ベティ・フォード
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エリザベス・アン・ブルーマー・ウォレン・フォード (Elizabeth Ann "Betty" Bloomer Warren Ford, 1918年4月8日 - )は、ジェラルド・R・フォードアメリカ合衆国大統領の妻で、1974年から1977年までアメリカのファーストレディであった。
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[編集] 生い立ち
エリザベス・アン (ベティ)・ブルーマーはイリノイ州シカゴで産業供給セールスマンのウィリアム・スティーブンソン・ブルーマーとホーテンス・ネラー夫妻の間に生まれた。彼女には二人の兄ロバートとウィリアムジュニアがいる。
彼女はミシガン州グランドラピッズで三歳から高校卒業までそこで暮らした。彼女はカラー・トラヴィス・ダンス・スタジオでダンスを学び、1935年に卒業している。
1929年の世界恐慌の後、ベティは11歳だったがそのころから洋服モデルをしたり、他の子供たちや友達にダンス(例えば、フォックストロット、ワルツとビッグアップル)を教え始めた。不況時代に自立した女性の代表であった当時のファーストレディ、エレノア・ルーズベルトはベティに大きな影響を与えた。
ベティが16歳の時に父親が一酸化炭素中毒事故で死去する。1936年に彼女はグランドラピッズ中央高校を卒業し、ニューヨークでダンスを学びたがったが、母親はそれを認めなかった。代わりに彼女はバーモント州ベニントンのベニントンスクール・オブ・ダンスで二夏学んだ。同校で彼女はマーサ・グレアムの下で学んだが、マーサは厳格な教師で彼女はベティの生活を形作った。ベティはマーサに生涯共に働きたいと尋ね、マーサは喜んでそれに同意した。
ベティ・ブルーマーはマンハッタンのチェルシーに移り、ジョン・ロバート・パワーズの会社でファッションモデルとして働いた。彼女はマーサ・グレアムへの支払いのため帽子やドレスのモデルを演じた。彼女はまたグレアムの補助の一員として選ばれ、カーネギー・ホールへ出演した。
ベティの母親ホーテンスは娘がモデルとして働くことに反対し、家へ戻るよう主張した。しかしベティは抵抗し、彼女らは最終的に妥協した。ベティは半年間家に戻ることとし、その間に職が見つからなければ再びニューヨークで働くこととなった。
母親はニューヨークからグランドラピッズへ返るようにベティに促し、彼女は1941年に戻るとハーポルシェイマーズ・デパートのファッション・コーディネーターとなる。さらに、彼女は自分のダンス同好会と、障害児へのダンス教室を設立した。
彼女はグランドラピッズの各所でダンスを教え、デパートのファッション部門の助手となり、様々な活動を行った。
[編集] 結婚と家族
ベティは1942年に、12歳の時からの知り合いであった家具セールスマンのウィリアム (ビル)・G・ウォーレンと結婚した。彼女の母親と継父(アーサー・ゴドウィン)は彼らの結婚を認めなかったが、最後には不承不承に認めることとなった。しかしながらベティとビルは性格の不一致を理由に1947年離婚した。
その後間もなく、彼女はミシガン大とイェール大法学部の卒業生でフットボール・スター、後の下院議員候補ジェラルド・フォードと交際を始める。1948年10月15日に二人はミシガン州グランドラピッズのグレース監督教会で結婚した
フォードは当時下院選に出馬していた。これが最終的に第38代大統領に就任するフォードの最初の選挙戦で、フォード一家はこの後約30年にわたって首都ワシントンD.C.で生活することになる。
彼女は三人の息子と一人の娘を産んだ。
- マイケル・ジェラルド・フォード(1950年 - )
- ジョン・ガードナー・ジャック・フォード(1952年 - )ジャーナリスト、広報アシスタント
- スティーヴン・メイグス・フォード(1956年 - )俳優、ロデオライダー
- スーザン・エリザベス・フォード(1957年 - )カメラマン
2005年時点で夫妻には七人の孫がいる。
[編集] ファーストレディー
1973年にニクソン大統領はジェラルド・フォードを副大統領に指名したが、翌1974年に大統領を辞任、フォードが大統領に昇任することとなった。
ファーストレディーとしてベティは、政治的な問題やその他の問題に関して自らの考えを進んで公表することを望んだ。彼女は過去の心理療法の体験を公に明らかにし、マリファナの使用や婚前交渉に関して肯定的な意見を述べた。また、テレビでホワイトハウスでの公式訪問中に大統領とベッドを共にしたことも話した。特に論争の的になった『60 Minutes』でのインタビューの後には、幾人かの保守主義者は彼女を「No Lady」と呼び、「辞職」を要求した。しかし一般世論では彼女の支持率は75%に及んだ。
さらに彼女は女性の権利の率直な主張者で、男女平等憲法修正案および中絶の合法化を支援した。フォード大統領が彼女と意見を共にしたかは不明であるが、大統領は妻の妊娠中絶合法化支持で党内保守派に批判されたとインタビュアーのラリー・キングに語っている。
ベティはファーストレディーになった直後、乳がんで乳房切除術を経験した。この体験に関する彼女の率直な見解はアメリカ国民が以前進んで語ることの無かった疾病への関心を高めることとなった。彼女は乳癌早期発見の重要性を認識し、その後啓発活動に努めた。
彼女はまた、芸術活動への支援も精力的に行ったファーストレディであった。彼女の努力によって、マーサ・グレアムは自由勲章を受章した最初の舞踏家となった。
[編集] ベティ・フォード・センター
1978年に彼女はアルコール中毒と鎮痛薬への慢性中毒となり、家族によって治療入院させられることとなる。回復後に彼女は薬物依存の治療機関、ベティ・フォード・センターをカリフォルニア州ランチョ・ミラージュに1982年設立した。彼女の薬物乱用やその治療に関する率直な感想は、アメリカ国民がそのような問題に直面した際どのようにすべきかを改善することとなった。ベティ・フォード・センターは治療を求める女性や著名人にとって特に魅力的な機関であった。彼女は1987年の著書『依存症から回復した大統領夫人 A Glad Awakening』でこの全プロセスについて詳しく述べている。
2003年に彼女は『Healing and Hope: Six Women from the Betty Ford Center Share Their Powerful Journeys of Addiction and Recovery』を出版した。2005年現在、彼女はベティ・フォード・センターの会長として積極的な活動を続けている。
なお、アルコール・薬物依存の治療に対する彼女の積極的な取り組みにより、今日アメリカでは「ベティフォード」という言葉が、こうした治療機関を表わす一般名詞として使用されるまでに普及している。例えば、"You need to go to Betty Ford" (「君はベティフォードへ行く必要がある」) と言えば、それは「君は依存症の治療を受ける必要がある」という意味になる。ファーストレディーの名前のみならず、個人の名前がこうして一般名詞として定着した例はあまりない。
[編集] 後年
1978年に彼女は自叙伝『The Times of My Life』を出版している。1987年にはミシガン女性の栄誉の殿堂入りした。
1999年には夫と共に「公共へのひたむきな奉仕と、アメリカ合衆国の人々への顕著で人道的な貢献」で議会金メダルを受賞している。[1]
[編集] 著書
- 『依存症から回復した大統領夫人』ベティ・フォード 著、水沢都加佐・二宮千寿子 翻訳
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