サン・ジャシント (空母)
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艦歴 | |
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起工: | 1942年10月26日 |
進水: | 1943年9月26日 |
就役: | 1943年11月15日 |
退役: | 1947年3月1日 |
その後: | スクラップとして廃棄処分。 |
性能諸元 | |
排水量: | 11,000 トン |
全長: | 622.5 ft (189.7m) |
艦幅: | 71.5 ft(21.8m)(水線) |
全幅: | 109.2 ft (33.3m) |
吃水: | 26 ft (7.9m) |
最大速: | 31.6 ノット |
乗員: | 士官、兵員1,549名 |
兵装: | 40mm機銃28基、20mm機銃40基 |
艦載機: | 45 |
サン・ジャシント(USS San Jacinto, CV/CVL-30)は、アメリカ海軍の航空母艦。インディペンデンス級航空母艦の9番艦。艦名はテキサス独立戦争におけるサンジャシントの戦いに因む。その名を持つ艦としては二隻目。
サン・ジャシントはニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船所で1942年10月26日に軽巡洋艦ニューアーク(USS Newark, CL-100)として起工する。1942年6月2日に CV-30 に艦種変更、レプライザル(USS Reprisal)と艦名変更され、1943年1月30日にサン・ジャシントと再び艦名変更される。建造途中に CVL-30 に再び艦種変更され、1943年9月26日にジェシー・ジョーンズ夫人によって命名、進水する。1943年11月15日にハロルド・M・マーティン艦長の指揮下就役した。
カリブ海での整調航海の後、サン・ジャシントは太平洋の交戦地帯へ、パナマ運河、サンディエゴおよび真珠湾経由で出航した。マーシャル諸島のマジュロに到着すると、マーク・ミッチャー海軍中将率いる第58/38空母機動部隊の一部として太平洋艦隊に加わる。サン・ジャシントは第51航空団を乗艦させて出港する。
ウェーキ島、南鳥島攻撃部隊の僚艦護衛のための偵察任務を行った後、サン・ジャシントは1944年6月5日までにミッドウェー海戦以来の最大の海戦となるマリアナ沖海戦への参加準備を整えていた。その日第58空母機動部隊はマジュロからマリアナ諸島に向けて出航し、サイパン制圧部隊支援のための航空攻撃準備を行った。
このアメリカ軍による攻撃は日本軍の激烈な抵抗を引き起こした。6月19日に日本艦隊はアメリカ軍に対し400機以上を投入して攻撃を行った。続いて引き起こった空戦でアメリカ軍は300機を超える日本軍機を撃墜し、後に「マリアナの射的遊び The Marianas Turkey Shoot.」として語られることになる。このアメリカ軍の大勝に終わった海戦でサン・ジャシントの砲手は遊軍艦艇に接近した日本機を数機撃墜している。その日の夕刻、ミッチャー提督は退却する敵艦隊の追撃を全空母に命じた。艦載機の帰還は夜間に相当な混乱の中遂行された。日本軍艦載機がサン・ジャシントに着艦アプローチを試みたが、着艦フックが下がっていなかったため、信号士官は着艦信号を振るだけであった。
その後サン・ジャシントはロタ島とグアムに対する攻撃、戦闘偵察飛行、対潜哨戒任務に参加した。この攻撃期間中にサン・ジャシントの艦載機パイロットはグアム島上空で撃墜され、救命筏の中で17日間を過ごした後に救助された。
エニウェトク環礁で燃料及び物資を補給した後、サン・ジャシントは7月15日にパラオ攻撃に参加する。8月5日には父島、母島、硫黄島に対する攻撃を行った。エニウェトクで短期間停泊した後、僚艦がヤップ、ウルシー、アンガウル島、バベルダオブ島へ攻撃を行っている間に戦闘偵察飛行、対潜哨戒任務に従事する。日本軍機は地上に釘付けとなった。
9月2日、サン・ジャシント艦載機TBF アベンジャーのパイロット、後に大統領となるジョージ・H・W・ブッシュが敵空域で撃墜される。彼の同僚は二人とも死亡したが、ブッシュは脱出に成功し、後に空軍殊勲十字章を受章している。
