モンテレー (空母)
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艦歴 | |
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起工: | 1941年12月29日 |
進水: | 1943年2月28日 |
就役: | 1943年6月17日 |
退役: | 1956年1月16日 |
その後: | スクラップとして売却。 |
性能諸元 | |
排水量: | 11,000 トン |
全長: | 622.5 ft (189.7m) |
艦幅: | 71.5 ft(21.8m)(水線) |
全幅: | 109.2 ft(33.3m) |
吃水: | 26 ft(7.9m) |
最大速: | 31.6 ノット |
乗員: | 士官、兵員1,569名 |
兵装: | 40mm機銃26基、20mm機銃20基 |
艦載機: | 45 |
モンテレー(USS Monterey, CVL-26)は、アメリカ海軍の航空母艦。インディペンデンス級航空母艦の5番艦。艦名は米墨戦争におけるモンテレーの戦いに因む。その名を持つ艦としては三隻目。
モンテレーはニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船所で1941年12月29日に軽巡洋艦デートン(USS Dayton, CL-78)として起工する。1942年3月27日に CV-26 に艦種変更、3月31日にモンテレーへ艦名変更する。1943年2月28日にP・N・L・ベリンガー夫人によって命名、進水し、1943年6月17日にレスター・T・ハント艦長の指揮下で就役する。
モンテレーは1943年7月15日に CVL-26 に再び艦種変更され、整調航海の後に太平洋西部に向けてフィラデルフィアを出港した。1943年11月19日にギルバート諸島に到着、マキン島への支援を行う。12月25日に第37.2機動部隊の一部としてニューアイルランド島のカビエング攻撃に参加、1944年2月8日までクェゼリン環礁とエニウェトク環礁への上陸支援を行う。その後第58空母機動部隊と共にカロリン諸島、マリアナ諸島、北ニューギニアおよび小笠原諸島への攻撃を2月から7月まで行う。この間に4月29日、30日にマリアナ沖海戦に参加している。
その後モンテレーはオーバーホールのため真珠湾へ入港し、8月29日に出港した。9月3日にウェーキ島に対する攻撃を行い、続いて第38空母機動部隊に合流して南フィリピンおよび沖縄への攻撃に参加した。1944年10月から12月までをフィリピンで過ごし、レイテ島攻撃やミンドロ島上陸を支援した。
12月にモンテレーは台風を避けるため出港する。暴風は100ノットにも達し、二日間の嵐でいくつかの艦載機は固定用のケーブルによって機体が引き裂かれ、格納庫で火災が数件発生した。この嵐の間に、モンテレーに配属されていた後の大統領ジェラルド・フォードは艦外に吹き飛ばされる寸前であった。モンテレーはオーバーホールのため1945年1月にワシントン州ブレマートンに到着する。その後第58空母機動部隊に再合流し、沖縄攻略支援のため5月9日から6月1日まで南西諸島及び九州に対する攻撃を行った。続いて第38空母機動部隊に合流し、7月1日から8月15日まで本州と北海道に対する最終攻撃を行っている。
戦争が終わるとモンテレーは日本海域を9月7日に離れる。東京湾で復員兵を乗せ、10月17日にニューヨークへ到着する。モンテレーの輝かしい戦績は、艦載機による五隻の敵艦撃沈、数千トンにも及ぶ多くの艦艇の破壊、数百機の敵機の破壊と工業設備破壊であった。モンテレーはマジック・カーペット作戦に従事し、ナポリとノーフォークの間を数回往復した。1947年2月11日に予備役となり、大西洋予備役艦隊入りしフィラデルフィアで保管される。
朝鮮戦争が発生するとモンテレーは1950年9月15日に再就役する。1951年1月3日にノーフォークを出港し、フロリダ州ペンサコラで続く四年間にわたって何千もの海軍航空士官候補生、学生パイロットおよびヘリコプター訓練生を訓練した。1954年10月1日から11日の間に、モンテレーはホンジュラスで洪水救助任務に参加した。1955年6月9日に再び予備役艦隊に戻るためペンサコラを出港、1956年1月16日に退役する。
1959年5月15日に航空機輸送艦(AVT-2)として艦種変更されたが、1971年5月にスクラップとして売却されるまでモンテレーはフィラデルフィアに停泊した。
モンテレーは第二次世界大戦での戦功により11の従軍星章を受章した。