ハンナ・アーレント
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ハンナ・アーレント(Hannah Arendt, 1906年10月14日 - 1975年12月4日)は、ドイツ出身のアメリカ合衆国の政治哲学者、政治思想家。
小惑星100027 Hannaharendt、は彼女に敬意を表して命名された。
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[編集] 生涯
[編集] 幼年時代
ドイツ、ケーニヒスベルク(Königsberg)の旧い家柄である、ドイツ系ユダヤ人のアーレント家に生まれる。出生地はハノーファー郊外のリンデン。
父は工学士の学位を持ち、電気工事会社勤務のパウル・アーレント、母はマルタ・アーレント。両親ともに社会主義者であった。
パウル・アーレントはギリシアやラテンの古典についての深い造詣を持つ教養人で、ハンナの読書は彼の蔵書から始まった。マルタ・アーレントは注意深くアーレントを育て、詳細な育児記録が残っている。それによると、幼いハンナは一人でいることを好まず、好奇心が強く、知的にきわめて早熟で、言葉や数学に対しては高い理解力を見せ、音楽を好みつつ音痴だったという。
両親ともに信仰を持たなかったが、家族ぐるみの付き合いであったラビのフォーゲルシュタインのシナゴーグに、幼いハンナは通うことになる。一方、法律的な義務からキリスト教の日曜学校にも通うことになり、またアーレント家のキリスト教徒のメイドたちからの影響も大きく、彼女の宗教観は複雑な発展をみせる。もっとも、後年友人であるアルフレッド・カジンに対し、「子供の時以来、自分はいかなる時でも神の存在を疑ったことはない」(Kazin "New York Jew" p199)と述べたことからもわかるように、確実にある種の信仰は生涯通じて持ち続けたようだ。
15歳の折、当時在学中だったルイーゼシューレにおいて、ある若い教師の授業をクラスメートと共にボイコットし、放校処分になる。その後二学期間ベルリン大学で学ぶが、その際、神学教授のグァルディーニによるキルケゴールの授業に深い影響を受ける。それから更に半年間の独学期間を経て、1924年、18歳にして大学入学資格試験に合格、晴れてマールブルク大学において本格的な勉学を開始する。
[編集] 大学時代
1924年の秋、マールブルク大学でマルティン・ハイデッガーと出会う。これにより、アレントは哲学に没頭することになる。本人はこの哲学へののめりこみを、「初めての情事」という形で表現している(『ハンナ・アーレント伝』p87)。(当時既婚であったハイデッガーとは一時恋愛関係にあり、2人の往復書簡は公刊されている。)また、ここで出会ったハンス・ヨナスとは終生の友人となり、同大学において共にルドルフ・ブルトマンの新約聖書のゼミを受講する。
その後、フライブルク大学のフッサールのもとで一学期間を過ごした後、ハイデルベルク大学に赴き、ヤスパースの指導を受ける。博士論文は、『アウグスティヌスの愛の概念』。
1929年9月、ギュンター・シュテルンと結婚。1931年にはフランクフルトに引越し、カール・マンハイムやパウル・ティリッヒの講義やゼミナールに参加する。ラーエル・ファルンハーゲンの研究は、この時期になされた。
[編集] ナチズム以降
ナチスの政権獲得によるユダヤ人迫害を逃れるため1933年にフランスに亡命、第二次世界大戦が始まり1941年にフランスがドイツに降伏すると、アーレントはアメリカ合衆国に亡命した。そして1951年に彼女は『全体主義の起原』(The Origins of Totalitarianism)を表し、全体主義について分析した。その後も、みずから経験した全体主義およびそれを生み出すにいたった西欧の政治思想を考察した。
1975年12月4日、自宅にて心臓発作により死亡。
[編集] 思想
[編集] 問題意識
本来、彼女の関心は哲学にあったものの、身をもって経験した全体主義の衝撃―「起こってはならないことが起こってしまった」―から、政治についての思索を開始するに至った。
彼女は1945年の時点で、以下のような発言をしている。
「リアリティとは、「ナチは私たち自身のように人間である」ということだ。つまり悪夢は、人間が何をなすことができるかということを、彼らが疑いなく証明したということである。言いかえれば、悪の問題はヨーロッパの戦後の知的生活の根本問題となるだろう…」 (「悪夢と逃避」 『アレント政治思想集成』 vol.1. p.182)