アドミラルティ諸島のマヌスで物資補給を受けた後に、サン・ジャシントは沖縄攻撃に参加、上陸作戦に備えて地上基地の写真撮影を行う。海上給油を行った後、僚艦が台湾、北ルソンおよびマニラ湾に対する攻撃を行っている間10月12日から19日まで戦闘偵察飛行を行っている。この間の10月17日に艦載機が着陸の際に誤って機銃を艦橋に発射し、2名が死亡、24名が負傷した。この中には部隊指揮官が含まれており、レーダーに対して大きな被害が生じた。この事故にもかかわらずサン・ジャシントは作戦行動を続けた。
アメリカ軍が10月20日にフィリピン中部のレイテに上陸すると、サン・ジャシントは友軍への上空掩護を行った。10月24日にこの任務は栗田健男中将率いる日本艦隊発見の報により中断される。
サン・ジャシントは艦載機を投入し、エンガノ岬沖海戦で多大な戦果を上げた。10月30日に艦載機はレイテ島上空防衛を行う。その一方、サン・ジャシントは突入を試みた二機の特攻機を艦載砲で撃墜している。ウルシー泊地で停泊した後マニラ湾攻撃部隊に加わり、その後グアムで航空団を交代、第45航空団を乗艦させる。1944年12月の台風でサン・ジャシントは軽微な損傷を負う。
ウルシー泊地で修理を終えた後、サン・ジャシントと僚艦は南シナ海域に入り台湾の飛行場、カムラン湾、インドシナ、香港での艦艇攻撃を行う。第38空母機動部隊は海上で燃料補給を行い、敵に対する威圧とルソン侵攻部隊への支援、沖縄への攻撃を継続した。
続いてサン・ジャシントは第一次日本本土攻撃に参加する。1945年2月16日、17日の攻撃で艦載機は関東地方の飛行場上空で空戦を行い多数の敵機を撃墜している。これらの攻撃は硫黄島上陸支援が目的であった。その後上陸部隊への航空支援を行い、ウルシー泊地に帰還した。
九州沖での作戦活動時にサン・ジャシントはフランクリン(USS Franklin, CV-13)の大火災を目撃している。1945年3月19日には特攻機の突入をかろうじて回避している。続くアイスバーグ作戦では、沖縄進攻に対して航空支援を行った。4月5日に500機を越える敵機が突入攻撃を行い、アメリカ軍は戦闘機と高射砲で約300機を撃墜したが、多数が目標に達することとなった。サン・ジャシントの砲手は特攻機をようやく撃墜した。もう一機は艦前方50フィートの位置で撃墜された。沖縄進攻の間、サン・ジャシントはほとんど絶えず総員配置状態で地上軍を支援し、特攻機による攻撃を撃退した。4月7日にサン・ジャシントの艦載機は沖縄水上特攻部隊の一艦、駆逐艦浜風を撃沈している。
その後サン・ジャシントは九州の特攻拠点である鹿屋基地への攻撃や沖縄地上軍への航空援護を行った。6月5日に台風に遭遇するが損害はなく、その後レイテ島で第58空母機動部隊に配置され日本本土への最終攻撃を行う。7月9日から8月15日まで北海道及び本州の各都市を攻撃し、終戦まで沖合で作戦活動に従事する。日本の戦時捕虜収容所に食料と医薬品投下も行った。サン・ジャシントは1945年9月14日にカリフォルニア州アラミダで係留された。
サン・ジャシントは1947年3月1日に退役し、サンディエゴで太平洋予備役艦隊に加わった。1959年5月15日に航空機輸送艦(AVT-5)として艦種変更されたが、1970年6月1日に除籍され、1971年12月15日にカリフォルニア州ロサンゼルス、ターミナル島のナショナル・メタル・アンド・スチール社にスクラップとして売却された。
サン・ジャシントは第二次世界大戦での戦功により殊勲部隊章および5つの従軍星章を受章した。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Texas Navy hosted by The Portal to Texas History. A survey of the Texas Navy during the Texas Revolution and the Republic Era. Includes maps, sketches, a list of ships of the Texas Navy, and a chronology. Also includes photographs of 20th century U.S. Navy ships named after Texans or Texas locations. See photos of the USS San Jacinto.