手権大会の会場にもなった。
なお、野球ではないが、1946年9月に文部省が日本初のプレーグランドボール(現在のソフトボール)の講習会を藤井寺球場で開催した。
[編集] 鳴り物禁止の応援
近隣住民がナイター設備の建設に反対した際、理由として騒音問題を挙げたことから、これ以降、藤井寺球場ではラッパ、鐘、太鼓など鳴り物による応援が禁止され、これらの持ち込みも規制された。これは他の球場には見られないことであった。このことは、ブラスバンドによる応援が盛んな高校野球にとっては支障が大きく、藤井寺を会場としていた全国高等学校軟式野球選手権大会は、1981年以降は明石公園野球場と高砂市野球場に開催地を変更した。ちなみにプロ野球のオープン戦では阪神タイガースの応援団がトランペットを使用したり、1999年の最後の公式戦においては試合の終盤にトランペットが使用されるなど、いくつかの例外はあった。また、2005年から誕生した東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地であるフルキャストスタジアム宮城では藤井寺球場と同じく、鳴り物応援が禁止となった。
[編集] その他設備の概要
- グラウンド
- 元々両翼は97.6mあるが、外野フェンスによるラッキーゾーンを設けたため、91mに縮小された。ただし、1980年代ごろからフェンスに距離の記載がなくなった。一説には両翼90.8m、中堅117m、左中間110m、右中間110mとも。
- スコアボード
- 1973年~1974年に改装された手書式のスコアボードを閉場まで使用した。カウントの電光表示はスコアボード中央部にあったが、1985年にスコアボード上部へ移設した。
- またナイトゲームに限って近鉄の選手がホームランを打った場合と近鉄が勝利した場合、花火がバックスクリーンから打ち上げられた。
- LED式メッセージボード
- 外野スタンド右中間寄りにあり、打率・本塁打数、球速などを表示した。
- 他球場の経過速報板
- 外野スタンド右翼ポール際にあり、パネル式。
- 防音フェンス
- 外野スタンド後方に高さ5m(うち上部2mは昇降式)、内野・外野スタンド間に高さ14m(うち上部5mは昇降式)、幅35m
- 球友寮
- 敷地内のライトスタンド裏にあった大阪近鉄バファローズの選手寮。初代の建物は老朽化が進んだため、2000年10月におよそ4億円の費用をかけて建て替えられた。その建物は今も現存しており、大阪女子短期大学の教育研修センターとなっている。
- 室内練習場
- 敷地内の球場東側に隣接。
[編集] 球場の狭さ
1980年代以降、他の野球場の大型化が進んだため、藤井寺球場は「狭くてホームランが出やすい球場」と言われた。実際、1980年10月3日の近鉄対ロッテ戦では13本の本塁打を記録し、1試合の最多本塁打プロ野球タイ記録となった。高さ2mの外野フェンスの上に高さ3mの金網を設けたが、狭い球場というイメージは払拭できなかった。
[編集] 関連項目
- 以下、「近鉄藤井寺球場」(リダイレクトページ)に関するカテゴリ。
[編集] 本拠地の変遷
前本拠地: n/a - |
近鉄パールスの本拠地 1950 - (シーズン途中まで) |
次本拠地: 大阪球場 1950 - 1957 |
前本拠地: 日本生命球場 1958 - 1983 |
近鉄バファローズの本拠地 1984 - 1996 |
次本拠地: 大阪ドーム 1997 - 2004 |
- ※参考
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