クリストファー・コロンブス
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クリストファー・コロンブス(1451年頃 - 1506年5月20日)はイタリアのジェノヴァ出身の探検家・航海者・商人。大航海時代において最初にアメリカ海域へ到達したヨーロッパ人である。
本人は、死ぬまでたどり着いた場所をアジアだと信じて疑わなかったという。
日本語では「クリストファー・コロンブス」の表記が定着しているが、他国には通用しないことが多い。イタリア語名(本名)はクリストフォロ・コロンボ (Cristoforo Colombo)、スペイン語(カスティリャ語)名はクリストバル・コロン (Cristóbal Colón)、ラテン語ではクリストフォルス・コルンブス (Christophorus Columbus)、英語ではクリストファー・コランバス (Christopher Columbus) である。日本語の表記はどの言語にもない発音に基いている。
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[編集] 生涯
[編集] 前歴
毛織物業を営むドメニコ・コロンボの息子として1451年に生まれたとの文書があるが、これについては異説も多く、はっきりした事は解らない。出身地に関してもスペイン、イタリア北部等諸説がありはっきりしていない。学会では少数ながらユダヤ人の出身であるという説も唱えられている。若い頃から航海に関わっていたようではあるが、これも良く解らない。エーゲ海のキオス島へ交易航海に出たりしたといわれるが、はっきりしない。
1476年に航海に出た際に、乗船が戦争に巻き込まれて沈没し、弟のバルトロメがいるリスボンに身を寄せたという。アジアを目指していたかどうかは杳として解らないが、1477年に大西洋の向こう側の知識を求めアイスランドへ渡航した。1479年に結婚している。
このリスボンでトスカネッリの地球球体説に影響され、自分の航海経験を加味して西へ西へ進み続ければアジアへと到達できると言う考えに達した。この時にコロンブスが想定していた地球像は実際のものより二割ほど小さいものであった。
[編集] 栄光
1484年、ポルトガルのジョアン2世に航海のための援助を求めるが断られる。その頃ポルトガルは東回りの航路によってアフリカの喜望峰に達しており、わざわざ新しい航路を開拓しなくてもインドに着くと考えられていたからである。1486年にカスティーリャのイサベル1世とその夫フェルナンド5世(アラゴン王としてはフェルナンド2世)にも援助を願い出るが、良い返事は得られなかった。
当時のスペインではイスラム勢力が占拠するグラナダを攻めるために準備を整えており、コロンブスに対する援助が出来ないのも当然であった。しかし1492年にスペインはグラナダを攻め落とし、レコンキスタを完遂するとコロンブスも援助を得ることが出来た。なおイサベル1世自身の援助は、自身の指輪一つだけだったと言われる。
1492年8月3日、大西洋をインドを目指してパロス港を出航した。この時の編成はキャラベル船ニーニャ号とピンタ号、ナオ船のサンタ・マリア号の3隻で総乗組員数は約90人(120人と言う説も)。
一旦、カナリア諸島へ寄り、大航海の準備を整えた後、一気に西進した。行けども行けども海、大西洋は極端に島の少ない大洋であり、船員の間には次第に不安が募っていった。当時の最新科学では地球が球体であるということはほぼ常識となっていたが、船員の間では地球を平面とする旧来の考えも根強く残っていた。
コロンブス自身は平気な振りをしていたが、コロンブスの計算を越えて長い航海となり、コロンブスも不安を感じるようになる。10月6日には小規模な暴動が起こり、3日後には船員の不安は頂点に達し、コロンブスに迫って「後3日で陸地が見つからなかったら引き返す」と約束させた。
そして10月11日の日付が変わろうとする時、ピンタ号の水夫が陸地を発見した。翌朝、コロンブスはその島に上陸し、ここを占領してサン・サルバドル島と名づける。その後、いくつかの小さな島を見つけた後、現在のキューバ島を発見し、ここをフアナ島と名づけた。
その後、同船船長であるマルティン・アロンソ・ピンソンの独断によりピンタ号が一時離脱してしまうが、12月6日にはイスパニョーラ島を発見。24日にサンタ・マリア号が座礁してしまうトラブルが起きる。しかしその残骸を利用して要塞を作り、アメリカに於けるスペイン初の植民地を作った。
年が明け、1493年1月6日にピンタ号と再び合流する。1月16日、スペインへの帰還を命じ、3月15日にパロス港へ帰還した。
