三国協商
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三国協商(さんごくきょうしょう)とは19世紀末から20世紀初に置いてイギリス・フランス・ロシア帝国の各国の間で締結された露仏同盟・英露協商・英仏協商によって作られた三国の協調関係を指した言葉。三国同盟と対立し、第一次世界大戦の主要な交戦国となった。なお協商とは国家間における同盟ほど強くない緩やかな協力関係の事であって商業活動の協力の事ではない。
[編集] 事前の経緯
当時の国際関係はドイツのビスマルクによって形作られていたいわゆるビスマルク体制、すなわちフランスの国際関係における孤立作戦が行われ、一時的にヨーロッパでは戦争の無い小康状態が作られていた。
しかしドイツにヴィルヘルム2世が即位するとビスマルクはこの皇帝と衝突し、1890年に退陣する。ビスマルクのくびきを離れたヴィルヘルム2世は既にビスマルクによって形成されていた三国同盟をビスマルクの思惑とは異なる方向に利用してオーストリア・ハンガリー帝国・イタリアと接近し、当時の植民地の過半を所有していたイギリス・フランスから植民地のパイを奪い取ろとうと画策した。またこれもビスマルクによって調印された独露再保障条約の更新を拒否する。
[編集] 三国協商の成立
これによって外交的に孤立したロシアは同じく孤立していたフランスに接近し、翌年の1891年から1894年にかけて交渉を行い、1891年に政治協定を1894年に軍事協定を成立させた(露仏同盟)。
その動きを見たドイツは行動に移り、いわゆる3B政策(バグダード・ビザンティウム・ベルリン)を推進して西アジアへの進出を図り、イギリスの3C政策(カイロ・ケープタウン・カルカッタ)との対立を深めていった。こうなると最強国イギリスの力をもってしても西アジアにおけるドイツ・東アジアにおけるロシアと言う二つの敵を独力で抑える事は難しくなり、長い間保持してきた「栄光ある孤立」を放棄し、1904年に長年の宿敵・フランスと英仏協商を1902年に日本と日英同盟を結んで、それぞれドイツとロシアの伸張を食い止めようとした。
更に日露戦争におけるロシアの敗戦により、東アジアにおけるロシアの伸張が抑えられた今ならばロシアとの利害の調整が可能になると考え、1907年に英露協商を結んだ。この露仏同盟・英露協商・英仏協商によって作れる三国の協調関係を指して三国協商と呼ばれる。
また、三国協商成立に伴って三国干渉以来のロシア・フランスによる日本(イギリスの同盟国)の中国大陸進出抑制路線の変更を迫られた。これに基づいて1907年には日仏協商、翌1908年には第2次日露協商が締結されて、日本も三国協商の枠組に実質上参加することになった。
[編集] 結果
この三国協商と三国同盟とは当時の列強が二分して合い争う状況を作り出した。しかし三国同盟からは早々にイタリアが脱落し、1902年にはフランスとの間で仏伊協商を結ぶ。更にオーストリアも国内の民族闘争の激化により機能不全に陥り、実質上は三国協商対ドイツの様相を呈すことになる。
その後のバルカン半島の緊張の高まりに連れて協商の重要性は高まり、三国は更に関係を緊密にしていく。第一次世界大戦では三国協商の連合国勢力に対して、ドイツ・オーストリアはオスマン帝国を引き込んで同盟国勢力を作って戦い、連合国側の勝利に終わる。
しかし戦争の途中の1917年にロシア革命が起こり、新たに誕生したソビエト連邦は翌年に単独でドイツと講和し、これにより三国協商は消滅した。
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