フリードリヒ・パウルス
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フリードリヒ・ヴィルヘルム・エルンスト・フォン・パウルス(Friedrich Wilhelm Ernst von Paulus, 1890年9月23日 - 1957年2月1日)は第二次世界大戦においてスターリングラードに包囲され、捕虜になったドイツ陸軍元帥。
1890年、ドイツのヘッセン州の下級役人の家に生まれた。1912年士官学校同期のルーマニア貴族の妹と結婚する。ドイツの将軍や将校は貴族階級の出身者が多く、貴族階級を示す「von」を持っていた。 しかし、自身は貴族ではない出自ながらも優れた才能をもっている点がヒトラーの共感を得ることなり、軍隊で昇進し得た理由の一つとなった。
1939年、ドイツ第10軍の参謀長となり、同年9月1日のポーランド侵攻で優れた働きを見せた。その後、ソ連へ侵攻する「バルバロッサ」作戦の立案に参画し、1941年6月、第10軍を改組して出来た第6軍の参謀長として同作戦に出陣した。1942年1月、以前より意思の通じていたフォン・ライヘナウ元帥の推薦により、第6軍司令官に任命された。
1942年夏、ブラウ作戦が発動され、第6軍はスターリングラードを包囲した。ヒトラーは、戦略的にはあまり重要ではないこの都市の占領に固執し、本格的な攻略を命令した。ソ連軍の抵抗は予想以上に激しく、不慣れな市街戦に一進一退の攻防が繰り広げられた。
第6軍は、1942年冬には逆にスターリングラードで孤立させられてしまった。この時点におけるパウルスの判断は、スターリングラードから軍を脱出させるというものであったが、「どんな状況に陥ってもスターリングラードを死守しろ」というヒトラーの命令に従い続けた。
ゲーリングは孤立した第6軍を空軍による物資の空輸で支援すると約束するが不十分な中、1942年12月彼らを救出するための「冬の嵐」作戦が始まった。エーリヒ・フォン・マンシュタイン配下のドン軍集団による第6軍救出の試みは、それに呼応して包囲を突破するというパウルスの提案がヒトラーに却下されたこともあり、失敗した。
1943年1月、ジューコフ将軍率いる赤軍の大攻勢を受けて降伏に傾くパウルスに対して、1月30日ヒトラーはパウルスを元帥に昇進させた。かつてドイツ軍の元帥で降伏した者は一人もおらず、その意味することは、スターリングラードを死守し、玉砕することであった。しかしながら、パウルスはヒトラーが暗に示したような最期を遂げることを拒み、1月31日残存将兵9万人とともにソ連軍に降伏した。ヒトラーは自分の命令なしに勝手に降伏したパウルスの行為を裏切りと感じ、激怒したという。
パウルスは、ソ連の捕虜となった後はナチスに対する強い批判者となって、ドイツ共産党の指導する自由ドイツ国民委員会(de)やドイツ将校同盟(de)に名を連ねた。 ニュルンベルク裁判では、ナチス・ドイツの戦争犯罪を告発する検察側の証人として出廷した。 1953年、抑留から解放され、東ドイツに移住したのち、警察の職にあったが、1957年死去した。
ヒトラーへの追従により脱出の決断を下せず、兵士たちを救わなかったこと、その後反ナチスへ転換したことなどから、現在でも彼に対する歴史的評価は分かれている。
カテゴリ: ドイツ第三帝国の軍人 | 1890年生 | 1957年没