帰還したコロンブスを歓迎して宮殿では盛大な式典が開かれた。コロンブスは航海に先んじて、発見地の総督職、世襲提督の地位、発見地から上がる収益の10分の1を貰う契約を交わしていた。また陸地を発見した者には賞金が王夫婦からかけられていたのだが、コロンブスは自分が先に発見したと言い張り、これをせしめている。
コロンブスの成功を妬む人に対して、コロンブスが卵を机に立ててみよと言い返し、誰も出来なかった後でコロンブスは軽く卵の先を割ってから机に立て、「人のした後では造作もないことだ」と言った。これが有名な「コロンブスの卵」の逸話であるが、創作である。
[編集] 挫折
同じ年の9月に17隻・1500人で出発した2度目の航海はその乗員の中に農民や坑夫を含み、植民目的であった。11月にドミニカ島に到着したが、前回作った居留地に行ってみると現地人により破壊されており、残した人間は全て殺されていた(もっとも、その人間たちも現地人を虐殺し強姦したのであるが)。コロンブスはここを放棄して新しくイサベル植民地を築いた。
しかし植民の間では植民地での生活に不満が立ち上り、現地人の間でもヨーロッパ人の行為に対して怒りが重積していた。1495年に現地人との戦いに勝利した後、捕らえた現地人を奴隷として本国に送るが、イザベル女王はこれを送り返し、コロンブスの統治に対する調査委員を派遣した。驚いたコロンブスは慌てて本国へ戻って釈明し、罪は免れた。
1498年5月、6隻の船で3度目の航海に出る。今度は南よりの航路を取り、現在のベネズエラのオリノコ川の河口に上陸した。その後、北上してサントドミンゴに着くと後を任せていた弟・バルトロメの統治の悪さから反乱が起きていた。コロンブスは説得を続けるが、入植者たちはこれを中々受け入れず、1500年8月に本国から来た査察官により逮捕され、本国へと送還された。罪に問われる事は免れたものの全ての地位を剥奪される。
それでもコロンブスは4度目となる航海を企画するが、王からの援助は小型のボロ舟四隻というものであった。1502年に出航したが、イスパニョーラ島への寄港は禁じられており、パナマ周辺を6か月さまよったが、最後は難破して救助され、1504年11月にスペインへ戻った。
帰国後は病気になり、1506年5月20日スペインのバリャドリッドにて死去。その最後まで自らが発見した島をアジアだと信じて疑わなかったという。遺骨はセビリャの修道院に納められたが1542年にサントドミンゴの大聖堂に移された。
[編集] 航海などの関係略年表
- 1492年
- 8月3日 第1回航海出発(~1493年3月15日)
- 10月12日 バハマ諸島グァナハニ島に到達
- 10月28日 キューバ島着
- 12月6日 イスパニョーラ島着
- 1493年
- 9月25日 第2回航海出発(~1496年6月11日)
- 1494年
- 6月7日 トルデシリャス条約によりスペインとポルトガルの境界線画定
- 1496年
- 8月 サント・ドミンゴ市の建設
- 5月30日 第3回航海出発(~1500年10月)
- 1502年
- 5月9日 第4回航海出発(~1504年11月7日)
- 1503年
- 2月14日 スペイン、植民地との貿易を統括する通商院をセビリャに設置
- 12月20日 エンコミエンダ制、イスパニョーラ島で公認
- 1505年
- イスパニョーラ島に黒人奴隷導入
[編集] その他
コロンブスに関してはその出自が明らかではない事、また大航海の目的自体があまり明確に語り継がれていない事等から様々な異聞が流れさている。
多く語られているものとしてはコロンブス=ユダヤ人の片親から生まれたのではないか?とする奇説。
また1492年スペイン王家は同国内に住むユダヤ人に対し8月2日を期限とする国外追放令を発布したが、一方コロンブスがスペイン王家の支援を受けて出航したのは翌8月3日である。この事からコロンブス出航の真の目的はユダヤ人の移住地探しではないか?―とする奇説も。しかし、2つの仮説を支持する研究者は少ない。
また、残されている肖像画は全て本人の死後に描かれたものであり、今となってはコロンブスの真の素顔を知る術は無い。
[編集] 関連項目
- 航海に参加した船
- サンタ・マリア号 - 新大陸への最初の航海における旗艦。
- ピンタ号 - 新大陸への最初の航海に参加。船長はマルティン・アロンソ・ピンソン
- ニーニャ号 - 第3回までの3つの航海に参加。第1回の時の船長はビセンテ・ヤーニェス・ピンソン
- コロンビア - コロンブスの名に由来して命名された国
- クリストバル・コロン山 - コロンビア北部の山
- コロンビア (曖昧さ回避) - その他、コロンブスの名に由来するものの一覧
- レイフ・エリクソン - コロンブス以前に北米へ達していたノルマン人
- アイスランドへ赴いた理由は、アイスランドの伝承「サーガ」を閲覧するのが目的だったと言われている。