言ってみれば、彼女の政治哲学の原点は「人間のなしうる事柄、世界がそうありうる事態に対する言語を絶した恐れ」(「近年のヨーロッパ哲学思想における政治への関心」 『アレント政治思想集成』p.300)であったということがいえるだろう。なぜ人間にあのような行為が可能であったのかという深刻なショックと問題意識から、彼女は政治現象としての全体主義の分析と、その悪を人びとが積極的に担った原因について考え続けることになる。
[編集] 方法論
[編集] 活動的生活
彼女は、人間の生活を「観照的生活」(vita contemplativa)と「活動的生活」(vita activa)の二つに分ける事ができる、と主張している。観照的生活とは、プラトンの主張するような永遠の真理を探究する哲学者の生活である。これに対し活動的生活とは、あらゆる人間の活動力を合わせたものである。活動的生活は主として、活動、仕事、労働の三つに分ける事ができる。
[編集] 評議会制
アーレントは『革命について』で政党制を排した議会制度としての評議会制を肯定的に検討した。
[編集] エピソード・人となり
- 終生にわたって朝の過ごし方を非常に重視し、ゆっくり起床した後に何杯ものコーヒーを飲むことを日課としていた。その習慣を貫くために、学生時代は朝の八時からのギリシア語の授業に出席することを拒否し、学校当局と悶着を起こした。交渉の結果、特別の難しい試験を受けることを条件に、独学での勉強を許可されたという。(『ハンナ・アーレント伝』p.72)
- アドルノに対しては、家に入れることすら厭うほどの嫌悪感を抱いていた。
- マールブルク大学時代、一人暮らしをしていた屋根裏部屋のネズミを手なずけ、来客があると呼び出してエサを食べさせていた。ヨナスに対して、「このネズミは自分と同じようにひとりぼっちなの」と語ったという。(『ハンナ・アーレント伝』p.106)
[編集] 邦訳著作
[編集] 単著
- 『革命について』(合同出版, 1968年/中央公論社, 1975年/筑摩書房[ちくま学芸文庫], 1995年)
- 『イエルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』(みすず書房, 1969年)
- 『歴史の意味』(合同出版, 1970年)
- 『暗い時代の人々』(河出書房新社, 1972年/筑摩書房[ちくま学芸文庫], 2005年)
- 『全体主義の起原(1-3)』(みすず書房, 1972年)
- 『暴力について』(みすず書房, 1973年/みすずライブラリー, 2000年)
- 『人間の条件』(中央公論社, 1973年/筑摩書房[ちくま学芸文庫], 1994年)
- 『カント政治哲学の講義』(法政大学出版局, 1987年)
- 『過去と未来の間――政治思想への8試論』(みすず書房, 1994年)
- 『精神の生活(1・2)』(岩波書店, 1994年)
- 『ラーエル・ファルンハーゲン――ドイツ・ロマン派のあるユダヤ女性の伝記』(みすず書房, 1999年)
- 『アーレント政治思想集成(1・2)』(みすず書房, 2002年)
- 『暗い時代の人間性について』(情況出版, 2002年)
- 『アウグスティヌスの愛の概念』(みすず書房, 2002年)
- 『カール・マルクスと西欧政治思想の伝統』(大月書店, 2002年)
- 『政治とは何か』(岩波書店, 2004年)
- 『思索日記(1)1950-1953』(法政大学出版局, 2006年)
- 『思索日記(2)1953-1973』(法政大学出版局, 2006年)
- 『責任と判断』(筑摩書房, 2007年)
[編集] 共著
- (メアリー・マッカーシー)『アーレント=マッカーシー往復書簡――知的生活のスカウトたち』(法政大学出版局, 1999年)
- (マルティン・ハイデガー)『アーレント=ハイデガー往復書簡――1925-1975』(みすず書房, 2003年)
[編集] 主要二次文献
- (マーガレット・カノヴァン)『アレント・政治思想の再解釈』(未来社, 2004年)
- (エリザベス・ヤング=ブルーエル) 『ハンナ・アーレント伝』(晶文社, 1999年)
- (千葉眞) 『アーレントと現代――自由の政治とその展望』(岩波書店, 1996年)
- (寺島俊穂) 『生と思想の政治学―ハンナ・アレントの思想形成』(芦書房, 1990年)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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