ハワイ王国
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ハワイ王国(Kingdom of Hawai‘i)は、1810年から1893年まで、ハワイ諸島にあった王国(建国宣言は1795年)である。1893年の革命で共和制となり、1898年にはアメリカ合衆国に併合され消滅した。政治的には立憲君主制をとった。
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[編集] 政治体制
1840年の憲法制定により、ハワイ王国は国王の任命する貴族院と、国民の直接投票で選ばれる下院の二院制をとった。この憲法により、司法部がつくれらた。最高裁判所長官は国王が任命した。各地方は国王の任命する知事が管轄した。元首は国王で、大臣を集めた会議を開いて行政を行った。
[編集] カメハメハ王朝
- カメハメハ1世 Kamehameha I, (在位1795年-1819年)
- カメハメハ2世 Kamehameha II, Liholiho, (在位1819年-1824年)
- カメハメハ3世 Kamehameha III, Kauikeaouli, (在位1825年-1854年)
- カメハメハ4世 Kamehameha IV, Alexander Liholiho, (在位1854年-1863年)
- カメハメハ5世 Kamehameha V, Lot Kapuiwa, (在位1863年-1872年)
初期のハワイ王国は、初代カメハメハ1世(カメハメハ大王)とその子孫によって統治された。特に2世と3世は初代王の息子である。
カメハメハ1世は、白人から入手した武器を利用して領土を広げ、1795年、ハワイ王国の建国を宣言した。この後、1810年にハワイ全土を統一した。これ以前、ハワイはそれぞれの地方ごとに有力者が統治していた。
カメハメハ2世の時代にキリスト教の宣教師が相次いでハワイを訪れ、キリスト教化が進んだ。逆に、ハワイの古くからの宗教は衰退した。
カメハメハ3世の時代、1840年に憲法が制定され、近代国家としての体裁が整うと、各国が相次いでハワイ王国を承認。名実ともに独立国家として認められるようになった。憲法制定に当たっては、特に当時世界最大の君主国であったイギリスを手本にしたとされている。この後もハワイ王国はイギリス寄りの外交を行った。
カメハメハ家による統治は、1872年のカメハメハ5世ロットの死去によって終わった。ロットは、王女Bernice Pauahiを呼び出し、王冠を託したが、彼女にはすでに家庭があり、即位を拒否した。ロットは代わりの次王を任命する前に死去した。
[編集] 選挙君主制
カメハメハ5世ロットの死去後、王国司法部は国王選挙が行われなければならないと宣言した。議会での選挙で選ばれた国王は次のとおり
[編集] カラカウア王朝
ルナリロ王もまた先代王と同じように、次代王を指名せず、また、即位から1年を経ることなく不慮の死去を遂げた。司法部は再び国王選挙の開始を宣言した。この選挙は、ハワイにおいてもっとも汚らしい選挙といわれた。結果、カラカウア(David Kalakaua)が激しい中傷合戦を制し、当選して国王となった(在位1874年-1891年)。
カラカウア王は、王位継承に関する混乱を防ぐため、あらかじめリリウオカラニ(Liliuokalani、在位1891年-1893年)を次期王候補に指名した後、死去した。
[編集] 王国の滅亡
アメリカ合衆国からの入植者が増え、サトウキビ栽培や輸出などによって経済的にも力をつけはじめると、よりアメリカ寄りの政治を求める声が特に経済界から強くなりつつあった。1887年、クーデターがあり、カラカウア王は修正憲法の成立を承認せざるを得なくなった。この修正憲法により、国王の権限は制限され、王国はアメリカ合衆国の属国化することを余儀なくされていた。王国の滅亡はこれにはじまる。
1893年1月16日、アメリカと関連の深いサトウキビを扱う業者らが、さらにアメリカ寄りの政権をうちたてるため、政権の転覆を計画した。
アメリカ海軍艦USSボストンは、サンフォード・ドール(Sanford B. Dole)とLorrin A. Thurstonを保護する名目で1893年、ホノルルに到着。リリウオカラニ女王は幽閉状態となった。
1月17日、ドールは臨時政府をうちたて、王政の廃止を宣言した。翌年1月16日、リリウオカラニを、私邸から大量の武器が発見されたという理由で逮捕。7月4日、ドールは共和制ハワイ国の建国を宣言した。ドールは同国の初代の、そして最後の大統領となった。ドールの主な業績は、ハワイをアメリカ合衆国に併合する条約をつくったことだった。この条約が成立したとき、ドールはハワイ準州の初代知事に任命された。
1898年8月12日、時の米大統領ウィリアム・マッキンリーはハワイの米国領への編入を宣言。この日、イオラニ宮殿に掲げられていたハワイ王国国旗が下げられ、星条旗が揚げられた。古来のハワイ住民らはこのとき、悲しみの声をあげたという。そしてこの瞬間、ハワイは米国の準州となった。
準州となった後も、表向きハワイは米国の領土として扱われる事は無かったが、名実ともに米領へと変貌していく。これは準州知事が設置されていながら、米自治領という形がとられたためであった。ハワイが、完全に米領土となったのは、1959年8月21日の事である。50番目の州としてハワイ州が成立したためである。
[編集] 日本との関連
1867年、日本・ハワイ親善協定締結。外交関係が樹立した。1868年には民間の第1号移民団(153名)がハワイに渡った。ハワイ王国はこの後も日本からの移民を積極的に受け入れていた。このため、21世紀の現在でも、ハワイには日系人が多い。東京にはハワイ王国公使もいた。また、7代王カラカウアも1881年に日本を訪問している。1884年には日本・ハワイ移民協約が締結され、官製移民団が組織されるようになった。官製の移民は、翌1885年に始まり、1894年まで続き、総計29339人がハワイに渡った。
1893年、王政廃止に至り、明治政府は「在留邦人保護」を名目として、巡洋艦「浪速」(艦長:東郷平八郎大佐)、「金剛」をホノルル港に入港せしめ、新政権を牽制した。東郷は新政権との接触を避け、リリウオカラニ廃王にのみ謁見した。
- 日本天皇家の山階宮定麿王とハワイ王家との関係
1881年、世界一周旅行で、来日したハワイ王のカラカウアは、ハワイ王国の安泰のため、姪のカイウラニ王女を山階宮定麿王にとの縁談を日本政府に持ち出した。日本政府は、アメリカとの対立を避けるために、この縁談を「良友 睦仁」の御筆の入った親書を持って丁重に断った。もし、この縁談が実っていたら、ハワイ王国は、もっと長く存続していたであろうとされている。その一方、太平洋戦争が早まった可能性や、日露戦争におけるアメリカの好意的中立を得ることもできず、ハワイとともに日本も列強の植民地にされた可能性も指摘されている。
[編集] 関連項目
- ドール社
- ハワイ神話