ヨハン・アドルフ・ハッセ
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ヨハン・アドルフ・ハッセ(Johann Adolph Hasse, 1699年3月25日 - 1783年12月23日)は、ドイツの作曲家。
目次 |
[編集] 生涯
ハンブルク近郊のベルゲドルフに生まれ、最初は父親に音楽教育を受ける。素晴らしいテノールの声の持ち主であったため、彼は劇団員の道を選び、ラインハルト・カイザーが指揮するオペラ劇団に参加した(この劇団のオーケストラでは、その数年前にヘンデルが第2ヴァイオリンを演奏していた)。
ハッセは成功を収めたことでブランシュヴァイク=リューネブルクの宮廷劇場と契約し、この地で1723年に、オペラ「アンティゴノス Antigonus」をもって作曲家デビューを果たした。この最初の作品の成功によりブランシュヴァイク公は、ハッセを勉学の完成のためにイタリアへ遊学させた。ハッセは1724年にナポリへ行き、ニコラ・ポルポラの下についたが、彼はポルポラとは人間としても芸術家としてもそりが合わなかったようである。一方で彼はアレッサンドロ・スカルラッティと友人となり、彼が初めて作曲した二声のセレナーデ(裕福な商人の家族の祝宴で、当時のイタリアきっての歌手であったファリネッリとシニョーラ・テージによって歌われた)はスカルラッティのお蔭で出来た作品である。
この出来事によってハッセの名声は確立した。彼はすぐに非常に名の知れた人物となり、1726年にナポリのロイヤル・オペラのために作られたオペラ作品「セソストラート Sesostrato」は、彼の名をイタリア中に知れ渡らせた。1727年にヴェネツィアへ移ったハッセはそこで有名な歌手のファウスティーナ・ボルドーニと知り合い、1730年に結婚している。2人はその後すぐに、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世の頼みを引き受け、ドレスデンへ移った。ハッセはこの地に2年間滞在し、その後は再びイタリアへ行き、さらに1733年にはロンドンへ移った。この地で彼は後に、ヘンデルと対立している排他的な派閥に、この偉大な音楽の大家の競争者になるように誘いをかけられている。しかし彼は賢明にもそれを丁重に断っており、ロンドンには、オペラ「アルタクセルクス Artaserse」(1730年にヴェネツィアで初演)のリハーサルを監督することができるだけの期間のみ滞在した。
この間、ファウスティーナはずっとドレスデンに滞在していたが、民衆や、さらには運悪く選帝侯も、彼女に対する興味を失っていった。夫であるハッセは、まだ彼女に愛情を持っていたものの、長い間隔を開けてのみ彼女と会うようになっていた。フリードリヒ・アウグスト1世没後の1739年からハッセはドレスデンに定住し、1763年に夫婦は高額の年金をもらい受けて宮廷の仕事を引退した。しかしハッセはまだその名誉に甘んずることは出来なかった。彼は家族とともにウィーンへ移り、すでに存在していた多数の作品にさらにいくつかのオペラ作品を加えることとなった。彼の最後の劇場用作品は、ミラノでのオーストリア=エステ大公フェルディナンドの婚礼のために制作されたオペラ「ルッジェーロ Ruggiero」(1771年)である。
同時期にモーツァルトの作品が作られ、それから14年後に上演されたとき、ハッセは「この若者は我々を完全に凌駕するだろう」と認めたという。ハッセは妻の希望により彼女の生まれ故郷であるヴェネツィアに定住し、そこで没した。
[編集] 音楽
ハッセが作曲した作品には、120作品に及ぶオペラのほか、オラトリオ、カンタータ、ミサ曲、その他ほとんど全ての器楽曲が含まれる。1760年のプロイセン人によるドレスデン包囲の際に、選帝侯の出費によって完全版として出版される予定で集められた彼の写本のほとんどが焼失した。彼の作品の中のいくつか、たとえばオペラ「岐路に立つヘラクレス Alcide al Bivio」(1760年)などは出版されており、ウィーンやドレスデンの図書館には他の作品の自筆の原稿が所蔵されている。
18世紀前半の他の作曲家たちと同じように、ハッセは主に弦楽器によって構成される小オーケストラを用いていた。彼のアンサンブルは興味を惹くような特色は持っていない。彼はまた劇的な情熱を欲していたものの、優しく誠実なメロディの知識が豊富であり、そのことが彼の生涯における莫大な人気の源であるといえる。ファリネッリが、スペインの陰気な国王フェリペ5世に10年間にわたって毎日繰り返し歌って聞かせていた2曲のエールは、ともにハッセの作品であった。ハッセの妻ファウスティーナについて言うと、批評家達(チャールズ・バーニーなど)の一致した意見として、彼女が当時の声楽家にあふれていた時代において最も優れた歌手の一人であったといわれていたことも付け加えるべきであろう。彼女が亡くなった時期についてははっきりしない。おそらくは夫ハッセが亡くなるより少し前ではないかとされる。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
この記述はパブリックドメインの百科事典『ブリタニカ百科事典第11版』("Encyclopædia Britannica" 1911年版)に基づいています。